医学界新聞

 

<新春対談>

ケアの思想の時代を確信

『見えないものと見えるもの-社交とアシストの障害学』発刊に寄せて

石川 准氏(静岡県立大学国際関係学部教授)
武井麻子氏(日本赤十字看護大学教授)


 話題の新刊,『見えないものと見えるもの-社交とアシストの障害学』(左,石川准著)が弊社より刊行された。「気づかいは裏切られ,社交は続かず,感情労働は挫折する。そんな破綻の先で,人はようやく他者と出会えるのかもしれない――だから障害学はおもしろい」(同書オビより)。視覚障害の当事者として,社会学者として,またコンピュータ・プログラマーとして社会と「かかわる」石川准氏に,『感情と看護』(弊社刊)で看護に潜在していた感情にかかわる諸問題を指摘した武井麻子氏が聞く。


■存在証明とケア――他者のために自分の力を使う人たち

武井 『見えないものと見えるもの-社交とアシストの障害学』の発刊,おめでとうございます。コンピュータ・プログラマーで社会学者,さらに昨年設立された「日本障害学会」の初代会長にも就任された視覚障害の当事者でもある石川さんが,今回ケアについて書かれた経緯について,まず教えてください。
石川 ケアというのは,正直いって私にとっては「遠いテーマ」でした。私がずっと取り組んできたテーマは「存在証明」で,人はなぜ認められたいと思うのか,あるいは認められるためにどうして自分がすりきれるほどがんばってしまうのか,という問題を考えてきました。それをテーマとしてきたのは,私自身が自分の能力による存在証明に躍起になって生きてきた人間だということもあり,どうしても「人は自分のことで精一杯な生き物である」というのが,物を考える時の基本的な枠組みとしてあったからです。
 ですから,看護師のように,自分の存在証明の延長線上ではなく,とにかく「人のために自分の力を使う」というあり方をする人がいるということは,頭では理解していましたが,今回,こうして本に書くまでは,私にとっては謎だったんですね。そういう意味で,今回の執筆はとてもおもしろかったですし,手前味噌ですが,自分の著作の中でも,今までにないような仕上がりになっているようには感じています。
武井 看護師は「人のために」からスタートしているようで,実はむしろ,「人のための自分」というアイデンティティを求めている人,つまり自己のアイデンティティのために他者を必要としているところがあるように私は思います。そういう意味では,石川さんのこれまでのお仕事である「存在証明」と,ケアの問題というのは,意外に近いのではないかと思うのですが。
石川 なるほど。看護師は「私を必要とする人を,私は必要としている」人たちということですね。それは,私の言葉では「関係にすがる存在証明」型の人間ということになります。しかし同じ存在証明でも,私は自分自身を「能力にすがる存在証明」型の人間と考えているので,すでにギャップを感じないわけではないんですよ。
 しかも,どうもギャップはそれだけではないようにも感じるのです。存在証明という次元を超えて,単に「他者を喜ばせる」「他者にかかわる」ことそのものがうれしいし,人とのつながりを感じて自分もエンパワーされる,そういう人たちが実際にいるような感じがするんです。

看護師の「業」

石川 もちろん,他者にかかわることがうれしいということ自体は,自他ともに元気な場面なら不思議ではありません。しかし問題は,他者が苦悩している場面に至近距離で向かい合う時ですよね。看護という仕事はまさにそうで,相手の感情が,ポジティブなものだけでなく,むしろネガティブなものがどんどん流れ込んでくる。これは本来,非常にたいへんなことだと思いますし,好き好んでそんな世界に入っていく看護師というのはどういう人なのだろうと思っていたんですよ(笑)。
武井 そういうことは,看護師になる時点では予期してなかっただけだと思います(笑)。
 ほとんどの人は,看護師を志望する時点では,苦しんでいる人たちを慰めることによって感謝される自分という,例えればマザー・テレサをイメージして入学してきます。口では言わないけれど,皆が感謝してくれ,誉めてくれる,自分の仕事はそういう形で報われると期待しているわけです。そういう意味ではまさに石川さんがおっしゃる「存在証明」を求めて看護師になるのだと私は思います。
 しかし,実際に現場に行ってみると,現実はそんなものじゃないわけです。かかわろうとしたら拒絶され,ミスをして叱られ,さらには目の前で人が死んでいく。ですから問題は,そういう現実にぶつかってしまった後,だと思うんですね。
石川 なるほど,そこが存在証明型の説明では捉えきれないところですね。「こんなはずじゃなかった」と辞めていく人がいる一方で,辞めない人がいる。賞賛されて,いい気持ちで仕事ができるという期待が裏切られ,つらいことが多いのに,それでも続ける人がいる。そういう人の内面では何が起きているんでしょう。
武井 私はそれを看護師の「業」みたいなものだと感じているんですよ。今回の本にケビン・カーター(注1)が,衝撃的な戦争の写真を撮ったあと自殺してしまったエピソードが紹介されていますが,ああいう感じはすごく看護師のあり方に通じるものがあるように思います。彼はあの場面に出くわして,シャッターを押さないわけにはいかなかったのだと思うんですよね。
 人間の死とか苦しみを目の当たりにした人間は,ある種の「刻印」を受けてしまいます。なぜだかわからないけれど,そういう現実に対して,責任を感じてしまうのです。「それはあなたのせいではない」と他人は言えるけれど,経験した人は感じずにはいられない。
 現実から「逃げてはいけない」という感情を,経験の長い看護師は必ずといっていいほど,持っているんですね。
石川 単に「受け入れてもらいたい」あるいは「賞賛されたい」といった存在証明と,ケアにかかわる人の内的な動機の違いは,そういう「逃れられなさ」に起因する倫理性みたいなことかもしれませんね。すごく,迫力を感じます。

存在証明の2つの軸

武井 一方で,私が思うのは,石川さんは自らを「能力による存在証明」に夢中になっているとおっしゃっているけれども,そこにはやはり,人と共存したいという意思も見えるということです。
 例えば石川さんは,視覚障害者用のコンピュータ・プログラムを作るという形でご自分の能力を発揮し,存在証明を果たしている一方で,そうした作品を無償で提供することによって,結果的に,能力の限界を超える別の優秀な視覚障害者を育てることに寄与していますよね。
石川 私の存在証明の結果として,ほかの人も有能になってしまう,っていうことですね。たしかに,「敵に塩を送る」ようなところがありますね(笑)。
武井 だから,私が思うのは,石川さんは単純にご自分の能力にしがみついているわけではないのではないか,もう一方では,他との関係性を求めているところがあるのではないか,と思ったのですが。
石川 私が作ったソフトのユーザーが有能になることはかまわないし,有能になってくれればいいと思いますね。要するに,そのことを含めて私のやった仕事がねぎらってもらえればうれしい,ということだと思います。
武井 つまり,その仕事を通して石川さんを承認してくれる他者との関係を求めるところが,やはりありますよね。石川さんが最初におっしゃった,「能力にすがる存在証明」と「関係性にすがる存在証明」の2つが,存在証明の両軸として存在していて,その2つの軸を中心に楕円軌道を回っている。「存在証明」って,そもそも,そういうことじゃないのかな,と思うんですね。
 ですから,石川さんと看護師では力点が置かれているポイントが違うものの,同じように,能力による存在証明をしつつ,関係性を求めるといったところがあるように思うのです。
石川 相手を制御したい,支配したい,君臨したいという思いと,愛されたい,受け入れてもらいたいという思いの2つの軸の間で揺れ動く,ということですね。
 私が前者に力点があるとすると,武井さんはじめ,看護の人は後者から入った人たちということになるでしょうか。
武井 どうでしょうね。私は幼稚園からずっとカトリック系の学校で,ずっと「人のために尽くしなさい」といわれ続けてきたから,本当はその枠組みから抜け出したくて仕方がなかったんですよ。
石川 私は「同一化と距離化」という言葉をよく使うんですが,カトリックの教育に同一化しきれない自分,しかし一方で,距離化しきれない自分がある,ということでしょうか。
 今回の本では感情労働についても大きく触れているのですが,看護でも,あんまり患者さんの感情に同一化しすぎるとバーンアウトしてしまうし,あまりに距離化して,「看護なんて所詮演技なんだ」と冷めてしまうと,ある種,低自尊心みたいなものを抱え込んでしまい,冷え冷えとした気分に落ち込んでしまいます。
 武井さんの論は,熱すぎもしなければ,クール過ぎもしない,ちょうどいい湯加減だと思います(笑)。武井さんが3年前に書かれた『感情と看護』もちょうどいい距離化が図られた本で,普段の自分の仕事を振り返るような意味でもぜひ現場の看護師さんに読んでもらいたい本だと思います。

「社交」から「脱社交」へ

ケアの三者関係

武井 感情労働にも少し触れていただきましたが,今回の石川さんの本ではそうした,ケアのこれからのあり方といったことに踏み込んでいますね。
石川 まったくの素人考えなんですが,その1つとして,田崎真也氏(注2)の『田崎真也のサービスの極意』(大和出版)という本を引用しつつ,「ケアの三者関係」ということを提案しました。
 田崎氏が言うには,サービススタッフ(ソムリエやウェーター)の仕事とは,ホストが気持ちよく,ゲストをもてなせるようにアシストすることである,というのですね。例えば,カップルが店を訪れたら,男性客(ホスト)が女性客(ゲスト)をもてなす,その手助けにサービススタッフは徹するべきであって,決して直接ゲストをもてなしてはいけないというのです。
 これを医療にあてはめて考えると,いろいろと示唆がえられるのではないでしょうか。例えば,障害者の介護でしばしば問題になってきたことに,自己決定の問題があります。それはつまり,どのような介護がどれくらい必要かは,障害者自身が判断すべきことであって,医療者や,専門家が決めることではない,という主張です。これは,ホスト(障害者)の意思を無視して勝手にゲスト(障害者の身体)をもてなしてはいけない,それは押しつけであるというふうに読み替えることができるでしょう。
 また,田崎氏はサービススタッフがしばしば,お客さんではなく,厨房にいるシェフをいわばホストとして扱い,シェフが気持ちよく仕事できるように動いているレストランやホテルが少なからず見られることも批判しています。
武井 それは,看護師が医師の意向ばかり気にしていて,患者に向き合っていない状況になりがちなことと,よく似ていますね。
石川 その他,いろいろと示唆はあったのですが,要するに,医療の仕事というのは技術系の職種である医師と,サービス系の職種である看護師の間でパートナーシップをもって,患者が自分自身を治していくことをアシストすることなのではないか,これこそが医療,看護の基本ではないかといったことを書いたのですが,これについてはどのように思われますか?
武井 基本的にはその通りだと思います。そうすれば,医療提供者と看護師も対等なパートナーシップを持てると思いますし,患者さんの主体性を確保する意味でも,そういった形が基本になることが望ましいでしょう。
 ただ一方で,そのモデルにあてはまらないケースが医療では多いこともたしかでしょうね。例えば重症なうつの人に,「自己決定」を求めるのはとても無理で,多少とも「お節介」にならざるを得ないことがままあります。いま提案された「アシストモデル」は,やはり「社交」,つまり,形式的であれ,コミュニケーションが可能な主体同士であることが前提になるのではないでしょうか。
石川 例えば重度の痴呆高齢者であるとか,精神障害の重い人などの場合,社交が成立しないから,アシストモデルも成立しないということですね。
 ただ,アシストモデルが破綻しない範囲でやっていける程度の状態の人についても,あたかも破綻しているかのように扱われている現実はあるように思います。
 映画の『マイフェアレディ』のワンシーンで,言葉使いや立居振舞を矯正され,花売り娘からレディに変身したオードリー・ヘップバーンが,「レディと花売り娘の違いは,どう振る舞うかではなく,どう扱われるかです」と怒る場面があると本の中で紹介しましたが,実際,人は「どのように扱われるか」によって,あり方が変わる存在でもあると思います。ですから,やはり基本はアシストと社交を前提に考えたほうがいいと思うのですが。
武井 そうですね。アシストモデルが中心になるべきだというのには,まったく異存はありません。実際,そういう意味でお節介な看護はよく目にしますし,それは望ましいとは思えません。

「脱社交」にこそケアの醍醐味が?

石川 武井さんのご指摘のとおり,アシストモデルは必ずどこかで破綻します。しかし,その破綻した先にこそ,ある種の希望というか,ケアの醍醐味があるようにも,私は思うのです。それは私の言葉でいうと「脱社交」というあり方なのですが,それはつまり,形式的なコミュニケーション(=社交)では,にっちもさっちもいかなくなって,どのように振舞えばいいのかのルールも崩壊した後に,それでもお互いに,お互いの存在を精一杯感じながら,関係を作っていこうという段階ですね。ケアというのは,実はそこからはじまるのではないか,と思うのです。
武井 「脱社交」からケアがはじまる,というのは同感です。
 最近,困難事例を取り上げる事例検討会で,糖尿病を持つ統合失調症患者の事例が紹介されました。暴力や盗みの問題行動があり,なかなかかかわりが持てない患者さんでした。糖尿病がひどかったので,「血糖値があがったら,間食しないよう行動の制限をする」といったケアプランを看護師が立てたのですが,それ以来,どんどん具合も関係性も悪くなってしまったという事例でした。聞くと,患者さんは家族からは見放され,住まいもなく,どうやら食べること以外楽しみがなかったのです。
 こうなると,看護としては非常に難しい立場になります。自由に食べさせると糖尿病で死んでしまう,制限すると死にたくなるほど精神的に追い詰められてしまう。どちらを選択しても駄目というわけです。医療者としてはとにかく「命を守る」というのが建前ですが,実際にかかわっている看護師としては「好きなものを食べて死ぬんだったら,この人本望じゃないか」と,口には出せないけれど思っているわけです。
 事例検討会の結論は,ともかく,「私はあなたのことを気にかけていますよ」というメッセージをきちんと言葉で伝えてはどうか,という第3の選択肢でした。その後はといえば,そう伝えたところ,相変わらずよくはなってないようですが,保護室に入るとちゃんと挨拶してくれるようになったそうです。これはアシストでもお節介でもない,脱社交的な関係が始まっているといえるのではないでしょうか。
石川 そうですね。その事例の場合,それからどのように展開していくかも,大きな問題だと思いますが,いずれにしても,そういうふうに事態が極まって,社交的な関係が完全に破綻してしまってなお,お互いの感情,引いては存在を感じあい,かかわりあうということ。それが,私が「脱社交」という言葉で表現したかったことでした。
武井 脱社交的な関係性というのは,非常におもしろいと思っています。普通の病院が社交の場だとすれば,そこに医療者からの,怒りや悲しみの表出を含めた人間的反応が加わるのが,脱社交的な治療環境といえるでしょう。いわば,それをシステムとして行なったのが海上寮療養所のような治療共同体(注3)ですよね。
 これに似た実践は,実は世界中のさまざまなところで行われているですが,あまり知られていません。むしろ昨今の心神喪失者等医療観察法の発想に象徴されるように,管理するという方向性が強いのですが,これはまったく逆の方向性ですよね。
石川 そういったところでは,社交自体が存在しないわけで,人間として扱ってもらえない環境ですよね。いわば社交や脱社交以前の「非社交的」な環境といえます。
武井 世界で起きている動きの1つとして,私はSocial capitalという,人と人とのつながりを資本としてみる考え方に興味を持っています。『人と人のつながりに投資する企業』(ダイヤモンド社)という本に,そうしたsocial capitalを重要視した企業が紹介されているのですが,それは会社の中に人が寄り集まっておしゃべりをする場を設け,そういう社交そのものを会社の資本としてみなすもので,それがチームを活性化させ,生産性をあげるというのです。従来の日本型企業に近い感覚なんですよね。
 ですから,これからは医療も含めて,そこにどのような人間的空間を作るかということが問われるんでしょうね。社交を基盤としたコミュニティでありながら,そこで脱社交を求める人を含みこむような,そういうやわらかな境界を持つコミュニティが望ましいのだと思います。
石川 「浦河べてるの家」(注4)のビデオに登場するメンバーたちは,普段はとてもわきあいあいと「社交的」にコミュニケーションしています。けれど,実際には「トラブルだらけ」なわけで,脱社交的な出来事が頻発しているはずです。しかし,いろんな事件が起きても,べてるではそういう人を排除するという方向性にはならないわけです。
 そういう意味で,「高度に文明化した社会」というのは,単に経済力や技術力が高いということではなく,人と人がお互いに積極的に尊重しあおうとする文化を持っている社会なのだと思いますね。社交を基本として持ちながらも,それが破綻するところまで含めて一生懸命に生きている人を尊重しようという感覚が,すごくベーシックなところである社会ということですね。

「ケアの思想の時代を確信」

武井 看護はこれまで,それこそ「白衣の天使」といったステレオタイプなイメージで語られることが多かったのですが,近年,石川さんのように,異業種の人たちが「ケア」についてそれぞれの立場で語るようになってきました。私はそれがとってもいいことだと思っているんです。看護はこれまでずっと孤立していましたから。看護師はずっと自己評価が低かったのです。それが,いろんな人がケアについて語り,その実態に関心を寄せてくれるようになったことで,ずいぶん変わってきたように思います。
石川 逆に言えば,当然のように良きこととしてシンプルに信じられてきたケアが,近年「患者の自立」「障害者の自立」ということが言われるようになり,その正当性が揺らいできたということがいえるかもしれないですね。つまり,もう一度,ケアの正当性を立て直していく思想なり何なりが必要とされてきているということではないでしょうか。「いたわりあって何が悪いんだ,それはいいことじゃないか,正しいことじゃないか」と。
 あとがきで「ケアの思想の時代を確信した」と書いたのですが,今回ケアについて考えてみたところ,これはなかなかいいものだなあ,と率直に思ったんです。
 ケアを考えることによって,「ああ,人というのは,精一杯生きているんだな」ということを感じることができましたし,私自身「だとすれば,自分もまた,精一杯生きているんだ」と思うことができました。
 存在証明の話とは違って,ケアというのは常にお互いの存在に気持ちが動きます。1人でがんばろうとすると,かえって生きる力がそがれるようなところがありますが,ケアの場合は,お互いの存在を実感することによって,生きる力をお互いに与え合い,エンパワーされるようなところがあると今回,直感的に感じましたね。
 長いスパンでいうと,高度経済成長時代の社会は,存在証明系で,人をがんばらせるというかたちでやってきました。学校なんか,まさにそうですよね。しかし近頃になって,どういうわけか,人はがんばらなくなってきたように思います。いろいろ背景はあるでしょうけれど,おそらく「存在証明のためにがんばる」という人が少数派になってきたのではないかと思うんです。
 人を働かせるほどの存在証明。そういうゲームが成立しない時代になってきた今,「ケア」ということが,人が生きていくことを支えるんだという感覚を,皆が持ちはじめているのかな,と感じています。
(おわり)

注1)ケビン・カーター:1993年,スーダン内戦中に,ハゲタカに狙われる少女の写真を撮り,翌年ピューリツァ賞を受賞した写真家・ジャーナリスト。その後,自殺。
注2)田崎真也:世界ソムリエコンクールで日本人初の世界一を獲得したソムリエ。主著に『ワイン生活』(新潮社)などがある。
注3)治療共同体:スタッフが患者と対等の立場で治療と運営にかかわることを治療の根幹とし,そこで生じるさまざまな感情の吟味が重要視される精神科治療の方法論。武井氏が以前勤務していた海上寮療養所はわが国での一例。
注4)「浦河べてるの家」:北海道浦河町にある,精神病の当事者を中心としたメンバーによる小規模通所授産施設。その独自の取り組みが近年注目を集めている。




石川 准氏
 静岡県立大学国際関係学部教授。16歳の時に網膜剥離で失明。東京大学文学部社会学科卒業,同大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。2003年10月に設立された日本障害学会(Japan Society for Disability Studies)の初代会長に就任した。また,自動点訳ソフト,スクリーンリーダー,ウェブブラウザなどのソフトウェア開発でも高い評価を受けている。主著に『アイデンティティ・ゲーム』(新評論),『人はなぜ認められたいのか』(旬報社),『管理される心』(共訳,世界思想社)など。



武井麻子氏
 東京大学医学部保健学科卒業後,大学院に進学,精神衛生学を専攻。千葉県の海上寮療養所にて看護婦・ソーシャルワーカーとして勤務した後,千葉県立衛生短期大学助教授を経て,現在日本赤十字看護大学教授。主著に『精神看護学ノート』『感情と看護』『「グループ」という方法』(以上,医学書院),『感情労働としての看護』(共訳・ゆみる出版)などがある。