医学界新聞

 

名郷直樹の研修センター長日記

19R

センター長の仕事って? 再び

名郷直樹   地域医療振興協会 地域医療研修センター長
横須賀市立うわまち病院
伊東市立伊東市民病院
東京北社会保険病院臨床研修センター長


前回2630号

×月△日

 一コマ目のローテートを終え,2度目の1週間のへき地での研修を終え,二コマ目のローテートも始まった。一体何が起こるかわからない一コマ目からすると,ずいぶん研修医の気持ちも落ち着いただろう。私の外来も週2回から1回に減った。いよいよ本格的な教育専任医師としての仕事場になってきた。いい感じだ。5時に帰宅できる日もそう遠くはない。なんて思ったら,とんでもなかった。突然の研修医の反乱。

「センター長はなぜ現場へ出ないのですか」
「研修医が病棟で病院に溶け込もうと必死に努力しているというのに,センター長はなぜ何もしないのですか」

おっしゃるとおりです。でも私は教育専任で,臨床をしてはいけないのです。私の現場はそっちでなくこっちなのです。そんな説明をしたところで,何も伝わらない。困ったもんだ。答えあぐねていると,さらに容赦なく,次の批判が投げつけられる。

「センター長は,一体何に対して給料をもらっているのですか」

臨床以外の仕事で給料をもらっているのだけど,働いているようには見えないのだろう。研修のためのシステム,組織作りが仕事だといっても,そんなのは事務のやるべき仕事だとでも思うのだろう。

「組織やシステムと,個人個人の研修医とどちらが大事なのですか」

きっついなあ。組織やシステムは,個々の研修医を育てるための手段であって,目的じゃない。個々の研修医育成のための手段として組織が必要なのだ。しかしこれも伝わりにくいなあ。

「とりあえず週半日の外来だけが臨床の現場に出る仕事だけど,できればこれもやめようと思っているんだ。病院の各科の指導医とも少し距離を置いて付き合おうと思っていて,今の距離を縮めようとは思っていない。ただもちろん個々の研修医がへき地医療の専門医として育っていくことが目標で,そのための手段としての組織作りが私の仕事なんだよ。ちょっとわかりにくいと思うけど」
「そういうふうにはっきり言われるとどうしようもありませんが,わかりにくいです。ただ現場に出る気がないということははっきりしたので,それでいいです」

 あまりのギャップの大きさにめまいがする。教育専任の医師を受け入れがたいのは,指導医だけでなく研修医も同じなのだ。自分自身だって,なるべく働く時間を少なくして,好きなことをやりたいという気持ちがあるわけだし。今度の教育専任医師の仕事だって,どうしてもその仕事がやりたくてここへきたわけじゃない。むしろへき地の医療現場に疲れてというのが正直なところだ。研修医に衝かれると困る部分や言い訳できないところがたくさんある。ちょっとまいった。くじける。そんな品行方正を求められても困るのだ。

 医療の現場を離れるために,何もしないために,じっくり考えるために,のんびりやるために,自分の時間を大切にするために,家族との時間を大切にするために,そんな自分に都合のいいことばかり考えてここへ来たが,まったく甘かった。でもお前だって俺の年くらいになればちょっとは休みたいと思うだろう。

 もともと別にたいしたことがしたいわけじゃない。そこらに転がっていた何かに価値を見出して,何とかやってきたに過ぎない。たまたまそこにへき地医科大学があり,たまたまそこにへき地診療所があり,たまたまそこにへき地専門医育成の話があっただけのことだ。あらゆる可能性の中から価値あることを探し出したわけじゃない。限られた可能性の中から,それも何か選んだというよりは,たまたま何かの弾みで拾ったようなものに,あえて価値を見出してきた。対象なんてなんだっていいのだ。どうせ選択肢は限られている。限られた選択の中ですでに正解は失われている。本当は寺山修司になりたかった。本当は井上陽水になりたかった。本当はナンシー関になりたかった。でもそんな選択肢はない。何か価値ある対象やひとつの正解を求めているわけじゃない。じゃあ何をしたいのか。今,何をしたいかといえば,今の研修医とのやり取りを切り抜けたい。それだけ。

花に嵐のたとえもあるさ,さよならだけが人生だ。

故郷にさよなら。
大学にさよなら。
研修病院にさよなら。
大学の教室にさよなら。
へき地診療所にさよなら。

さよならは前向きのパワーだ。やる気の源。
現場にさよならし,もう戻らない。それがやる気の源だ。

現場に出ないのはけしからん。
現場との距離を近づける努力が足りん。
挙句の果てには,給料泥棒。

言いたいこと言ってくれるじゃないか。こういう時は全部人のせいにしてしまいたい。やる気のなくなったのは全部そいつのせいだと。

人の口に戸は立てられず。
自分の口に戸は立てられる。

ただ往々にして,人の口に戸を立て,自分の口に戸は立てられないのが常である。

他人をあやつり人形のように操ることはできない。
自分は自分の思うままに操ることができる。

ただ往々にして,他人を自由に操りたいと思い,自分は何か自分の思うままにしていないと感じるのが常である。

研修医に変なことを教えてしまった。

「論文を読む時に気をつけること。それは,論文にだまされるな,なんてことじゃない。論文を読んでいる自分にだまされるな,そっちのほうだ。自分自身に対する批判的吟味を忘れたら,論文なんか何の役にも立たない。」

「自分自身に対する批判的吟味を」,という標語は,自分自身に向けられた時のみ有効である。他人に向けてしまえば,他人を批判するという逆のことに成り下がる。

研修医の去り際の一言。これはこたえた。

「センター長は自分自身に対する批判的吟味ということを強調されますが,センター長自身の批判的吟味はどうなっているのですか」

 自分に対する批判的吟味なんてのは当たり前のことだ。当たり前すぎて,ばかばかしい。あまり当たり前のことを教えるもんじゃない。身から出たさび。自分自身のことばかり考えるのはやめて,自分自身に対する批判的吟味はやめにして,研修医のことをもっと考えないといけないのか。多分そんなことじゃない。センター長の仕事って? 楽すること? 楽をするのは難しい。


名郷直樹
1986年自治医大卒。88年愛知県作手村で僻地診療所医療に従事。92年母校に戻り疫学研究。
95年作手村に復帰し診療所長。僻地でのEBM実践で知られ著書多数。2003年より現職。

本連載はフィクションであり,実在する人物,団体,施設とは関係がありません。