医学界新聞

 

名郷直樹の研修センター長日記

20R

マイナスの人間成長

名郷直樹   地域医療振興協会 地域医療研修センター長
横須賀市立うわまち病院
伊東市立伊東市民病院 臨床研修センター長


前回2634号

□月×○日

 自分は何がしたいのか。さよならの次にしたいこと。自分は何もせずに,毎年へき地医療の現場へ多くの医師を送り出すこと。そんな虫のいい仕事があるか。でもそんな虫のいい仕事がしたい。研修医には気楽なようでシビアな研修を要求し,自分には気楽なようで気楽な仕事を課す。そんなのやっぱり無理か。一生懸命やる。がんばる。無理する。やり遂げる。それは確かに大事なことだったけど,一生懸命やらない。がんばらない。無理しない。やり遂げない。それもまた大事なことだ。右肩上がりを維持し,さらに進めていくことは大事だが,右肩下がりを受け入れることもまた大事だ。研修医は右肩上がり,わたしは右肩下がり。あえて右肩下がり。別に年をとったから,疲れたからではなく,自ら望んで右肩下がり。右肩上がりの中での努力と,右肩下がりの中での努力。別にどちらがどうということじゃない。似たようなことだと思う。右肩下がりの中での前向きな努力。一生懸命やらないための努力。がんばらないための努力。無理しないための努力。

 そんなのやっぱりだめですか。健康,長生き,幸せ,それは確かにそうだけど。でも世界最長寿国での長生きなんてちょっと変だ。むしろもっと早く死ぬべきではないか。そんな考えがあってもいいじゃないか。でもそれって死にたいってこと? そうじゃない。別に死にたいわけじゃない。むしろ死んじゃいけないと思う。でも死んじゃいけないって思うということは,やっぱりどこかで死にたいと思ってるってこと? でもスレスレ理論によれば,これが生きることだ。生きたいような,死にたいような,そのスレスレ。

 何か突拍子もないことのように思うかもしれないが,テレビでいつも聞いているようなことだ。マイナスの経済成長なんてよく聞くじゃないか。マイナスの経済成長って,なんだかちょっと変だけど。変というより,経済の衰退を隠しているだけ。実際はそうだ。でもなんとなく今の自分にぴったり来る部分がある。意味を取り違えているというかもしれないけど,あえて意味を取り違えたい。経済の衰退でなく,マイナスの経済成長,なかなかいい言葉だ。GNPが減ることは成長することだ。そうだとすればマイナスの人間成長ってのはどうだろう。GJP,自分総生産が減るのもまたいいことだ。それを目指したい。

 何の話かぜんぜんわからなくなってきたかもしれない。医療の話でもう一度。週1回の外来だけだけど,一応まだ医者なので。この10年根拠に基づく医療なんてことを一生懸命やってきた。正しいことをやろう。さらに正しいことを正しくやろう。根拠に基づく医療の原則だ。正しいことをやる。明確なエビデンスがある医療を行おう。でもそれだけでは足りない。高血圧の治療にいくら明確なエビデンスがあるからといって,無理やり薬を飲ますわけにはいかない。正しく医療を提供する。患者の希望を引き出し,医者からはよく説明し,お互いの話し合いの上で医療を提供しよう。正しい医療を正しく実施する。

 でも正しいって何だ。正しく実施というのはまだわかる。正しい医療って何だか,もうさっぱりわからなくなってしまっている。医療の中では,まだみんな正しいことを正しく行おうと一生懸命だ。それはもちろん重要なことなのだけれど。山のような検査をし,山のような薬を飲むことは正しいことなのだろうか。そもそも人間が長生きすることは正しいことなのだろうか。まだまだそんなことを疑問形で考えている。のんきなもんだ。

 もうそんな無邪気な医療で喜んでいるわけにはいかない。いくら血圧の薬が有効だといっても,俺は飲むつもりはないよ。あんたに何千円も払うくらいなら,何千円分かうまいもの食ったほうがいいに決まってる。そんなふうに患者に言われたら返す言葉がない。医療のプラス成長ばかりにとらわれていては決して出てこない発想だ。医者がそのように考えることはとても難しいが,医者にかかることもなく,ごく自然にそう考えている多くの人がいる。医療の恩恵をマイナスすることでのプラス。マイナスの健康成長。それも医者だからそんなふうに考える。でも医者にかからない人にとってはそんなのはじめからプラスだ。医者にかからないことはいいことだ。当たり前。そうはいっても,健康のために,病気を克服するために,これまでやってきたことだって,それなりの仕事だった。高血圧の治療にはちゃんとプラスがある。そのプラス分に敬意を表して,やはりこれをマイナスの成長と呼ぼう。

 マイナスの人間成長。大きな声で言うことじゃないけど,21世紀にふさわしい言葉だ。すべてがマイナス成長する時代。迷走する教育,これは教育のマイナス成長。ゆとり教育というのも実は時代を先取りしていたのかも。まさにマイナスの教育成長という感じ。もう一度見直そう。ゆとり教育,やっぱりかなりいいとこいってんじゃないか。教えることによる教育はもう終わった。教えないことによる教育,これからはそれが主流になる。でもそれって徒弟制度の教え方そのもの? 教えることは何もない。盗め。昔はそんなやり方をしていた。話はぜんぜん違うけど,進行し続ける環境破壊,これもマイナスの環境成長か。これはこれまでの世の中のプラスの王道だ。道が舗装され,ビルが立ち並び,車が高速道路を走り,かつてはこれもまさにプラスだった。自然環境の側から言えば,今やそれがマイナスのプラス。結局ぐるぐる回っているだけかもしれない。

 どっちを向いても前! 高校2年の時の寄せ書きに,宇佐木君だったっけ。いいこというなあ。前にも後ろにも,右にも左にも,上にも下にも成長したい。ずいぶん前や上に成長した。そろそろ後ろや下にも成長しなければ。でもやっぱりサボりたいだけ?


名郷直樹
1986年自治医大卒。88年愛知県作手村で僻地診療所医療に従事。92年母校に戻り疫学研究。
95年作手村に復帰し診療所長。僻地でのEBM実践で知られ著書多数。2003年より現職。

本連載はフィクションであり,実在する人物,団体,施設とは関係がありません。