医学界新聞

 

【シリーズ】

隣の医学生


飯島多津征さん(佐賀大学3年)
聞き手:西村富久恵さん(筑波大学6年)


 全国で50-100万人以上いるとも言われている「ひきこもり」。社会問題としてTV,新聞等でも取り上げられるようになってきているものの,その実態を正しく理解している人はまだ少なく,誤解されている面も多い。

 現在佐賀大学の医学部に通っている飯島多津征さんは,高校3年生の頃から自宅で4年半の間ひきこもっていた。その彼が部屋を出て,医師をめざすようになるまでのことを,筑波大学の西村富久恵さんにインタビューしてもらった。


■ひきこもりは病気ではない

西村 私たち医学生はひきこもりについて授業で習ったこともないし,正直なところよく理解していないと思います。まず,ひきこもりというのがどういうものなのか,説明してもらえませんか。

飯島 ひきこもりについては社会の中でだんだん認知されてきていると思いますが,例えば精神科医ならひきこもりを正しく理解しているかというと,そんなことはないと思うんです。

 僕がいろいろなところで講演して,口を酸っぱくして言っていることは,まず「ひきこもりは病気ではない」ということです。ひきこもりを治す薬もありませんしね。もちろん,精神的な病気を患ったことがきっかけでひきこもりになる人はいます。また,ひきこもり状態が何年も続くことで,ずっと1人で悩んでいるうちに精神症状が出てくる方もいると思います。しかし,ひきこもりそのものが病気なのではないと考えています。

 最近よく言われているのは,「状態」という言葉ですね。ひきこもりは“病気”ではなく,誰でもなり得る“状態”と言ってもよいのではないかということです。

西村 ひきこもっている間は,まったく外に出ないのですか?

飯島 一般的なイメージは,とりあえず「家から出ないこと」がひきこもりの条件ですよね。「出れない」というか,「出ない」というか。その考え方からいくと,僕は完全な“純粋ひきこもり”でした。施設の方にも「お前は正統派ひきこもりだ」と言われましたね(笑)。

 でも,こもっていた4年半,まったく外に出なかったわけではありません。よくラジオを聴いていたので,夜中とか朝方の誰もいない時に,ラジオ局宛てのハガキを出しに行ったりしていました。でもそれは,せいぜい家から100-200mのところにあるポストまでで,外出といえばその行き帰りぐらい。それもそんなに頻繁ではありませんでしたから,その意味ではまさに「正統派」で,まったく外に出なかったに等しかったです。

「なぜ大学に行くのだろう?」

飯島 僕がこもっていた頃――いまから10年前ぐらい――は,まだ「ひきこもり」という言葉があまりなくて,自分自身に「こういう状態はひきこもりなんだ」という客観的な認識ができなかったんです。これはけっこうつらかったですね。

 テレビで騒がれていたら,同じような人がいるのだと認識できますけど,僕はずっと,自分だけがおかしい人間だ,自分は精神病だと思っていました。そのうち,思考が「こんな人間は自分ひとりだ」「生きている資格はないんだ」という方向にどんどん向かうわけです。その意味で,施設に入って一番大きかったのは「ああ,僕だけじゃなかったんだな」と思えたことでした。そういう気持ちを持てて,すごく楽になりましたね。

西村 ひきこもるようになったきっかけというのはあるんですか?

飯島 よく理由を聞かれますが,僕の中でははっきりしていません。たぶんいろいろな理由が重なっていたと思うので……。客観的に考えてみて,「こうではないか」と推測はできますが。

 まず,家庭の影響がけっこう大きかったのかなと思っています。父親が歯科医で,僕は長男ということもあり,なんとなく小さい頃から将来跡を継がなければいけないんじゃないか,という意識がありました。

 こういう話をすると「じゃあ親が悪いのか」というような話になるのですが,僕の中ではそういう認識はないんですよ。考えてみて,「それもあるかな」と思うぐらいで,例えば父親を憎んでいるかというと,そういうことはまったくありません。

 ただ,その後中高一貫の進学校に入学したので,周囲には“いい大学”の医学部や法学部といった,よりいいところ,より高いところをめざすんだという風潮があったんですね。僕も最初はそれに乗っかっていたわけですが,高2ぐらいからなんとなく違和感が出てきました。僕は途中で「なんで大学へ行かなあかんのか」と考え出してしまったのです。そして,最終的にそれが「命って何なのかな」,「なぜ,死んだらあかんのか」と。社会や教育,すべての矛盾に押し潰されそうになってしまって,とにかく死にたいという気持ちでいました。

 高3の夏ぐらいからあまり学校へ行かなくなり,卒業はしましたが受験はしませんでした。その頃から,家にいることが多くなり,家族と顔を合わせるのも嫌になってきて,18歳を過ぎた頃から,いわゆる本格的なひきこもりになりました。

■閉めきった部屋で過ごした4年半

西村 ひきこもっていた頃はどう過ごしていたんですか?

飯島 とにかく「自分には生きていく価値がない」と思っていましたね。例えば部屋の掃除もせず,ゴミの山みたいな中で生活していました。部屋にはクーラーも暖房もなかったのですが,それでも一年中閉めきった状態で暮らしていました。夏は暑くて死にそう,冬は寒くて凍え死にそうで,さらにゴミに囲まれた環境にいたわけですが,自分をそういうところに置くことによって「自分はそういう人間なんだ」というような,安心感みたいな気持ちがありましたね。

西村 その間,ご両親はどうされていたんですか?

飯島 精神科へ行ったり,ひきこもりに関する講演を聴きに行ったりしていたらしいです。ただ,結局精神科医に言われるのは「本人を連れてきてください」ということなんですね。本人を連れてこられれば苦労はしないわけで,別なところでは「もうちょっと様子を見てみましょう」と言われる。その「もうちょっと」がいつまで続くのか,それに対する明確な答えを出してくれる人は1人もいないし,家まで訪ねてきてくれる人もいない。両親は「精神科医って何だろう」という話をよくしていましたね。

突然スイッチがオンに

飯島 そうこうしているうちに,ある新聞でタメ塾という施設が紹介されていたのを両親が見つけました。塾といっても,NPOで不登校,障害者,病気の子どもを受け入れている施設です。そこの記事を読んだ瞬間に,「これだ!」と思ったそうです。さっそく電話をしてみたら,順番待ちの状態だったのですが,両親がいろいろ状況を話すと,「じゃあ,行きましょう」と言ってくれたらしいです。

 その頃は兵庫県の明石市に住んでいたのですが,そこへ東京から月に1回ぐらいのペースで来てくれました。施設の人は,まずドア越しに何か話しかけていました。僕は聞きたくなかったから耳をふさいでたんですけど(笑),親が誰か呼んだのだということはわかりました。でも出ようとはしなかったですね。

西村 やはり出たくはなかったんですか。

飯島 その時の僕にとって一番の恐怖は,誰かと接触しなければいけないという状況でしたからね。

 例えば,阪神淡路大震災はちょうど僕がこもり始めた頃に起きました。まさに昼夜逆転の生活をしていた僕が,ボケッとテレビを見てた時です。食器も落ちてきたりして,すぐに「地震だ」と思いました。たぶんほとんどの人は「早く逃げなきゃ」とか「恐い」とか考えると思いますが,僕はその時に「ああ,やっと死ねる」と思ったんです。中途半端に助かって体育館などに皆で避難するような状況には絶対なりたくありませんでした。そうなったら,人目に触れなければいけないでしょう? それくらい嫌だったんです。

西村 そこまで頑なだった飯島さんが,最終的に部屋から出たきっかけは何だったのですか?

飯島 施設の人が10回目ぐらいの訪問の時に,たぶん「今日は出す」と決めていたんでしょう。強引にドアを蹴破って入ってきました(笑)。「とうとう来た」と思って,少し離れたトイレへ逃げ込みました。そして着ていたTシャツをドアのノブにかけて首を吊ろうとして……。死に切れませんでしたけどね。

 結果的にそこに2時間ぐらい籠城して,最後にはトイレにも入ってこられて,逃げ場がなくなってあきらめました。その瞬間,スイッチがオフの状態からパチンとオンに変わったような感じが自分の中でして,「あ,出よう」と思ったんです。このあたりは本当に感覚でしかないので,「なんでそう思ったの?」と聞かれてもはっきり答えるのがすごく難しいです。僕自身が客観的に考えても不思議ですからね。4年半,ひきこもって誰とも口をきかなかった人間が,そう瞬間的に変われるものかと。でも,涙があふれてきたと同時に,すごく肩の力が抜けたというか,それまで囚われていたすべてのものから解放されていくような感覚がありましたね。

西村 その時は,施設の方とはどんな話をされたのですか?

飯島 塾長から「とにかくお前,遊べ」と言われたのが印象に残っていますね。ひきこもりをやめたら,またがんばって大学へ行かなければいけないのかな,という意識がありましたから,遊べと言われたのはかなり意外でしたね。「は? 遊んでちゃイカンのじゃないの?」と。

西村 施設に入ってからはどうでした?

飯島 言われた通り,友達を作って遊びまくっていました(笑)。でもその過程で「いろんな人がおるなあ。すごいなあ」と思いながら,自分の中の価値観がどんどん崩れていきましたね。進学校のクラスには,みんな一様の人しかいませんでしたから。でも施設には,病気や障害を持った人もいれば,まったく人とコミュニケーションの取れない人,高校を中退して通信教育をやってる人もいて,そういう多様な生き方に触れたというのが,とても大きかったです。

 それから,環境を変えることの影響力を実感しました。兵庫県と東京都という物理的な距離も大きかったように思いますが,やはり家という環境から出て,親からも距離を置いたことには精神的にも大きな意味がありました。僕にとってこの施設は相性がよかったんでしょうね。ここですごく成長し,変わることができたと思います。

■人生の選択肢はいくらでもある

西村 医師になろうと思ったきっかけは,やはり施設での体験ですか?

飯島 そうですね。施設で過ごした2年間,施設の人や周りの友だちとかかわってきた経験を生かせないかと考えて,「精神科医かなぁ」と,フッと自然に思いました。ひきこもりは全国で100万人いるとも言われていますし,何か自分にできることがあるのではないかと思ったんですね。ですから,「医学部へ行こう」という気持ちは,僕の中でとても自然な形で生まれてきました。

 そして施設を出て,1人暮らしをしながら予備校に通いはじめました。高校生の頃と違い,勉強をするのも,生活をするのも何もかも楽しかったですね。

 中学・高校の頃の僕の人生観は,1本の綱渡りみたいなものだったと思うんです。生きる道というのは1本の綱で,そこから外れると落ちて死んでしまうという思いがあって,それが大学受験というレールだったりしたわけです。でも今は「人生の選択肢はいくらでもある」と思っています。

西村 医学部に合格した時はどうでした?それだけの体験のあとでしたから,喜びもひとしおだったのではないですか?

飯島 それが,「あ,受かったな」という感じですごく淡々としていましたね(笑)。その時の僕は生きていること自体がうれしくて楽しくて,あまり目先の合格・不合格はどうでもよかった気がします。受験について今でも覚えているのは,面接の時に履歴書の空白の期間について聞かれ,今みたいな感じで話していた時のことですね。

 たまたま試験官の中に心理系の先生がいて,「こもっていた頃に努力したことある?」と聞かれたんです。僕はこもっていた時は何も努力していなかったと思っていたので「両親や周囲はいろいろ努力してくれたと思いますが,僕自身はまったく努力してないですね」と答えました。そうしたら,「こもっていること自体が努力じゃないの?」って言われました。その時はその言葉にあまりピンとこなくて「ああ,そうですか」と流してしまったんですけど,その先生は,ひきこもりだったことについて好意的に受け取ってくれていたのかもしれません。

家や家庭にかかわれる医師に

西村 将来はどんな医師になりたいですか? やはり精神科医をめざすのですか?

飯島 それについては,今「そこまで精神科医にこだわらなくていいのかな」という意識があります。精神疾患を持つ人でなくても,メンタルケアを必要としている人はいますよね。ですから,「科」へのこだわりはなくなりました。それよりも幅広く,もっといろいろなことを学んで,いろいろなことができる医師になりたいと思うようになりました。

 ただ,「家」や「家庭」は僕自身がとても影響を受けたファクターなので,重点を置きたいなとは考えています。家の中で苦しみ,外の人に家へ入ってきてもらったことで,命を救われましたから。そうした意味で,今は家庭医にも興味がありますね。

西村 今同じように医師をめざしている医学生の皆さんに,何かメッセージはありますか?

飯島 なかなか難しいですね(笑)。ただ,何のために医学部に入ってきたのかわからなくなっている人が,少なくないような気がします。自分が医師や医学部には向いていないと思っている人もいるのではないでしょうか。少し厳しい言い方にとられてしまうかもしれませんが,医学部や医師にこだわりすぎず,自分が何に向いているのかを幅広い視点で考えて,常に追求してほしいですね。いろいろな道があるということを,忘れないでほしいと思います。

 僕も,もし医師になれなかったら保健師など,別の角度から“家”にかかわることのできる仕事もいいかなと思っていますから。生き方も,そのペースも,幸せの形も,人それぞれでいいんです。

西村 飯島さんはとても柔軟に人生を考えていらっしゃるのですね。医学部にいると将来の選択肢は医師しかないと錯覚しがちですから,これはいつも気に止めておきたいと思います。

 今日は貴重なお話をありがとうございました。ひきこもりは病気でなく状態,というのは,最初お聞きした時にはピンと来なかったのですが,体験をお聞きしているうちに,なるほど,と思えてきました。これから,その貴重な体験を活かして素敵なお医者さんになってください。

(おわり)


飯島多津征さん
1994年,淳心学院高等学校卒業。直後,大学受験をきっかけに祖父母宅で4年半ひきこもる。その後,NPO法人青少年自立援助センター・タメ塾で2年間生活。退塾後,1人暮らしをしながら2年間予備校に通う。2002年,佐賀大学医学部に入学。現在3年生。学業とともに,ひきこもり経験を基にした講演活動や,さまざまなボランティア活動に取り組んでいる。

西村富久恵さん
高校時代より地域医療や精神神経医学に興味を持ち,1998年に筑波大学入学。家庭医療学会学生・研修医部会でセミナー実行委員をこなす傍ら,筑波大学でプライマリケア研究会を主催。また精神神経医学に関するメーリングリスト(参加希望は298-24mura@umin.ac.jpまで)を設立し,学生・研修医・医師が情報交換できる場を設立した。現在は卒業試験に向かう毎日を送っている。