医学界新聞

 

【投稿】

アフガニスタンにおける整形外科医療支援

山野慶樹(大阪市立大学大学院名誉教授)


はじめに

 私は水野祥太郎先生(当時は阪大教授で後に川崎医大学長)がはじめられたカブールにある国立Wazir Akbar Khan(WAK)病院での整形外科プロジェクトに,“砂漠の中でも働ける医師に”と言われ,1974年から1975年にかけ1年3か月間赴任した。この援助は,後年に開かれた,先進国と発展途上国との「世界の整形外科を援助する会議」でアメリカにより高く評価されている。
 その後はソ連との戦争,続く内戦で訪れる機会はなかったが,アメリカのアルカイダ掃討作戦後に,各国のアフガニスタン援助がはじまった。ちょうど私が定年退職を迎え,30年近く前に援助した病院がどのような状況か,今後どのような貢献ができるか考えていた折であり,この巡りあわせを大切にと思い,アフガンの支援を思い立った。
 昨年の調査団派遣に続き,JICAの援助として障害者対策を含めた整形外科の短期支援が決まり,JICAから手術ができる最低限の器材を購入,関連病院から不要となった器材の寄贈を受け,自験例のスライド,解剖書と整形外科の精書を持って,以前短期間であるが一緒に働いた看護師(東大病院看護師長)と共に,カブールに4月から7月にかけ3か月間滞在した。
 前回訪れた時の最初の印象は,梅棹忠夫著『モゴール族探検記』(岩波新書)のように中世を彷彿とさせたが,28年後の今回は随所に戦禍の跡が見られるものの,市内は本来の活気を取り戻しており,街のたたずまい,アフガン特有の風俗と情景は以前と変わらなかった。変わったといえば多くの家屋が破壊され,自動車(ほとんどが日本製)が増え交通渋滞があること,さらに長年の内戦とアメリカの空爆で肢体不自由者,物乞いがみうけられたことだろうか。しかし,建国以来支配されたことのない誇り高き民族性は失われていなかった。

イスラム社会と風土

 国民のほとんどが敬虔なイスラム教徒であるアフガンの朝は早い。夏は午前3時過ぎからゆったりとしたコーランがどこからともなく流れてくる。1日5回あるうちの,日の出前のお祈りである。町ではほとんどの女性はチャドリを被っており,家に招かれても女は一切顔を出さないし,食事にも同席しない。ひたすら厨房で働いている。カメラを向けると少女は逃げ出し,残るは男ばかりとなる。コーランによれば4人まで娶ることができるが,病院などで働く女性はいささかこの戒律に抵抗しているように思える。子どもは多く,年上が年下の子どもの面倒を見る。果物や野菜は豊富で安価,酒類は表には陳列してないが適当に売られている。
 日本では周囲から「アフガニスタンは危険ではないのか」とよく問われたが,「日本で交通事故にあう程度」と答えている。シルクロードの十字路に位置しており,古くより異民族の往来が盛んで,本来友好的な民族である。たしかに病院には地方から週に1-2例,部族間の争いによるgunshot injuryや地雷損傷患者がいまだに運び込まれているが,まったく身の危険は感じなかった。
 夏季は雨が降らず,雪解け水で過ごすので,土地より水がこの国では大切である。砂漠にわずかに生えた草を追って遊牧民が家畜を連れて移動する。山に囲まれた海抜1800mのカブールは乾燥していることもあって,粉(糞)塵と排気ガスで空気はよく淀んでいた。衛生状態は悪く,血行性骨・関節感染症や結核が多く,いまだにポリオが発生するのもうなずける。
 バザールでは男とチャドリを被った女でごった返しており,多くの日用品はここでそろう。物価は安いがそれでも値引き交渉をする。値段を聞き,立ち去ろうとすると,こちらの値段はいくらかと来る。情けを出して値段を言うと買わざるを得なくなるので,ここは情け容赦なく思う値段で何の恥じらいもない。
 市内にはアフガン料理をはじめイタリア料理などのレストランがあり食事には不自由しないが,生野菜には注意せねばならない。昼食はノン(アフガン式パン)を主に20円程度で済ましていた。この国では餓死者は出ない。

WAK病院医療支援

 ほとんどの医師が内戦中の卒業で十分な医学教育を受けておらず,この国では宗教上の理由から解剖学の実習がないこともあって,整形外科の医療レベルは低下していた。病院には解剖学や整形外科関連の医学書もなく,医療器材は国際赤十字から最小限の消耗品は供与されているが,常に医療器材が不足しており,手術器械にいたっては30年前に日本から供与され,消耗したものがまだ使われていた。
 このような状態なので,1日20人に及ぶ骨折,外傷を主とする救急患者(地方からの患者が大半)には対応しきれていない。アフガン医師は医療器材の中でも,特に手術用X線透視装置を強く要望していたが,ハイテク器材どころか,キルシュナー鋼線がなくて骨折患者に対応できないこともあった。
 そうした設備や器材の不備,病院の老化,耐用年数を超えた術衣や,手術器材の清潔の保持など環境衛生の改善に加えて,私がもっとも腐心したのは手術においての繊細な組織の取り扱い,愛護的な手技の指導であった。紹介患者や毎朝のカンファレンスや回診では診察方法,特におざなりになっている脊椎疾患の神経学的検査法から診断,保存的治療法,各種手術法の適応などを教示したが,はじめはなかなか納得されないため,日本から持ってきた精書をコピーして示すことも多かった。
 さらに私自身が骨折の難しい症例から,血管修復法,関節手術,腱移行,椎間板ヘルニア,脱臼,偽関節などに有用な手術やカリエスに対する前方除圧椎体固定,指再接着,腕神経断裂に対する神経移植・神経移行などの手術を実際に行なってみせることで,これまで行なわれていなかった手術に関しても理解されるようになった。
 手術日は週3回あり,薬剤の関係から全身麻酔を行なえるのは1日1件で,手術以外に伝達麻酔なども頼まれ大変であった。
 救急の血管損傷を伴う症例は来院時に修復すべきと指導したこともあって,実際,何度か深夜帯にコールされ手術を行なったこともあったが,それは私が大学で指導してきたのと同様,患者に対する医師としての姿勢を示すためでもあった。将来アフガンの整形外科を背負って立つような有能な人材に,日本で学んでもらいアフガン全土に及ぼしてもらいたいと思っている。

カブール大学医学部講義

 医学部長に了解を得て整形外科の講義を行なうことになり,通訳をつけようと思ったが,英語で授業すれば通訳は必要ないと学生は言う。これが日本の学生であったら,いかがであろうか。
 暗幕などもない階段教室で,時に停電したりでハード面はまったく悪く,講義に使うスライドは器材を含めこちらが準備し,教室の壁に投影した。
 学生はタリバン政権以後の入学で,女性30人あまりを含め150人共学で毎回ほぼ全員出席,さすがにチャドリ姿の女性はいなかったが写真は嫌がった。スライドを多用したビジュアルな講義にしたが,スライドは初めてのためか,居眠りはついぞ見かけなかった。毎回講義の終わりに小テストをしたが,よく理解されており優秀であった。講義終了後や病院実習で人懐っこく話しかけてくるのは男ばかりで,彼らの多くは日本に留学したいと訴えた。

おわりに

 アフガニスタン人は,19世紀にインドを支配していたイギリスがアフガニスタンに3度攻め込んでことごとく敗退している歴史が示すごとく誇り高き民族であると同時に,接すれば先進国では失われがちである純粋な心の温かさをもった民族でもある。コナン・ドイルの『シャーロックホームズ』に「ワトソン博士,日焼けしているが南方に行っていたのか」というくだりがあるが,彼は第3次英・アフガン戦争で唯一,一命を取り留めた軍医という話もある。
 大国の狭間で翻弄され,イギリスとロシアのなかば緩衝地帯として不毛の砂漠に国境が定められたアフガニスタンは,東はワハン回廊を介して中国と接する。構成する民族も隣国にまたがり,公用語が2つとその風土,民族,風俗習慣を含め,日本とあまりにも好対照である。
 日本はこれまでに種々の支援をしているが,アフガンの人々には他国と異なって心からの支援とありがたく受け止められている。アフガン復興支援会議がアフガンで評価の高いドイツと日本で開催されたが,これがアメリカとイギリスであったら,はたして開かれたであろうか。
 私たちの行なってきた整形外科医療支援は,よく言われる「顔の見えない援助」とは異なる,現場で医師・患者と対峙する地についたbottom upの支援である。
 帰国に際し,滞在をもう3か月,あるいは半年延ばせないかと言われたが,このような支援こそが本当に要望されているのだと感じている。立派なひげ面の誇り高いアフガン医師には器材などの供与もさることながら,まず医師としての実力が大切で,それがあって,はじめて有効な支援ができるのである。そして,この国はそれを必要としている。要請された器材のうちで調達できるものを持って,アフガン整形外科のレベルアップのために再度赴く予定である。