医学界新聞

 

対談

ゲノム研究の新たなる挑戦<後編>
シドニー・ブレンナー博士と語る
Sydney Brenner氏
(2002年 ノーベル医学・生理学賞受賞者)
清水 信義氏
(慶應義塾大学医学部教授・分子生物学)


2637号よりつづく

ゲノム・スーパーパワーを探す

清水 先生のご研究の歴史をうかがっていますと,特定の研究課題に対して,特定の生物を選択し活用してこられたように思います。それぞれの生物には他の生物にはない無比の特性があったということでしょうか。

ブレンナー ええ。昔,ホジキンとハックスレイは,イカの巨大神経(巨大軸索)を発見し,それを用いて電気生理学の実験をしていました。私はノーベル賞の受賞講演で「問題を正しく設定すれば,その特性を担っている生物をどこかで見つけることができる」と話しました。それがバクテリオファージであり,線虫(C. elegans)であり,フグでした。フグはゲノムのモデル,そしてタコも進化のモデルになると思います。

 近年の技術の進歩には目を見張るものがあります。タコの遺伝子を取り出して,別のシステムに導入して研究することができますし,可能性は無限大になっていると思います。

清水 私は個人的にどの生物にもゲノムのDNA塩基配列に記録された特別な力があると思っています。私はそれを「ゲノム・スーパーパワー(GSP)」と呼び,その力を見つけようとしています。GSPを見つけることは,まさに先生がタコの研究でされようとしていることと同じです。

ブレンナー GSPとはまた奇抜なアイデアですね。それを見つけなければなりません。私の求めるスーパーパワーは,ヒトの脳です。600万年も前に私たちは類人猿から分岐しました。それは生物学的にはとても短い時間ですが,ヒトになるまでに何回,突然変異が必要だったのかはわかっていません。ヒトの進化にとってとても重要なことなのですが,説明さえできていないのです。人間は道具を使うことができますが,それは手の筋肉によるものです。私はよく学生に「ヒトの進化について学びたければ,手の筋肉の発達について勉強しなさい」と言っています。なぜなら,ヒトゲノムに記録された情報が筋肉の発達を決めていると考えられるからです。これは解析を進めていくべき興味深い問題ですし,現代の発生生物学と遺伝学で解決できると思っています。

■再生医療・遺伝子治療への展望

清水 続いて,科学分野における最近のトピックスについて,先生にご意見をうかがいたいと思います。

 まず,先生はいわゆる幹細胞を損傷組織の再生に用いる再生医療の開発研究と,その将来性をどのようにお考えですか。

ブレンナー 再生医療はとても大きな可能性を持っていますが,容易なことではないと思います。拒絶反応がありますから,どの細胞でも患者に与えられるわけではありません。適合性の問題の解決には時間がかかるでしょう。

 もちろん大事なことですから,慢性疾患などの多くの患者さんのために使えるようになることを願います。パーキンソン病の治療にも役立つかもしれないと言われていますね。

 その一方で,誰が実施するようになるのかという点が問題でしょうね。製薬会社は医療行為ができません。また,患者が薬局に行って,「幹細胞を1リットルください」とも言えません。再生医療は新しい医療機関と新しい方法で実施することになるでしょうから,社会に大きな変革がもたらされると思います。

清水 そうですね。発生途中のヒト胚から幹細胞を取り出して,特定の臓器形成を誘導することも研究されていますが,これについてはいかがでしょうか。特に受精卵は細胞の分裂と分化を繰り返してさまざまな臓器となり,人間の身体が作られていくわけですが,どの時点から「人間」と呼ぶべきとお考えですか。

ブレンナー それは難しい質問ですね。まず生物としての「人間」を定義しなければならないと思いますが,私たちには脳があり,言語があり,さまざまな能力があります。ですからどの時点から人間なのかというお尋ねには,「人間としてできるすべてのことを学習する能力を得た時です」とお答えします。「人間になる能力」を持った時,つまり脳が働き始めた時,人間と言えるのではないでしょうか。

 非常に興味深い研究ではありますが,それよりもやはり「あなたの組織から細胞を一部取って,そこから幹細胞を得ることができるか」ということの方に興味がありますね。将来的には,産まれた時の臍帯血を保存しておけば,そのようなことができるようになるかもしれません。組織再生の原理はマウスで研究すればもっと簡単に発見できるかもしれません。一方,下等な生物の中には目や脳だけでなく身体全体さえも再生することができるものがいます。そのような力はどこからくるのでしょうか。

清水 それこそ,GSPではないでしょうか。

ヒトクローンの是非

清水 ヒト胚について触れたところで,ヒトのクローンについておうかがいしたいと思います。例えば,先生ご自身のコピーを作ることについて,どうお考えですか。

ブレンナー それはナンセンスです。アメリカで講演した時,聴衆の1人が立ち上がって「なぜ自分自身のコピーを作って部品のスペアを確保してはいけないのか」と質問しました。私は,「気をつけたほうがいいですよ。コピーに本物がスペアにされてしまうかもしれませんからね」と答えました。質問者は,コピーも人間だということを考えず,単に自分の予備が欲しいと思っただけなのでしょうね。指を失ったらコピーから切って使えばいいというような発想です。こうした考えは,基本的に間違っています。

 クローン人間は,双子(注:一卵性双生児)の兄弟のような関係ですが,年齢も離れており,1人の違う人間に成長します。ゲノムは同じでも,人間にはそれぞれ記憶があり,異なる感情があり,夢があります。

 したがって,クローン人間についてどう思うかという問いには,「ゲノムのクローニングとヒトのクローニングは違う」と答えます。人間の身体は単なる遺伝子の固まりではないのです。

 さらに,仮に社会がクローン人間を望んだとしても,実際はとても難しいのです。通常の生殖と違って体細胞からスタートするわけですから,長期にわたってどんな問題が出てくるかまったくわかっていません。実際「ドリー」には呼吸器や他の組織に障害が起こっていました。クローン人間は決して許されないことだと思っています。

疾患解明へ向けた遺伝子研究

清水 細胞治療についてご意見をお聞きしましたが,遺伝子治療についてはいかがでしょうか。遺伝子治療の方が長い歴史がありますが。

ブレンナー 細胞治療と遺伝子治療は将来的に一体化するのではないかと思います。つまり,組織を修復するために細胞を取り出して,その遺伝子を修復し,元に戻す。私は「生物治療(biotherapy)」と呼びたいですね。

清水 なるほど。それではDNAの塩基配列レベルで個人差を研究するSNPs(一塩基多型)研究と関係させて,その効用についてはいかがでしょうか。

ブレンナー 役に立つとは思いますが,筋道をつける必要があります。大雑把に言えば,疾患は遺伝子と関係があります。特に統合失調症などの精神疾患は関連遺伝子を見つける研究が重要だと思います。

清水 しかし,とても難しい研究ですね。

ブレンナー とても難しく,大きな挑戦です。深刻な社会問題ですから。人口の10%は脳によって引き起こされる病気をかかえていると言われています。精神療法で緩和することはできるでしょうが,やはり原因を完全に解明することが大事と私は考えます。

「社会治療」への道

ブレンナー しかし,われわれが考えなければならないのは,むしろ「社会治療(social therapy)」だと思います。多くの疾患には,社会治療が有効です。

清水 社会治療とはどのようなものでしょうか。

ブレンナー 社会治療は時に公衆衛生とも呼ばれるものですが,非常に重要です。19世紀には衛生政策によって,今日の抗生物質で救われた人を全部あわせたよりも多くの人の命が救われました。

 また,エイズ(HIV)は社会治療でコントロールすることができます。薬でもワクチンでもなく,社会に対して「注意するように」と言うのです。それが第一歩です。さらに多くの病気は肥満と関係があります。肥満の治療も薬ではなく,飲食をコントロールすることが重要です。

清水 そのためには食習慣を改善することが大切ですね。

ブレンナー その通りです。そのためにはファスト・フード店などは閉鎖すべきです(笑)。正直なところ,私たちは自分の健康にもっと責任を持たなければならないと思います。現代人は何でも好きなものを好きなだけ食べていますが,医学は「薬を飲め」と言うだけです。

 一般の人たちに,新しい医療教育をしなければなりません。この1万年で地球環境は激変しました。生物学的進化で対応するには,すでに手遅れの状態になってしまっています。

 私たちは文明の発達によって,誤った方向に環境を変え,その環境に適応してしまいました。私たちのゲノムを今の環境に適応できるように変えていくよりは,地球環境を改善し本来の状態を取り戻すべきです。このことに人々は気がつき始めているとは思いますが。

■今の科学のあり方を問い直す

清水 現在,日本では大型プロジェクトほど政府に好まれる傾向にあります。また,基礎研究と応用研究とを比較した場合,その支援の割合は応用研究の方が高い。ですから,私は大学の教授として,基礎研究をめざすアカデミズムのよい伝統を守り育てるにはどうしたらよいか考えることがあります。若い人たちを教育し,次世代を担う優秀な研究者を生み出す環境を作るには,どうすればよいでしょうか。

ブレンナー まさしくアカデミズムは守られ,維持されるべきだと思います。どこの政府も大型プロジェクトに乗り換えていますから。

清水 こうした傾向は世界共通ということでしょうか。

ブレンナー そうです。私はこうした大型プロジェクトを「工場科学(factory science)」と呼んでいます。工場科学は人材を生み出しません。みんな工場労働者のように扱われます。朝仕事に来て,夕方,家に帰るという具合です。そのような所では次世代の科学者を育てることはできません。なぜならば,科学とは何かと言えば,問題を解決する最善の手段(道)であるからです。それは諸々の問題に対峙し解決することそのものです。確かに,ヒトや生物の多様性から多くのことを学ぶことができます。

 今後,分子遺伝学における最も興味深い発見は医学研究の分野からもたらされると思います。しかしその結果,現在生物学の多くの部分が,いかに薬剤を探索するために役立てられるかというような,製薬会社を助けるための方向に向いてしまっています。

 「大学の役割とは」,「大学の産物は何か」と問われれば,それは人材を輩出することです。大学は人材を生み出すところです。若者こそが将来の問題に対処していく者たちですから,若者を教育する必要があるのです。私たちの経験を生かしたトレーニングをすべきで,それこそやるべきことなのです。

 しかし,私が考える「工場科学としての生物学」では「心臓の具合が悪くなった,どうすればいいか」と聞くと「ああ,それなら心臓を開いて薬を投入すればいいよ」と答えるでしょう。そこには科学はありません。それは説明に過ぎません。これからの科学とは,心臓がどうなるのかを予測できることです。心臓の構造がわかっているのですから,次に何が起こるのかを予測できるはずです。言い換えれば,「分子生物学で心臓の働きを予測できるのか」ということであり,同じことがすべてに当てはまります。こうした問題に取り組むことも面白いと思います。

2つのレベルで生物を理解する

清水 そのようなことは分子のレベル,つまり分子生物学で説明がつくとお考えですか。あるいはまだ私たちの知らないことによってでしょうか。

ブレンナー 分子以外ではないと思います。よく「システムを全体として見たとき,部品は全体より重要だ」と言いますが,全体は部品だけではできません。部品とそれらの相互作用が重要なのです。したがって,部品とメカニズムがわかり,それを正しい枠組みに入れれば,予測可能となるのです。

 正しい理解のレベルとは,分子や遺伝子だけでなく,細胞レベルも含めるべきだと思っています。細胞は分子によって作られているので,細胞レベルで正しく理解するための方法は,分子や遺伝子レベルの理解からくるのです。さらに,細胞の相互作用によって生物ができているのですから,少なくとも分子レベルと細胞レベル,2つのレベルでの構築を理解することが重要となります。おそらく,中間を理解しないで,分子から一挙に生物にいくことは不可能でしょう。他にも何かがあるでしょうが,その階層(ヒエラルキー)が最も重要です。

 したがって,遺伝子の働きが私たちの意思や行動を決定しているのではありません。行動のほとんどは学習によって獲得されています。しかし,遺伝子の機能によっては,別の何らかのシステムが分子から作られ,その中でプログラムされている行動も存在するかもしれません。それが,精神生物学と細胞生物学を統合して理解するための1つの課題です。次に,それがどのように情動,信念,知覚を与えているのか,システムに隠れたすべての問題を解明しなければなりません。

清水 それは「システム生物学」と呼ばれているものですか。

ブレンナー 違います。「コンピューテーション生物学」です。「システム生物学」とは,別のものです。システム生物学では全体のシステムを見て,それから内部を見ます。いわば,トップ・ダウンで,「逆向きプログラム」のようなものですね。

 一例をあげましょう。誰かがドラムを叩くために部屋に入りました。私は外から,すべてを録音します。そしてその音からドラムの形や特徴を推定しようとしますが,正確にはできないでしょう。なぜなら,壁で遮られていて十分な情報が足りないからです。

 一方,私も部屋に入って直接ドラムを見て調べれば,どのように音が出るかなどを知ることができ,新たな音を生み出すことさえできます。これを「前向きプログラム」と呼んでいますが,科学は「前向きプログラム」の解明に最も適しています。「逆向きプログラム」では,ほとんど不可能か,限られた形でしか解答を与えてくれません。「システム生物学」では,それができると考えられているようですが,先ほどの例で言えば,得られる答えにはたくさんの雑音が入ってきますので,正確に測定できません。私は「システム生物学」とはまったく反対の立場です。

次世代の科学者たちへ

清水 先生のいろいろなお考えは,ご自身で培われたものと思います。単に教育を受けたからといって生まれるものではないでしょう。次世代の若い人たち,未来の科学者たちはどうしたらよいでしょうか。

ブレンナー 私が若い人たちへ伝えたいことは,「多少の無知も大事だ」ということです。経験豊かな科学者と一緒だと,知りすぎてしまって新しいことに挑戦しなくなります。頭で考えて「できない」と思ってしまうからです。しかし,純粋で無知な若者は,何でもやってみたいと思い,とにかく実行する。すると,うまくいくことも多いのです。

 一方,生物学の基盤となっている事柄のいくつかは,物理学など他の学問の分野の人々によってもたらされてきました。最近気がついたのですが,若い人たちは常に「アウトサイダー」(注:コリン・ウィルソンの造語。正統に甘んじず,異端を恐れない人間のこと)だということです。アウトサイダーは別の分野からやってきて,新しい科学を創り出します。

 特に子どもたちは自然に大変興味を持っています。ある時,日本の財団の会合で,物理学の教授が,科学に興味を持つようになったのは,小さい頃にラジオを分解しては組み立て直していたことから始まったという話をされました。私も,小さい頃ハエで同じことをしていましたと話しましたが,ハエは一度バラバラにすると,もとには戻せませんでした。それがきっかけで,私は生物学を学ぶことにしたのです。

清水 それでは最後に,日本の若い研究者・若者たちに向けて,あらためてメッセージをお願いします。

ブレンナー 私は若者たちにいつも言っています。「Work hard!(一生懸命努力しなさい)」。

清水 大変有意義にご討論いただき,ありがとうございました。

(終了)