医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第 64回

ケイティ・ワーニッキー事件(1)
実の娘を「誘拐」した母親

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2640号よりつづく

全米に広がった 「アンバー警報」

 96年1月,テキサス州アーリントン市で,自転車に乗っていた9歳の少女,アンバー・ヘイガーマンが,通りがかりのトラックに無理矢理乗り込まされるのを隣人が目撃した。「誘拐」と直感した隣人は,すぐ警察に通報したが,猛スピードで走り去ったトラックの行方はようと知れなかった。地元警察,FBIによる必死の捜索もむなしく,4日後,誘拐地点から4マイル離れた排水溝で変わり果てた姿のアンバーが発見された。

 通報も速やかであったうえに,警察の対応も迅速であったにもかかわらず,被害児を救うことができなかったこの事件は,地元コミュニティに大きなショックを与えた。「子供が誘拐された時は,捜査当局だけでなく,地域ぐるみで捜索の輪を広げなければいけない」との反省の下,「子供の誘拐に際し,テレビ・ラジオ局が,『気象警報』と同じように誘拐事件の情報を繰り返し放送する」警報システムが考案された。

 97年にダラス市で始まったこの警報システムは,被害者の名を取って「アンバー警報」と呼ばれるようになったが,またたくまに全米に広がり,これまで,少なく見積もっても数十人の小児が,この警報システムのおかげで命を救われたとされている()。

「誘拐犯」として 逮捕された母親

 6月3日,テキサス州ヌエセス郡保安官事務所が,アグア・ダルス市に住む12歳の少女,ケイティ・ワーニッキーが「誘拐」されたと,「アンバー警報」を発令した。ケイティが連れ去られたと見られる車の型・色・ナンバーなどとともに,容疑者に関する情報も詳細に放送局に伝えられた。

 当局が,アンバー警報を発令したのは,ケイティの命に「差し迫った危険がある」と判断したからに他ならないが,誘拐の容疑者として名指しされたのは,ミシェル・ワーニッキー(37歳),ケイティの母親だった。翌6月4日,ヌエセス郡保安官は,ワーニッキー家が所有する牧場で母子を発見,ケイティを保護するとともに,母親のミシェルを逮捕した。

事件の背景に「インフォームド・コンセント」の問題

 なぜ,実の母親が,子供の命を危険にさらした誘拐犯として,警察に追われた末に,逮捕される事態になったのだろうか? そもそも,ケイティの母親が「誘拐犯」扱いされた理由は,「医学的に必要な治療を拒否して子供の命を危険にさらしている」と,テキサス州児童保護局が判断したからだった。実は,ケイティは,進行期のホジキン病で05年1月から化学療法を受けていたのだが,「化学療法後の放射線治療追加」が必要と,「標準的治療」を勧める主治医に対し,両親は,「娘の『癌』は消えた。有害な放射線療法を受けさせる必要はない」と言い張り,放射線治療を受けさせることを拒否していたのだった。

 児童保護局が,ケイティが受けるべき治療に関する決定に介入するようになったのは,「ここで治療を中断したら命にかかわる」と匿名の通報を受けたからだった。ケイティの両親,医療関係者双方からの事情聴取の後,児童保護局は「治療を受けないとケイティの命に危険が及ぶ。両親が治療を拒否する以上,州がケイティの身柄を保護したうえで治療を受けさせなければならない」とする決定を下した。

 しかし,児童保護局がケイティの身柄を保護しようとした矢先,先手を打った母親がケイティを「さらって」行方をくらましてしまったのだった。児童保護局から「一刻も早く治療を受けさせなければ,命に差し障る」と要請を受けた保安官事務所としては,「生命が損なわれる危険が高い誘拐事件」である以上,地域一帯に「誘拐情報」を繰り返し流す「アンバー警報」を発する以外に選択の余地はなかった。かくして,ケイティを連れ去った母親も「凶悪誘拐犯」として追われることになったのだが,その背景には,小児癌患者の治療を誰が決めるかという,「インフォームド・コンセント」の根幹にかかわる問題が存在したのだった。

「誘拐」事件が「医療」事件に

 子供が受けるべき治療について親が選んだ選択を,州が覆すことができるのか,ケイティ・ワーニッキーの「誘拐」事件は,全米の注目を浴びる「医療」事件となった。一方,「子供に必要な治療を受けさせることを拒否した」と,児童保護局から「親として失格」の烙印を押されたケイティの両親は,「本人が放射線治療をいやがっている」と,カメラの前で証言するケイティのビデオを公開した。

 「体重も増えたし,髪の毛も戻ってきたわ。気分は最高だし,放射線治療なんか必要ない。誰も私の希望を聞こうとはしないけれども,私の体よ! もし,放射線が何の害もないというのなら,先生が先に放射線を浴びて,害がないことを証明してほしいわ」

 化学療法のあと,まだ髪の毛が元には戻っていない「坊主頭」のケイティが,カメラに向かって「放射線治療なんかまっぴら」と断言する姿が,繰り返し,全米に放映されたのだった。

この項つづく


註:アンバーの誘拐殺人事件は未だに解決されていない。