第2612号 2004年12月6日


座談会

作業療法の源流と教育の未来

矢谷 令子氏(新潟医療福祉大学教授)
山田 孝氏(東京都立保健科学大学教授)
福田 恵美子氏(山形県立保健医療大学教授)=司会


 人の生活の中のさまざまな作業や活動を治療媒体として活用し,心身の病気や障害の回復に生かす専門職として生まれた作業療法士。日本におけるその歴史は40年を迎えようとしているが,近年になって有資格者が飛躍的に増大している。これはリハビリテーション医療の発展に尽力した理論家・実践家の労苦の成果であるが,活躍の場が拡大し養成校が次々と増えることで教育関係者も増え,ともすれば作業療法の土台となる哲学や専門性が浸透しきらずに揺らぎはじめているとも言われる。

 本座談会では,作業療法の源流をいま一度見直し,激変する未来にも専門性を発揮できる作業療法士の育成をめざした教育のあり方を考えた。


作業療法の真髄をどう捉え,学生に伝えるか

福田 1963年に日本で初めての作業療法士養成校が設立されて41年が経ちます。2004年9月1日現在,作業療法士の有資格者が2万6069名となり,養成校は152校で年間の入学者は6000名以上になりました。本座談会では,変化する社会の中で作業療法の将来を見据え,教育のあり方を考えていきたいと思います。まずは山田先生から,作業療法教育の現状をどうお考えでしょうか。

山田 私がいちばん気になっているのは,教員自身が作業療法というものをどういうふうに捉えて学生に伝えようとしているのか,そこがあまり明確ではないことです。知識の量はたくさんあるけれども,それをうまく整理して伝えることができていないと思うことが時々あります。

福田 学校が急増して教員が不足している中で,5年以上の臨床経験を積んでいると教職に就いてほしいと言われます。そうなると,「教えるとはこういうものである」という教育なくして教職に就いていると思います。私自身もそのような部分があって教職に就いたのですが,当時の厚生省と理学療法協会・作業療法協会の合同主催の研修を受けて,初めて教育のあり方や考え方,そして方法論がわかったという経験があります。新しく教職に就く人たちにとって,臨床経験のみで教職に就くということは大変なことであろうと思います。

 「作業療法をどう捉えて学生に伝えるか」という点に関して,矢谷先生はどうお考えでしょうか。

矢谷 作業療法のよいところを考える際にいつも思うのは,「人が作業をする,活動をするのは本能である」ということです。ですから,障害を持った時にも,「何らかの作業や活動を生活の中で行い,生活を成り立たせ,喜びを持って生きていくことを支援します」と言えるのが作業療法であると思います。人が作業や活動をすることが治療につながる。それを専門職として,相手のニーズに合わせながら「療法として使う」ことを勉強するのが,作業療法教育の真髄だと思います。

 最初の作業療法はものづくりからはじまったのですが,それだけで医療という,サイエンスを求めるサービスの中に入り込めるかという問題がありました。それで,医療職として発展して生きる道はサイエンティフィックになることだという大きな波が1960年代初頭に押し寄せました。そしていま再び,少子高齢社会やIT化,逼迫する医療経済の変化の波を受けて,作業療法という職業生命の危機感も生まれてくるわけです。

 これまではリハビリテーション専門職が足りない中で,供給する側として有利な立場にいたわけですが,関連職が増え,作業療法士の数も増えていった場合にはどういう戦略を取るか,どういう意識を持つかということが大切になってくると思います。日本はそういった「危機の洗礼」を,本当の意味ではまだ受けていません。

 今後,教育関係者が作業療法の質の向上を真剣に考えなければならない時代が来ると思うのですが,現状をみますと,学校数が増える中で教員は十分な訓練を受けることもなく教鞭を取っています。教員が作業療法の真髄を研究し,いつの時代にも必要とされる作業療法士の育成にあたる教育組織体がほしいと思います。

生きるために医学が,よりよく過ごすために作業療法がはじまった

山田 さきほど矢谷先生が,作業療法の基本として「作業することは人間の本能だ」という非常によいことをおっしゃった。僕の恩師,マリー・ライリー(Mary Reilly:作業行動理論の提唱者)先生はすごい人で,「作業療法は,20世紀医療の偉大な観念の1つになり得る」という論文を書いています。その中で,「生きるということが有機体の第一原則である。そこから医学ははじまった」と。そして,「生き続けていったら,今度は生活をするということが次にくる。生活をする,自己成長を遂げるという,これが第二原則であって,ここから作業療法がはじまった」というような説明をしています。

福田 「人生をよりよく過ごしていくために生まれてきたのが作業療法」というわけですね。

山田 仕事というのは,人生をよりよく過ごしていくためのものですよね。それをサポートしていくところから作業療法がはじまった。ここに作業療法教育の原点のいろいろな部分が組み込まれているということに,僕は残念ながら最近気がついたんです。「活動療法」に名前を変えたらいいと極端なことを言う人もいますが,なぜ作業というものを手段にして治療をする専門職が生まれたのか,そこには歴史的な流れがあることを把握する必要があります。

 たとえば,基礎作業療法学で木工などの種目を教えるでしょ? あの起源は何なのかというと,18世紀から20世紀初頭にかけてのクラフトマンシップ――自分でものを作って,うまくできたらそれが売れて,生活ができるということなんですね。だから当時は,病院の中で患者さんたちに木工を教えることによって,退院後も力強く生きていくことができたわけです。

教員にとってFDは命

山田 ライリー先生はもう1つ,こんなことも言っています。「作業療法が行動を求める社会のニードに応えられなければ,専門職としては確実に野垂れ死んでしまうだろう。しかし,作業療法が舞台から消え去った十年ぐらい後に,同じような目的と組織を持って訓練を受けた,別の集団がつくられることも確実だろう」と。

 僕が最近不安に思っているのは,このままでいくと作業療法は,より安く教育し雇用できる,たとえば介護福祉士やホームヘルパーに取って代わられるのではないかということです。この危機感はとても強いです。作業療法の歴史的な流れを知ったうえで,生活を支援していくことに視点をあてたサービスを提供できる作業療法士を育成していかなければなりません。

福田 教員が作業療法の真髄を知ったうえで,それを学生に語れないと,本物の作業療法士は育っていかないということですね。そうなると,FD(Faculty Development:教える立場にいる人が教え方について学ぶこと)が重要ですが,われわれの教育現場では浸透していないように思えます。

山田 FDは教育のテクニックという面と,その背景にある哲学的,基本的な考え方の面がありますが,いまは「いかにうまく教えるか」というテクニックに流れすぎているのではないでしょうか。本当は両方ともやらなければいけないと思います。

 私はたまたま教育学部で教育心理学を勉強して義務教育の教員をやっていた経験があるので,教えることについての教育はある程度受けていますが,多くの教員はそうではないですよね。ずっと臨床にいた人が,いきなり学校で教えることになる。当面は自分が臨床でやっていたことに関連する科目を教えればいいと言われて何とかなるけれども,教える科目が増えてくると,作業療法がなぜ必要とされているのかという本質の部分が見えにくくなります。

福田 どの科目を教えるにしても作業療法の核になるものが科目の中核を貫いていて,すべてはそこから波及したブランチの学問になるわけで,教員たちがその中核を理解し,教育する時の姿勢として意識していないと怖いなという印象を私も持っています。矢谷先生はFDに関する意識は大変高いですが,いかがでしょうか。

矢谷 もともと医療職には教育的要素が多分に求められていますが,かと言って教育者としての養成を受けたわけではないので,そのトレーニングは必要です。教え方の教育を受けていない人がその職につくのであれば,いっそう励んでFDという訓練を受けるべきしょう。「忙しいからFDができない」というのではなく,自分がその仕事に就いているのならば,学生のためにも,その学生の向こう側にいる対象者のためにも,よりよい指導ができなければならない。だからFDは教員にとっては命です。毎日励んでいかなければならないと思います。

福田 近年各分野で取り上げられているOSCE(Objective Structured Clinical Examination:客観的臨床能力試験)やPBL(Problem-Based Learning:問題立脚型学習)などのテクニカルな側面に関してはどうお考えですか。

矢谷 いろいろな教育のテクニックが出てくるのですが,それがどの職種にも共通する点と,その専門職の特殊性を生かしたテクニックに変えていく部分と,両方あります。学生にとっては限定された期間の中で受ける貴重な教育ですから,新しいものを何でもそのままやってみるというのでは困ります。教員の側はたえず研究して,作業療法の特性を踏まえた教授法をとったほうがいいですね。

 教授法は,大教室の場合と少人数を相手にする場合とでは違いますし,教える環境が学内なのか学外なのかでも違います。どういう場面でどのような教授法を使うかについて,たくさんの方法から選ぶための研究が必要だと思います。

■変化する社会の中で作業療法教育の課題

医療を基本とする職業であることの再認識を

矢谷 私の母校であるロマ・リンダ大学は10種以上にわたる医療職種のコースを持ち,そのモットーは“make man whole”で,「ひとつも欠けることのない,全体としての状態をめざす」という意味を持っています。まさに作業療法は,対象者の心身機能,生活にかかわる活動や作業,社会参加,個人因子や環境因子に個々に対応しながらもサービスの統合を計るという点で,目的は個人のwholeの状態をめざしていると思います。

 少子高齢化の影響もあって,作業療法士の職場は医療から福祉へと大きくシフトしはじめています。そのような中で,「メディカルモデルは古い。メディカルモデルから脱出すべきだ」という言葉を耳にします。このメディカルモデルを「還元主義」という意味で使っているのであれば,作業療法はもともと還元主義ではありませんから,それを範としようとは思いません。しかし,「医療」は作業療法にとって古いとか,不必要であるとか考えるのであれば,そうではないと私は考えています。

 作業療法士は医療職として発展したので,医療を土台として持っていることが大きな特徴の1つなのです。たとえ保健や福祉の職場で働いていても,医療の部分を抜きにして活動する作業療法士は,本来の使命を果たしきれていないと考えられます。このことの意味を全作業療法士は真剣に受け止めるべきです。これこそ職業生命にかかわる一大危機と言ってよいと思います。

 作業療法士という職業はどうあらねばならないか。学生や教員,臨床実習指導者がいっしょになって,もう一度歴史を振り返って認識する過程が必要だろうと思います。そうでないと,先ほど山田先生がおっしゃったように,経済が逼迫すれば給料の低い職種の人材を採るということになってしまいます。そこで専門性を発揮し,他職種との差異を出し,選んでもらい,買ってもらえる作業療法の提供が必要です。

 福祉の波に押されて,「医療を失っても平気だ,仕方がない」という認識しかできない作業療法士がいるのであれば,そこは考え直していいただきたい。作業療法は「療法」と付くのだから,医療を大切にしなければなりません。WHOがつくったICF(International Classification of Functioning, Disability and Health:国際生活機能分類)の考え方は,インペアメント(impairment:機能障害)レベルから治療ができて機能が回復し,活動や参加ができるのだという流れで,作業療法の基本的な考え方にぴったりです。

福田 国の施策として福祉にシフトしていっている現状の中で,医療職として端を発した作業療法の核心をしっかりと見つめながら現代の流れに応じていくという考え方ですね。

矢谷 インペアメントレベルの5つの領域が機能するから生活が成り立つという大切さを知り,失ったならそれをどういうふうに補って生活ができるかという方法や訓練,代償法を使いこなせる作業療法士であるならば,役に立つと思います。しかし,そうしたことができずにお世話だけをするのなら,ほかに立派な専門職の方々がたくさんいるわけです。

福田 私も臨床にいた頃,他職種から求められたのは医学的な判断でした。だから,そこを捨ててケアだけに偏ってしまったのでは作業療法士としての任務はまっとうできないと思ったことが何度もあります。

山田 ただ「医療を大切にする」という際に注意しなければならないのは,われわれ作業療法士が伝統的に持ってきたholisticな,人を全体としてみる見方を軽視するという意味ではないということですね。

 障害をみてなぜできないのかと分析した時に,関節可動域や筋力,持久力といった要素に分けて,ただこれを訓練していけばオートマティックにADLがよくなるという考え方があります。ですから,現場が一生懸命やってきたことは,関節可動域訓練をやって,筋力強化訓練をして……ということで,「それさえやってればいい」というOTが出てきてしまった。

矢谷 体と心を同時に見るのが大前提です。それなのに関節の可動域しか見ない,あるいは筋力の増強のことしか考えないことで,結果的に医療も作業療法も歪んでしまったのですね。

学生の主体性を喚起するには

福田 最近は,「学生が主体的に学んでいない,他力本願のところがある」という声をよく聞きます。学生が主体的に学ぶために,教育の中でどのような取り組みをしたらいいのでしょうか。

山田 矢谷先生はよく,「未開発国に対する援助を考えた時に,ただ食べ物をあげればいいというのでは駄目だ」という例え話をしますよね。だからといって,現地の人たちが使いこなせないようなハイテクの道具を援助しても,故障したら捨てて置かれる。そうなると最終的には,どうやって魚がいるところを見分けるかとか,獲り方の方法をきちんと教えていくことだと。

矢谷 そうですね。中国の諺で「一匹の魚を人に与えよ。しかればその人,一日空腹にあらず。魚とりの術を人に教えよ。しかればその人,生涯空腹にあらざるなり」というのがあります。この諺は『スパックマン』(Willard & Spackman's Occupational Therapy:アメリカの作業療法学概論にあたる定本)にも載っていて,作業療法の基本的な考え方を示す際によく使いますが,人間誰にでも言えることです。

山田 まさにそれが学生指導に当てはまると思うんです。たしかに学生は,調べずにすぐに質問してきます。でも,「こういう本の中に書いてあったと思う。ちょっと読んでごらん」とか,「インターネットでこういうふうに調べてごらん」と言えば,自分たちで調べます。だから,問題解決の方法,枠組みをこちらが提示してあげることですね。そこを考えないで,「すぐに答えを知りたがる」とか「文献をほしがる」と言っていたら,教員の側にも問題があるかなと思うんです。

 最近は教員もすごく丁寧になって,パワーポイントのプリントを全部配りますよね。あれは,昔だったら教員が黒板に書いて,学生はせっせとノートを取ったわけですよ。だから僕は,パワーポイントのプリントはあまり配布しません。

福田 たしかにほしがりますね。

山田 学生はもらえるものだと思ってノートを取っていないのですね。彼らをいつの間にかそういうふうにしてしまった原因は,おそらく彼らが育ってきたプロセスにあって,すごく丁寧に育てられてきた。プリントをあげてどうなるのかといったら,そのへんに捨てられてますよ。

矢谷 あら,拾いにいこうかしら(笑)。

福田 少子化になって,何でもほしがるものを与えるという時代背景もありますね。

矢谷 先日私が「そういうことも考えて見てください」と言ったら,ある学生が,「先生,考えてみるって,どういうふうにすればいいんですか」って……。びっくりしてしまって,言葉がなかったです。○か×で育ってくると選ぶ力はつくんでしょうけど,創り出す力や判断する力はつかない。できるだけ思考力がつくような設問や内容をふんだんに織り交ぜながら授業をしています。

福田 高校時代までの教育方法と違って,大学に入ると「自分で考えなさい」と言われて,すぐには切り替えがきかないということも考えられるところですね。

矢谷 別の学生ですが,「中学・高校は目立たないように,自己を主張しないようにと教えられてきたのに,大学に入った途端に『自己主張をしなさい。自律的に動きなさい』と言われても,急には変われません」って。私はその時本当に考えこみました。まさに学生は,中学高校時代の自分を引きずって大学に入って来たのです。われわれ教育者がどうしたら学生を伸ばすことができるのかということは,大きな課題だと思います。

福田 作業療法というのは,対象者の人たちの今まで生きてきたバックグラウンドを把握したうえで,今からその人が快適な人生を過ごしていくことを考える仕事ですね。学生に関しても,そのバックグラウンドを知ったうえで,「この学生が学ぶことによってどう育っていくか」という楽しみもあります。そのように考えると,学生の教育はもともと作業療法士の得意とするところではないかと思います。

 その得意とするところがわからないでいると,高校時代の暗記学習のように,ただ単に臨床実習時に必要になりそうなことを短期決戦で教え込み,国家試験に合格するための特訓を行って卒業させてしまうような状況になり,その結果が自分で考えない,主体性のない学生を育ててしまいます。自己反省もありますが,自分はどういう姿勢で教育をしていたのか,改めて考える必要もあるのかなと感じています。

矢谷 学生に「自分は伸びるのだ」という主体性を喚起するような教育環境をつくることが,私たちの責任であると思います。そこは,臨床実習指導者もいっしょですね。臨床教育があって,作業療法全体の教育が成り立ちますから。

■作業療法の源流をみつめながら

実習で作業の意味を感じることの大切さ

福田 基礎作業学実習が1年生のカリキュラムに入ってきますね。授業で実習する作業種目を通して,作業工程分析や人の行う動作を分析したり,1つの作業活動を別の観点から考えたり創造したりする力が培われていくと思うのですが,その基礎作業学実習がなくなっている学校があると耳にしたことがあります。

山田 その部分は何で補うのですか。

福田 基礎作業学という講義の中で補っているようです。「作業は必要ない」という流れも一時あったので,その影響かなという気がします。

山田 少なくとも体や道具を使うことを実際に体験できる機会は必要だと思います。

福田 そういう体験を通して,作業の面白さもわかるような気がするのですが……。

矢谷 こういう経験をしたことがあります。80歳代のおじいちゃんが,老健に入ってきて,毎日寝てばかりいた。それで,ある時から作業療法をはじめた。手工芸をするプログラムに参加して,木目込み人形のキットをつくる作業をしたんです。そしたら,できあがるものがきれいでかわいらしくて,そのおじいちゃんは楽しさに取りつかれてしまって,ご飯に呼ばれても行かないんです。

 私がそこの職員の方に「これが作業療法よ!」と言ったら,彼は「ああ,やっとわかりました!」って。それまで何年もその老健に通って説明していたのにわかってもらえなかったので,私はそれまで何をしてきたのかなぁと思いましたけど(笑)。

福田 「百聞は一見に如かず」ですね。

矢谷 そう,わかる時は簡単なの(笑)。作業療法士自身が喜びとか生きがいを感じないで,対象者に向かって「作業療法をやりましょうよ」と言っても伝わりませんね。だから,ものを作って生活の中の役に立てることとか,経済性につながることとか,自分が職業としてそれを得られた喜び,生きがいを感じられるとか,作業療法士は自分でそういうことを経験して,感じてほしいのですよね。

山田 いま,「作業の意味を考えましょう。その人にとって意味のあることを提供するのが作業療法のいちばん効率的なやり方です」と盛んに言われています。いままでのように,「次の課題は木工です」「次は織物」とやってきたのを,ちょっと工夫することで,作業療法に必要とされていることが教育できるわけですよ。いまのおじいちゃんの例も,そこにその人にとっての意味があったわけですよね。学生はそれで考えますよ。そういうことをやると,学生はけっこうのってくると思います。

矢谷 亡くなられた野村実先生(医師。結核回復者や身障者らの社会復帰と授産事業に尽くした)。私は,あれほど作業療法をご自分で実践された先生は,日本にいらっしゃらないと思うんですよ。その野村先生が「作業療法は,その作業をすることによって人生の意味を味わうことだ」とおっしゃってます。患者さんの作業療法の記録は実に綿密で,人が生きていく生きがいにつながるようにプログラムを考えていらっしゃったことがわかります。もう脱帽。作業療法士よりもはるかに作業療法士らしい!私たちのお手本です。

アート&サイエンスの21世紀を医療界に発信しよう

山田 考えてみたらPBLもOSCEも医学から作業療法に入って来た概念ですよね。EBMやクリニカル・リーズニング(clinical reasoning:臨床的推論)もそうです。医学の一部を作業療法は取り入れてきているわけですが,まだ完全に消化しきっていない部分がEBOT(Evidence-Based Occupational Therapy)などにはありますよね。

 作業療法の場合には,事例性というのが非常に大きい。それをEBMの疫学研究の視点から見れば,「1事例でしかないもので,エビデンスレベルが低い」と判断されてしまいます。どうやって作業療法のエビデンスをつくるのか。EBMとまったく同じ手法でいいのか。そこは難しいところかもしれない。

矢谷 必ずしもEBOTで事が解決できるというのではなく,自分の行った仕事が相手にとって価値や意味があったのかどうかを検証することは,職業人として当然であろうと思うのです。ですから,それは着々とやりたいと思っています。エビデンスをつくる手法として「どういう状態の対象者に対して,どういう療法を用い,その人がどのように変化したか」ということの追跡調査ですね。そして多くの症例を蓄積して比較分析する。よほどきちんと個人差をみないとそれほど役に立たないかもしれないですが,そういう分野を確立することが必要でしょうね。いずれにしても,作業療法士はまだそのスタートラインにも立っていない。

山田 そうですね。それは教員もそうだし,臨床も同じです。研究の発展のために,きちんとデータを集めていくことを心がけていかなければいけないでしょうね。

矢谷 医学もそうなのですが,もともと人間を対象としているから科学的にすべてが割り切れるというものではないんですよね。だけど,19世紀後半から20世紀はサイエンス一辺倒の時代だった。そこから,「もっと人間をみましょう」という反省があって,またアートの部分が見直されている。作業療法の原理に,人間の心身を同等に重要視するという考え方は,第一義的にあげられています。はじめから作業療法は「アート&サイエンス」なのです。

 作業療法士はこの「非科学性の人間」という側面に光を当てて,ぜひ“堂々と”「非科学性の科学」という作業療法を創り上げていく21世紀にしてほしいと思うんですよね。それは他の職種にも言えるのでしょうが,作業療法は「それが作業療法の特長です」と謳っているのだから,特にそうです。でなければ,効果の認知度の低い作業療法は診療報酬点数削減や抹消の対象になりやすいと私は思っています。

山田 アートというのは人が作ったもので,サイエンスというのは自然ですよね。作業療法は自然現象を追究する学問として生まれたわけではないですから,サイエンスの手法を一部取り入れながら,どこまでできるかという問題だろうと思います。研究においてコントロール群を作るのは,現実的に非常に難しいですよね。いまは医学研究でも,二重盲検法はインフォームドコンセントを取らなければならないとなったら難しくなってきて,現実的にもうできないですよね。

福田 医学も行き詰まっていると聞いたことがあります。

山田 それをどうやって埋めるかという手法が,作業療法から提案されたっていいですよね。

福田 たしかに,人を対象とする職種の人たちは,ここ数年来,アート&サイエンスいう言葉を頻繁に使っています。「作業療法はアート&サイエンスの学問である」と作業療法の草創期から発信していましたから,これから医療に限らず福祉分野にも発信できるものがあると思います。そのためにも臨床教育者・学校教育者ともにFDは重要で,作業療法の源流と本質を見つめながら,学生に丁寧に伝えていく努力が必要だと思います。ありがとうございました。


矢谷令子氏
1963年ロマ・リンダ大作業療法学科卒。71年ウェスタン・ミシガン大学大学院作業療法学科卒。ランチョ・ロス・アミゴス病院,国立療養所東京病院附属リハビリテーション学院,札幌医大および国際医療福祉大などを経て,2001年より現職。1979年より91年まで日本作業療法士協会長を歴任。

山田 孝氏
1972年早稲田大学大学院修士課程(心理学専攻)修了。77年南カリフォルニア大学大学院修士課程(作業療法学専攻)修了。アメリカ作業療法士資格取得。94年医学博士(秋田大)。都立府中リハビリテーション専門学校,北大・京大・秋田大の各医療技術短大部で教授などを経て,2002年より現職。

福田恵美子氏
1968年国立療養所東京病院附属リハビリテーション学院卒。96年東北大学大学院医学系研究科修了(障害科学博士)。栃木県リハビリテーションセンター,自治医大附属病院,国際医療福祉大などを経て,2004年より現職。NPO法人発達相談支援センターリズム園で臨床および研究も行っている。