医学界新聞

 

〔連載〕
かれらを
痴呆
呼ぶ前に
「ボディフィールだー」出口泰靖のフィールドノート
    その10
 「自己開示」と「自己呈示」(1)の巻
出口泰靖(ホームヘルパー2級/山梨県立女子短期大学助教授)


2578号よりつづく

こんな呆けばあさん,誰も相手にしてくれないよ

 「こんな呆けばあさん,誰も相手にしてくれないよ。声をかけても,みんなついーっと無視していっちまうだよ」
 ある宅老所で出会った後藤さん(仮名)はこんなふうにいいます。フィールドワークに来た僕に対しても「先生もこんな呆けばあさん相手にしても,ちーっともおもしろくもないでしょうに。…ほんで先生は,ここははじめてですか?」と聞いてきます。ちなみに僕のことを忘れている彼女が僕のことを「先生」と呼ぶのは,当てずっぽうというより,そう言ったほうが無難だろうと考えてのことだろうと僕は思っています。
 僕「いえ,前にも来たことがありましてね」,後藤さん「そうですか。そんなことも忘れるようじゃあ,私もだめになっちゃったもんだ」。そういって頭を抱え込む彼女に,僕は「何言ってるんですかー。まだまだ大丈夫ですよ」と言ったり,前回書いた「手帳紛失騒動」の顛末をお話しして「後藤さんが呆けばあさんだったら,僕なんか呆けじいさんですよ」と笑いあったりします。
 後藤さんは名のある武将の家の出らしく,そのことをよく自慢されます。僕「時代が時代ならお姫様だったんですね」。後藤さん「ははは……。まだ家があって親戚がその家に入っているけど,もうしばらく行ってないねえ。こんな呆けばあさんが行ったら,向こうだって迷惑するからねえ」。
 「こんな呆けばあさん,誰も相手にしてくれない」という後藤さんの言葉に込められているものは,呆けてしまったことそれ自体を嘆いているだけでなく,「誰かちゃんと私の相手として向き合ってくれないだろうか」という寂しさも表現しているような気がします。また,彼女はそんなふうに自己卑下することで,周囲から「そんなことはないよ」と言ってもらいたいのかもしれません。しかしいずれにしても「こんなことも忘れてしまって,もうダメだ」という彼女の嘆きの言葉に対して,僕はいまだに十分な受け答えができません。どうすれば後藤さんは呆けを気にせずに日々を過ごしてくれるのでしょうか。

「小山のおうち」の「自己開示」

 「小山のおうち」という島根県出雲市にある痴呆デイケアハウスがあります。そこでは,メンバーである「痴呆」とされる人本人に「呆けゆくこと」に対する自分の気持ちを物語ってもらうという取り組みが行なわれています。次に紹介するのは,源二さん(仮名)という方が語ってくれたものです。

 最近物忘れをするようになった。物忘れは悪いことです。なさけないことです。物忘れは人に迷惑をかけることはない。だけどいやです。思うように言われないから。思うことが言われぬのは悪いことです。早く死にたいです。それほど物忘れはつらいです。
 物忘れするのはもうどうしようもないが,どうすることもできない。どうすることもできない自分は早く死にたいと思います。思うことができないから。物忘れする以前は思うことができた。畑仕事その他なんでもできた。田麦ほり,あぜぬりシロかきその他。何かしたくてもやる気があっても何をして良いかわからない。何もすることがないから死んでも良いと思う。することがあればまだまだ長生きしてもいい。

 このような「痴呆」とされる本人の自己開示を「小山のおうち」では“つぶやき”と言っています。この“つぶやき”をみると,本人自身が「呆けゆく」体験をどのように受けとめているのかをかいま見ることができます。
 しかし,本人に「呆け」に向き合って語ってもらうということは,下手をすればまるで生傷に塩をすり込むような,本人を傷つけさせるような行ないなのではないかと,「小山のおうち」をフィールドワークした当初,僕は戸惑い,面食らっていました。

「呆けゆく自分」を体験する

 源二さんは以前,自宅を出て歩き,近くのスーパーに行って自分の部屋を探し求めることがあるなど,いわゆる「徘徊」という「問題行動」を起こしていた方だったそうです。源二さんはどうして,このように自分の気持ちをつぶやけるようになったのでしょうか。
 僕は,「小山のおうち」というケアの場にある「自己開示」というコミュニケーション方法にカギがある気がしています。自己開示とは,「自分がどんな人であり,今何を考え,何を感じ,何を悩み,何を夢見ているか」といったその時,その場の自分が感じた素直な気持ちや素顔の自分を相手に伝えることです(深田,1998)。すなわち,自己開示は,相手に自分自身をさらけ出しあらわにする行為です。
 自己開示の機能の1つとして,悩みや葛藤を他者に開示してうっ積した感情を吐き出し浄化するカタルシスの機能や不安を軽減する機能があります。源二さんも,これまで抑えていた感情を表に出せたことによって,何か安堵感やカタルシスを得ることができたのでしょうか。
 いずれにしても,「小山のおうち」の取り組みは,痴呆とされる人の家族や専門家に驚きと反省を与えました。「痴呆」とされる人,本人が「呆けゆく自覚体験」としての気持ちを物語れるということが,「自分や周囲の状況などわからない,ましてやそれを語ることなどかなわないであろう」という一般的な「痴呆観」を覆したからです。
 「痴呆」とされる人たちには,「痴呆」になったという自覚,病識がないのではないか,と思われる読者の方も多いかと思います。しかし,読者の皆さんがかかわっている人たちの多くは,家族が対応に困りはてて,最終的に皆さんの勤められている施設に移られた方たちです。その方たちが皆はじめから「痴呆」になったという自覚がなかった,と言い切れるでしょうか。
 前回で引用した正高信男さんも,病識の欠落は痴呆がかなり進んで後のことであり,初期には「こんなことは以前はなかったのに……」とか「自分がおかしい」という感覚や認識が本人には多かれ少なかれついてまわるのではないか,こうした病識の存在を私たち周囲が知らないのは,ひとえに当事者が自分の思いを素直に言い出さないからではないか,あるいは切り出しにくい雰囲気が今日の社会全般にただよっているからかもしれない,と言っています。

「自己開示」できる「場」

 そんな意味では,「小山のおうち」で「痴呆」とされる人たちが自己開示できるのは,痴呆に対する忌避感や恐怖感といった,今日の社会全般にただよっている「呆けゆく」当事者が自分の思いを素直に言い出すことが難しい雰囲気を一掃させるような,おおらかな場の空気が流れているからかもしれません。
 自己開示できるためには,自己開示できる場がメンバーにとって信頼できる,安心できるところである必要があります。たえず自分の気持ち,不満でも不安でも何でも聞いてもらえる場がコンスタントに保障されていなければならないのです。
 源二さんが“つぶやく”ことができたのも,つぶやいてもかまわない信頼のおける相手が存在したからなのでしょうし,メンバーが「思いのまま」自由に自分の気持ちを語り合い,自己を開示することができる場の雰囲気が「小山のおうち」ではつくられていたからでしょう。
 また,この場合の自己開示というのは,その語からくるイメージとは違い,自分の意志や力,あるいは気持ちの持ちようから行なうものとは異なる次元で出てきたものだと思います。他者や周囲の人たちと相互に交わる中で出てくるものだということです。そういう意味では,冒頭の後藤さんの「誰かちゃんと私の相手として向き合ってくれないだろうか」という寂しさ(これは私の推測ですが)も受けとめうるケアの場が,そこにはあるのではないでしょうか。

自分の意志ではない「自己開示」?

 しかし一方で,そんな簡単に,人間は素顔の自分,秘めようとする部分を相手にみせられるのだろうか,と「自己開示」というコミュニケーションそのものに対して疑問が生じてきます。僕は,周囲から開けっぴろげな性格だと思われることもありますが,自分を出さない性格だと指摘されたこともあります。僕は案外,「自己開示」が下手くそな人間なのかもしれない,と思っています。こんな僕が「痴呆」になったとしたら,たとえ自己開示しやすい場の雰囲気があったとしても,自分が「痴呆」になったかもしれない苦悩や葛藤を周囲に言い出せないままかかえこんでいるかもしれない,と思います。そして,自分は痴呆になんかなってないと周囲に言い張るでしょう。
 僕たちは,おしなべてすべての人に自分の姿のすべてをあらわにすることはせず,どちらかというと自分にとって都合の悪い面は隠し偽り,いい印象を与えようと仮面をかぶって演技したりします(こうした対人コミュニケーションは「自己開示」ではなく「自己呈示」といいます)。そんな自己開示が下手な僕でさえも,自分の意志や気持ちの持ちようで語るのとは別の次元で,場の雰囲気の流れの中で自らの呆けやもの忘れの深さの苦悩についておおらかに語り合えうことが日常となるような時代は来るのでしょうか。

【文献】
参考文献:深田博己『インターパーソナル・コミュニケーション』北大路書房,1998年.

【著者紹介】  ホームヘルパー2級の資格を駆使して,痴呆ケアの現場にかかわりながらフィールドワークを行なう若手社会学者。自称「ボディフィールだー」として,ケア現場で感じた感覚(ボディフィール)を丹念に言葉にしながら,痴呆ケアの実像を探る。