医学界新聞

 

地下鉄サリン事件から10年
被害者はいま

中野幹三氏に聞く(九段中野クリニック院長・元聖路加国際病院精神科医長)


――中野先生が聖路加国際病院で精神科医長をつとめておられた1995年3月に地下鉄サリン事件が起きたわけですが,まず,事件当日の状況とその後の経過をお聞かせください。

中野 640人もの患者さんが殺到して,廊下にまで人があふれていました。まさに野戦病院のような感じで,最初は精神科治療ではなく救急対応の手伝いをしていました。

 その後,入院された患者さんの中から,精神面での不安を訴えられる方が何人か出てきて,「これは今後,大きな問題を起こしそうだな」という予感がありました。それで入院された方に対しては,PTSDに関するリーフレットを急遽作成して配布しました。内容は「こういう症状が現われたら,ぜひ受診してください」という一種の情報提供です。

――迅速な対応ですね。

中野 その時は阪神・淡路大震災の経験が活きました。当時内科医はもちろん,精神科医の間でもPTSDはあまり知られていなかったので,その存在を知ってもらうためのボランティア活動に携わっていました。そういう運動をしている最中に起きた事件なのです。

発症の遅いPTSD
身体的被害少なくとも重症に

――サリン事件の被害者のうち,精神科的な対応を必要とした方は何人くらいになりましたか。

中野 私は全部で57名診て,そのうち41名をきちんとフォローしました。最終来院者が2000年9月21日で,それ以降は新しい患者さんが来ていません。

――事件から5年半経っても,初診の患者さんがいたということですね。

中野 私は事件から1年を経た96年に開業したのですが,その年は26名の初診者がいらっしゃいました。PTSDは,あとになってから発症することがよくあります。

――そうすると,被害者の長期的なフォローをしないと患者さんが路頭に迷うということですよね。

中野 そうです。ですから,できるだけ被害者の人にPTSDの存在を知ってもらう啓蒙的な活動とともに,しっかり受け止めるケア体制が必要です。

 PTSDの場合,頭痛や吐き気などの身体症状を主訴として受診する方が多いのです。まず内科に行きますよね。そこで,気力が出ないとか,恐くてしょうがないと訴えると,「いつまで甘えたことを言ってるんだ」という無理解な対応をされる場合は非常に多いです。それでどんどん自分を責めて悪化してしまう。

 また,注意しなければならないのは,精神的な被害の度合いと肉体的なそれとは違って,身体的な被害が軽度な人でも精神的に深い傷を受ける場合があることです。比較的軽症で,一生懸命他の方を助けたり,倒れた方を運んだりという救助活動をした方の中からも,重症のPTSDが出たりします。要するに,見聞きしたことの衝撃ですね。凄惨な現場というのは強烈なものがありますから。

医療者は被害に対し想像力を,行政は体制整備の継続を

――事件から10年になりますが,患者さんの現状はどうでしょうか。

中野 現在定期的に通院中の方は15名です。そのほかに2名が,年に1回ぐらい安心のために受診される方です。私がフォローした41名のうち,約半分の方はほぼ完治しました。

――「適切な治療を受ければPTSDは治る」という認識は重要ですね。そのほか,災害被害者の精神的なケアにおいて,医療者が気をつけなければいけないことは何でしょうか。

中野 PTSDに対する正しい認識を持って,共感的に理解できるかどうかが決め手になると思います。事故が起こった時の状況――サリン事件でいえば,その時に人々がバタバタ倒れて口から泡を吹いている,凄まじい光景が心に残るわけです。その現場をありありと思い浮かべる想像力をいかにして持つか。いちばん傷つくのは,無理解や拒絶,叱咤激励です。PTSDの場合,原因となった出来事が他の精神疾患よりもはっきりしています。患者さんと接する場合には,その凄惨な現場の直中に居続けなければならない苦しみをわかろうとする努力が必要です。

――何年もあとになってPTSDの症状が出る方がいますから,災害発生時からの継続的なフォローも大切ですね。

中野 そうです。ところが,厚生省(現・厚労省)はそれをやらなかった。被害者の調査は以前あったのですが,その時動いたのは警察庁で,当然ケアにはつながっていません。厚生省は生物学的な研究にはお金を出したのですが,肝心の病状調査は一度もしていません。

 いまだに苦しんでいて治療されていない方がたくさんいます。ケア体制は不十分だし,そのうえ時代状況が悪くなっています。加害者集団の活動はもちろん,テロ報道があるたびにフラッシュバック的な刺激があって,常に自分の身に置き換えてしまうんです。保健師さんが被害者の方に健康診断を呼びかけたり,PTSDの症状があれば受診のお誘いをしたり,きめ細かな対応が必要です。

――医療者に対しても,行政に対しても,貴重なメッセージをいただけたと思います。ありがとうございました。