医学界新聞

 

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離島医療の現場を訪ねて
南の島の診療所に見たフロンティアスピリッツ

亀山大介(琉球大学医学部・5年生)


 2004年8月,私は沖縄県立宮古病院附属多良間診療所にて実習を行った。多良間村は人口約1400人,宮古島の西方約67km,石垣島の北東約35kmの海上に位置し,楕円形の多良間島と,さつまいも形をした水納島の2島からなる。観光産業中心の沖縄にあってまったく観光化されておらず,手つかずの自然が残っているところだ。

盛況の診療所外来

 「大きく吸ってー,おーきくっ!」大きな声が待合室までひびいてくる。

 私が診療所に着いたのは午後1時過ぎ,午前の診療時間は過ぎているが,まだ患者さん数名が診察を待っている。受診者層は高齢者と,この島は出生率が全国一の地域でもあり,ことのほか小児が多い。高齢者は,やはり心疾患や高血圧,糖尿病で通院している人が圧倒的に多く,小児は喘息やけがが多い。「おばー,上等よー」。診察室で若い医師が関西,沖縄方言のチャンプルー(※1)で次々診察をこなしてゆく。診療所長の豊川貴生先生だ。大阪出身で,沖縄の琉球大学を卒業して3年目,白衣でなくサージカルスクラブを愛用するところに機動性重視の実践的な性格を感じさせる。

 ようやく午前からの診療が終わったのが午後2時半,「予約外来は通常午前のみだけど,患者の数が平均30名弱,40名を超えることもざらで,とても診療時間内では終わらず,休憩がないこともある」と豊川先生。この週は親病院である宮古病院から応援ナースが1名加わっていたが,それでもこの多忙さである。大学病院での比較的余裕のある外来しか見たことのなかった私にとって,驚きを持ってあまりあった。

住民のニーズを

 午後は往診に当てられる。現在島にはターミナルの患者が3名おり,診療所から定期的にこれらの家庭を訪問する。この日は村の保健センターで患者の家族と保健師も交え「看取り」についての話し合いがあった。肺腫瘍が全身転移した72歳の男性である。本島の病院で闘病の末,余命1か月と宣告を受け,家族の希望で多良間へ帰ってきた。

 診療所側からは,患者の予想されうる最期と延命処置について説明をし,最終的に延命処置しないことで家族と合意した。今後は苦痛を取り除くための処置のみを行い,家族をサポートしていくことになる。「ターミナルケアは訪問診療と訪問看護が中心になるのが一般的。けれど多良間では訪問介護しか受けられないので,その分訪問診療の比重は高くなるんだよ」と豊川医師。遠くで最良の医療を受けるより「最期を島で」という個人・地域のニーズに応えるのも地域医療を担う診療所の診療範囲なのだと感じた。

急患発生!

 診療時間外は先生もフリーかと思いきや,やはり島に1人の医者ということで医師用携帯電話を常に持ち歩いている。毎日何かしらの時間外診療はあるそうで,携帯の電波が届く範囲にいるよう常に気にしている。先生いわく,まだ落ち着いて海に行ったことがないそうだ。そんな話をしていると,さっそく携帯電話に役場の急患当番から入電。昼頃からの腹痛が夜になってひどくなってきたという。家族に連れられてきたのは大腸腫瘍を摘出し,人工肛門造設した50代男性。宮古病院での半年に1回の定期検査をさぼっていたらしく,診察の結果,完全なイレウスだった。これ以上診療所では処置できないのでヘリでの急患空輸となるが,患者と家族は「そんな大事になると恥ずかしい」となかなか同意しない。緊急性が高いだけに先生もおのずと言葉厳しく説得し,1時間後にようやく同意を得て急患搬送依頼ができた。

 沖縄県では離島から親病院への急患空輸を陸上自衛隊と海上保安庁が担当し,本島地区は陸自,先島地区(宮古,八重山)は海保と分担されている。要請から40分,漆黒の多良間空港にベル412型ヘリが闇を切り裂いて着陸すると,海保の隊員たちが降機し手際よく患者を収容,宮古へ向け飛び去った。豊川先生の他,警察官,役場,空港の職員ら総勢10名ほどと家族が見送り,ヘリが視界から消え去ってようやく解散。確かに大事である。平均して月2回はヘリによる搬送があるそうだ。

時間外診療体制の整備

 沖縄県病院管理局によれば宮古のお隣,八重山病院管轄離島診療所4か所で2002年度に行った時間外診療は1250件で全診療の7.9%にのぼる。1日3―4件,1つの診療所で1日1件は時間外に診察をしていることになる。

 この時間外診療には,意外に問題が多い。診療所の医師,看護師は県の職員であり,診療義務があるのは診療時間だけである。極端な話,診療時間外は島の外にいても構わない。しかし今までは職員個々の使命感だけで時間外診療が慣例的に行われてきた。また従来,医師の携帯に患者が直接連絡していたため,医師と患者1対1の場面でトラブルになることがあり,医師の辞職に至るケースもでてきた。

 多良間も例外ではない。実際に時間外診療にかかわるトラブルで,医師辞職による無医村期間を作るという苦い経験をした多良間村役場は,2003年より「ワンクッションコール」体制を開始している。役場の全職員が交代で急患用携帯電話を持ち,患者からの第一報を受け,おおまかな症状,連絡先を聞いてから医師に伝える。医師はあらためて患者へ電話し容体を尋ねる。本来,診療時間外での医療の確保は村役場の責任である。ようやく診療所と役場の協調体制がはじまったと言える。

 豊川先生によれば「村長をはじめ,役場の皆さんにこの制度を理解していただいている。利用者である島の人たちに診療所の事情を理解してもらうため,役場とのより緊密な協力が必要。かといって本当に重症の患者さんが,診療所は多忙だから,と連絡をためらうようでは困るから,そこのかね合いが難しい」とのこと。

医師にとっての離島

 琉球大学を卒業した豊川先生は,沖縄県立中部病院プライマリケアコースで研修を積んで多良間にやってきた。大学在学中からエクアドルでの医療国際援助にかかわり,フィリピンのWHO西太平洋本部では日本政府の行う医療協力について研修を受けるなど,積極的に活動してきた。「途上国支援など国際的に通用する力を磨きたい」と意欲をみせる。彼の言う“国際的に通用する力”とは医学のことだけではない。環境に適応する能力も重要だ。

 豊川医師は赴任してまだ4か月だが,どこに行っても先生,先生と声をかけられていた。これは彼が地域に溶け込む努力を惜しまないからこそのものである。村の宴会にもよく誘われる。オトーリ(※2)もこなし,三線も弾く。地元の運動会ではリレー競走に仮装して参加し,住民から大喝采を得た。

 離島は人間関係が古く密である。地域に入っていかねば信頼関係も築くことはできない。しかし信頼関係ができてもなお,1人勤務の診療所医師にかかる負担は大きい。それを軽減するためにIT化がすすめられており,診療所にはインターネットが完備されている。備え付けのMacには県立病院イントラネットが通じており,宮古病院,沖縄県立中部病院に症例をコンサルトすることができる。そうした離島支援システムの中で一番目をひいたのは,テレカンファレンスだ。各診療所と沖縄県立中部病院を回線で結び,モーニングレクチャーなどにリアルタイム双方向で参加できる。

 このように,離島における情報格差はほとんどなくなっている。しかし,離島に行く医師の不安を取り去るにはこれでも十分ではない。派遣期間が限定されていること,代診制度があることも重要だ。派遣期間は1年あるいは2年で,終了すれば沖縄県立中部病院に戻る。学会や所用で島を留守にする場合は沖縄県立中部病院内の離島支援室に所属する2名の医師が代わりに診察業務に来てくれる。医師の肉体的,精神的なモチベーションを考えれば現在の体制は最良と思われた。もちろん住民感情としては1人の医師に長期間いてもらうのがよいと感じるものだ。しかし,結果として錬度の高いプライマリドクターが常に供給されていることは双方にとってプラスであろう。

離島医療に新風を吹き込む 高気圧ドクター

 豊川先生はいくつかの改革に取り組んでいる。外来受診は内科領域の慢性疾患が多いのに加え,農作業中のけがによる整形外科領域,また高齢者が多く白内障等の眼科領域の受診が目立つ。しかし,医師1人では専門的な治療が行えない。そこで,宮古病院から定期的に整形外科,眼科の専門医を呼び検診を行う計画が進行中だ。

 診療所内部に目を移しても改革は進められている。冒頭に出てきた応援ナースの制度も,豊川医師と下地看護師が赴任時に,あまりの外来患者の多さに驚き,より質の高い医療の提供をめざして宮古病院と交渉,実現させた。また診療所で扱う薬剤の種類や量も想像以上に多く,薬剤業務を充実させるため定期的に薬剤師も来島し在庫管理や住民への薬剤指導が行われるようになった。また,目安箱を待合室に置き,患者の意見にさらされることで自己満足に陥らぬように配慮した。一見あたりまえのようだが,いずれもこれまで誰も取り組んでこなかったことで,豊川先生は診療所に新しい風を吹き込む高気圧のような存在だ。

そこにあるフロンティア

 戦後の沖縄では本島周辺の地上戦による社会システムの喪失と米軍の占領下という時代背景のもとで,本土とは異なる医療システムが形成されていった。著しく医療資源の不足する状況で医介補(※3)や保健所が中心となって僻地医療を支え,当時60余万県民の健康を守った。悲惨を極めた結核・マラリアなどの感染症撲滅,寄生虫駆除,全国平均をはるかに上回った乳幼児死亡率低下など,こうした課題に保健師の果たした役割は大きく,また医介補は離島・山間の住民にとって心身の支えとなる存在であった。

 さらに沖縄県立中部病院は北米式の研修制度で沖縄の医療教育の中心となってきた。現在では国内の臨床研修病院の範となっており,総合診療医の養成実績は誰もが認めるところである。

 戦後沖縄の医療は,ゼロから積み上げられてきたメディカルフロンティアの開拓史だ。今日の離島医療はその歴史の延長上にある。現在沖縄県が管理する18の離島・僻地診療所はスタッフの確保,それを支えるシステム,インフラの整備を含め全体として一定の成果をあげている。しかしこれらの診療所を今後も継続的,安定的に維持していくためには「普通の人が普通にできる」離島医療を実現していく必要があるのではないだろうか?

 それは多くの人や部署がかかわり支え,また新規参入者への間口が広い医療である。言いかえれば,離島医療は多くの人々とともに課題を乗り越え開拓していかなければならない,残されたフロンティアだ。今回,総合診療医,救急医として活躍し,また島の社会に溶け込み,役場や県との交渉・調整役もこなす離島医師の姿を目の当たりにし,その背中に戦後沖縄医療を支えた先達から受け継がれるフロンティアスピリッツを見た気がした。

 最後に豊川医師,多良間診療所のみなさんと,多くのものを与えてくださった島の人たちに感謝します。ありがとうございました。


※1沖縄方言で「ごちゃまぜ」という意味
※2宮古地方に伝わるお酒の飲み方
※3沖縄固有の制度。医師でない人が地域限定で医療行為を行える資格

亀山大介さん
大学進学を機に沖縄移住。三線を弾き離島をめぐるのが趣味。松下政経塾への短期入塾,ドクターヘリを持つ東海大学救命救急センターでの自主研修など,現場に足を運び医療を社会的・多角的な視野で捉えることを信条とする。