医学界新聞

 

〔連載〕
かれらを
痴呆
呼ぶ前に
「ボディフィールだー」出口泰靖のフィールドノート
    その6
  サトリ,サトラレ,サトラサレ!?(2)の巻
出口泰靖(ホームヘルパー2級/山梨県立女子短期大学助教授)


2561号よりつづく

「サトラレ対策委員会」の言い分

 自分の思ったことが“思念波”としてすべて周囲の人たちに伝わってしまう「サトラレ」という人間の物語『サトラレ』のお話をもう少し。今度は,「サトラレ」を受けとめる周囲の人に注目してみたいと思います。
 サトラレ本人は,自分がサトラレであること,つまり自分の心の中が周囲にサトラレていることにまったく気づいていません。というより,サトラレであることを気づかないように,周囲が配慮しているのです。
 物語では,「サトラレ対策委員会」というものがつくられ,サトラレの周囲にいる人間には,サトラレ本人が「自分がサトラレである」と気づかないように,徹底的に配慮してガードする義務が「サトラレ保護法」によって課せられています。また,サトラレ自身には,自分がサトラレであることに気づかないように秘密裏に警護する「サトラレ対策委員」が何人もついています。まるで要人のSPのように。
 なぜこうも手厚くきめ細かい配慮を受けているかというと,サトラレ自身が自分の心の中(そこにはドロドロした猜疑心,嫉妬やあらぬ欲望などが含まれています。心の中身が人に知られていいことばかりでないのは,わざわざ胸に手を当ててみなくともおわかりいただけると思います)が他人にまる見えであることを知り,それが避けられないことに気づくと,その羞恥や困惑,そして辛さのあまり死んでしまう可能性があるからです。
 このことは「もし自分がサトラレだったら」と考えるとよく理解できます(それだけ,僕は日々人に知られたくないことを心の中で思っているということなのでしょうが)。

「サトラレ」を「パッシング」する

 一方,サトラレに配慮を続けなくてはいけない,周囲の人の苦労はいかほどのものでしょう。その人が考えていることがわかっていながらも,わからないフリをするのはなかなか難しく,神経を使うことです。大いに困惑し,混乱し,葛藤することもあるでしょう。サトラレの物語は,そうしたサトラレの周囲の側の人間模様,心のひだにまで触れて描かれています。
 まあこんな話は,漫画やドラマでのストーリーでしかありえないといえばそれまでなのですが,このサトラレの周囲の人がとる配慮や振る舞い,かかわりをみていると,僕は痴呆ケアの現場では,これと似たようなことをやってきたのではないかと思うのです。
 サトラレの周囲の人が行なっているような,周囲の人が本人に「痴呆」やそれからくる失態を気づかせない配慮やかかわりを,僕は「他者が相手の面子を保つために行なうパッシング」と称して,痴呆ケアの側面の1つとして指摘したことがあります。
 「パッシング」という言葉は,人と人とのあいだのやりとり(相互行為)について詳細な考察を加えたゴッフマンという社会学者が「信頼を損なうような事情を隠すこと」という定義で用いているものです。そして「呆けゆく」人においても,「問題行動」とみなされる行動の中や普段の振る舞いの中に,「呆け」だと思われることを回避しようと「パッシング(ごまかしたり,すり抜けたり,取り繕ったり,隠そうとしたり,つじつま合わせをしたりする)」をしているのではないかと思われるケースが多く見られます。僕があるグループホームで住み込みボランティアをしていた時に出会った久坂さん(仮名)もそんな方の1人でした。

 朝食。ボンヤリしながら,朝食の食卓に座る久坂さん。「どうやってここに来て,どうしてここにいるのか。病気でも何でもないのに。わたし,今のお勤め好きなのに。わたし,ちゃんとお勤めしてたのよ」。ボランティアの松野さん「どこで?」久坂さん,しばしハタと考えているような表情になり,少し間をおいて,「あなたに話すまでもないわ,そんなこと!」と声を荒げる。

 このように,「呆けゆく」人の中には,周囲の人たちが自分を「呆けた」とみなさないよう,あるいは呆けによる失態を叱責されないよう,「面子を保つ」ためにさまざまな回避的な対処方法をとることがあるのです。意識的にせよ無意識的にせよ,「もの忘れ」をしていることが他の人にばれないように,言葉を濁したり,話をすり替えたりするのです。
 ここでは,本人が「もの忘れ」あるいは「呆けゆくこと」それ自体を自覚しているか否かは問題ではありません。それよりむしろ,家族などの周囲の「重要な他者」からの信頼を失わないように,「呆けゆく」人が「呆け」様態からくる失態にどう対処しているかが重要なのです。

パッシングは痴呆ケアの常識?

 久坂さんはグループホームに来るまで長年生まれ育った下町で生活をしていました。実家でも嫁いだ先でも,しっかり仕事を担っており,「おかみさん」として店を切り盛りしていました。子どもが独立して一人暮らしをはじめてから,いわゆる「攻撃性」が出はじめ,近所からの苦情がきっかけで「入院」することになりました。
 入院後,家を息子に任せてしまうと,「おかみさん」というコミュニティにおける役割を喪失してしまい,久坂さんの生活環境は激変してしまいました。このような喪失体験は,自己存在の喪失感や不安感を抱きやすいといいます。また,久坂さんはしばしば自分のことを「怠け者だ」と口にしていました。「どうして食べてんだか。寝てるだけなんて。私,ここで何かやってるのかしら」と,仕事をしてお金を稼いでいないことに不安を感じていたようです。
 「呆けゆく」人には,自らの心身の状態の変化からの自己存在喪失に対する不安やおびえがみられます。また,彼らには「呆けゆく」人としての軌跡を周囲の者から押しつけられるのではないかという不安やおびえも感じています。この不安感や自己存在喪失感は,周囲の人たちが彼らを「呆けている」と直接的に指摘しないまでも,それまでとは違う対応をしてしまうことによって,さらに強まる可能性があるといわれています。
 そのため,臨床場面で行なわれる痴呆ケアでは,なるべく「呆け」様態に気づいても,それを胸の内にしまい込む傾向がみられます。つまり,前述したようなパッシングとは逆に,「呆けゆく人」が「呆け」という事態やそれをめぐる失敗に直面しないよう,周囲からパッシングを行なうという,「他者が相手の面子を保つために行なうパッシング」を行なっているのです。
 これは,本人に「呆け」と直面させることは残酷であり,また,生活する上でのトラブルを招きやすいという考えから,そうした場面に出くわしそうになると話題を変えたり,「私も呆けたかあ」というような嘆きに似た気づきにも,話をすり替えたり,やりすごしたりして,「呆け」様態を周囲の側から包み隠すケアといえます。
 例えば,久坂さんの「何でこんなとこに来ちゃったんだろう」という不安に対して,ケアスタッフが行なう「久坂さん,今まで入院してて,病み上がりなんです。だからここで,ゆっくり療養しているんですよ」という受け答えは,「あんた,呆けたね」とか「ここは痴呆性老人のためのグループホームだよ」ということを本人に顕わにしないように工夫されたものです。呆けに気づい(サトラサレ)ている周囲の人間が,まるで呆けなど存在しないかのように振舞うわけです。

「痴呆には,それしかない」

 「パッシング」のケアにはこのほかに,本人が失態を犯しそうになった時,それが失態とならないように演技するようなものもあります。次の出来事も,あるグループホームで僕が住み込みでボランティアさせていただいていた時のことです。

 夕食後,僕が1人で外で薪作りをやっていると,新井さん(仮名)も外に出てきて「洗濯物,とり込もうかね」とつぶやく。一応,スタッフのアキさん(仮名)に「取り込んでいいですか?」と聞いてみると,「生乾きかもしれないけど,取り込んで。もう一回,干し直すから」と言う。
 アキさんが言うには「その人その人に対して,自分がやってることが役に立っていると感じてもらうのが,一番のクスリ。自分の存在感が確かめられること,痴呆には,それしかない。乾いていない洗濯物を取り込んだりたたんだりすることも多いけれど,そういう場合は,無下に断らないで,やってもらう。こちらでもう一回気づかれないように干し直したり,洗い直したりすることになるけれど,そうすればいいし,それで済むこと」ということだった。

 自分がサトラレであることを知るのは非常に残酷なことです。それと同じように,「ひょっとして(呆けによる)不適切な行動をとったのでは」といった不確かな気づきをしてしまう可能性のある人たちに対し,「今はお昼ですよ」と僕たちの現実感からものを言ったり,「だめじゃないの,そんなことして!」と責めたりして,失態を直接的・明示的に可視化させ,現前化させるというのは,その人の自尊心を浸食してしまいかねない危険がある以上,避けねばならないといえます。
 だから,「サトラレ対策委員会」に所属するサトラレを警護する人たちのように,またサトラレの家族や周囲の人たちのように,痴呆ケアでは,周囲の配慮によって嘘や演技で本人の面子や自尊心を守ろうとするのでしょう。

痴呆ケアにまつわる「切ない」感触

 しかしながら,フト考えてもしまうのです。『サトラレ』にはこんなエピソードがあります。
 ある男性のサトラレが,彼の警護を担当していた女性と結婚し,子どもを授かります。しかし,その子もサトラレであったのです。その場合,たとえ親子であっても一緒に暮らすことができない規則があります。なぜなら,サトラレ同士がいると,両者はサトラレであることを悟ってしまうからです。
 お互いの思念波でたとえ黙っていても相手がサトラレだと伝え合ってしまう,そこから生じるさまざまなトラブルや混乱,そして「不幸」は避けねばならない,という「サトラレ対策委員会」の結論から,サトラレである夫は職場から単身赴任を命ぜられ,子どもと離れて生活をすることで2人が会える機会を制限し,両者が今後サトラレであると気づかせずに生活をさせるシナリオを対策委員会で作り上げるのです。そしてそのシナリオでは,父親のサトラレが子のサトラレと会う時には,子どもをサトラレでない子(同じ時期に生まれた別の子ども)にすり替え,身代わりとして引き合わせる,というまさに「離れ技」まで行なわれるのです。
 サトラレである父親と娘は,実の親子でありながらもサトラレであるということで会うことが許されないとは。すべての事情を「サトラサレ」たうえで,父子のサトラレのあいだに立って振る舞わねばならない母親の心境やいかに。
 何ともやるせなく,切ない気持ちにさせられるストーリーです。本人にサトラレであると気づかせるのが残酷であることは十分わかっていながらも,サトラレと気づかせないために,周囲の者たちはそこまでして演技し,嘘をつきとおさねばならないのか,と。
 しかし,同じような切ない気持ちを,僕は痴呆ケアに関しても感じるのです。「痴呆」とされる人が失態したことをめぐる羞恥や自尊心喪失を回避する最善の策とはいえ,嘘やだましの演技をしてしまうかかわりに対して,かかわる側としての僕はそうしたかかわりを続けながらも時に心の奥にあるひだひだに骨が刺さってひっかかるような感覚におそわれるのです。