医学界新聞

 

〔連載〕
かれらを
痴呆
呼ぶ前に
「ボディフィールだー」出口泰靖のフィールドノート
    その5
  サトリ,サトラレ,サトラサレ!?(1)の巻
出口泰靖(ホームヘルパー2級/山梨県立女子短期大学助教授)


2557号よりつづく

「サトリ」になりたいと思うとき

 痴呆とされる人が僕たちに示す言動が何を意味しているのか,その人が何を思い,何を考えているのかがわかったら,さぞかしいいだろうなあと思う時があります。僕にとって,前々回から登場しているゆきさんもそんな方のひとりです。彼女の不思議な言動を目にするたびに,彼女がその時,何を思い,何を考えているのか,その気持ちを見抜けたらなあ,とふと思うのです。こんなこともありました。

 ゆきさん,円柱型のガラスケースを前にしてブツブツ。「どうなさいました?」「巾着が中に入ってしまって。これからお米を買ってこようと思っているのに」。巾着? そんなものがこの中にあるんかいな? と思って,ゆきさんの視線を追って見ると,ガラスケースの中のサンタクロースの人形がおもちゃの入った緑の袋を手にしている。ハハーン,この緑の袋のことか? 「あれ,そうなんですか。ゆきさんの巾着なんですか。この中にがま口(お年寄りはよく財布のことをがま口という)を入れているんですか?」と聞くと,そうだという。「どうしてこんなとこに入れちゃったんだろ。上から落ちちゃったのかな」というゆきさんに僕は「お米なら買っときますよ。ついでに,お新香用のキュウリも何本か買っておきますよ。ゆきさんは従業員の人と一緒にお昼を召しあがっといてください」。ゆきさん「あら,そうですか。すみませんねぇ」と両手をあわせて僕にお礼を言う。

 僕がゆきさんにこんな対応をしていても,ゆきさんがかつて旅館の仲居をしていた時,巾着の中にがま口を入れて買い物に行っていたことがわかっても,今,ゆきさんがどんな気持ちなのかはわかりません。僕は,どうかかわればゆきさんの気持ちが落ち着かれるのか,彼女の心の中を知りたいという気持ちにかられていました。
 また,僕があるグループホームで出会った岡さん(仮名)という方も,その心の中を知りたい,わかりたい,と思わずにはいられない方でした。彼女は日中,サメザメと悲しそうな顔をしばらくしつづける時もあれば,しかめっ面をしてジッとじゅうたんの毛をむしりながらブツブツと独り言を言っているような時間が続く時もあり,ひたすら赤ん坊の人形の服をとりつくろったりしているかと思うと,ニコニコしておられる時もある,といった方でした。またお話を聞こうとしても,ほとんど言葉がクリアーに出てこない様子で,うまく話を聞き取ることはできませんでした。
 不可解な言動をとるゆきさんや,言葉がほとんど出にくい岡さんのように,相手が何を思い,何を考えているのか,わかりにくい人たちに対して,その心を自在に読み取れれば,さぞかしいいだろうなあと思う時,ふと思い出すのが民話に出てくる「サトリ」という妖怪です。
 サトリはその名の通り,相手が心の中で思ったことをすべてサト(悟)ってしまいます。詳しいお話は忘れてしまいましたが,こんなお話でした。木こりが森で木を切っていると,サトリがあらわれ,木こりが思ったことを「水を飲もうと思っただろう」「弁当を食おうと思っただろう」とすべて言い当ててしまいます。気味が悪くなった木こりは斧でサトリを殺そうとしますが,「俺を殺そうとしているだろう」とこれも言い当てられてしまいます。しかし,木こりが諦めて木を切っている時,不意にはからずも斧の刃が柄から外れてしまい,飛んでいった刃がサトリの脳天を直撃。サトリはあっけなく死んでしまう。確かそんな結末だったような気がします。

「サトラレ」てしまう人

 相手の思っていることがわかってしまうサトリの反対の存在である「サトラレ」を主人公にした物語があります。これは『サトラレ』という漫画が原作なのですが,映画やテレビドラマにもなったので,どんな物語かはご存じの人もいるでしょう。
 「サトラレ」というのは,妖怪サトリとはまったく逆に,口に出さなくても自分の心の中に思っていることすべてが“思念波”として周囲の人に伝わってしまい,サトラレ(悟られ)てしまう不思議な能力の持ち主のことをいいます。サトリが妖怪であるのに対し,サトラレは,その能力以外はまったく僕ら一般市民と変わりのない生活をする者です。ただ,思っていることが他人にまで伝わってしまうくらいなので知能は優れている者が多いという設定です。
 思ったことをすべて言い当ててしまうサトリも気味が悪いのですが,サトラレという人たちの存在も,物語の中ではさまざまな問題に直面します。例えば,ある女性に片思い中のサトラレが登場した物語では,相手の女性にその思い(例えば「顔見ただけで立っちゃった」ということまでも)が伝わってしまったり,優秀な臨床医としての技術を持っていても,サトラレであるがゆえに,「こいつは手遅れだな」といった心のつぶやきが当の患者に伝わってしまうのはまずいということで,盲腸の手術しか任せられなかったりします(つまり,サトラレは守秘義務を生じる仕事,弁護士や医師,警察官などには向かないのです)。これらはサトラレ本人にとっても,サトラレとやりとりする周囲の人にとっても辛いことなのは想像できます。
 この物語は,「声に出してもいないのに自分の考えていることが周りの人につつぬけに知られてしまう人が存在したら,一体どういうことが起きるのか」ということを,僕たちに教えてくれます。人は誰でも,口にはできないことも含めて頭の中で思いをめぐらせています。それは時にとても恥ずかしい内容であり,それがゆえに周囲に知られてしまうことは僕たちをひどく傷つけるのです。
 この物語でもう1つ大事な設定は,サトラレは「周りの人たちに自分の思っていることすべてが伝わっている」ということに,自分自身は気づいていないということです。ですから,最初に「発見」されたサトラレは,自分が思っていることすべてが他人に伝わってしまっているということを知って,困惑と混乱の中で死んでしまい,2番目のサトラレは「サトラレ対策委員会」の庇護のもと,無人島で1人で暮らさざるをえなくなったりしているのです(サトラレが「自分はサトラレである」ということを知らないということは,周囲の人間の振る舞いにも大きな影響を与えます。この問題は次回に詳しく掘り下げます)。

「痴呆ケア」を行なう人は「サトラサレ」?

 話をゆきさんや岡さんのことに戻しましょう。彼女たちが今何を思っているのか,僕たちがいくらサトロウとしても,なかなかサトルことはできませんでした。そういう意味で,彼女たちは「サトラレ」の対極に位置しているのかもしれません。そしてもしかすると,なかなかサトラレにくい人たちに対して,僕たちはその分だけよけいに「理解したい,わかりたい」と思ってしまう傾向があるのでしょうか。まるで,「見てはいけません」と言われたらよけい見たくなる,という人間の心の機微と同じ感覚なのでしょうか。
 しかし一方で,彼女たちは「サトラレ」であるともいえます。というのも「今,ここ」の心のありかが「サトラレにくい」分,痴呆とされる人は,プライバシーや人生暦においては,赤の他人におおいにサトラレているともいえるからです。その意味で彼らは「サトラレ」の側面も併せ持っているともいえるでしょう。痴呆とされる人くらい,プライベートなことをかなりの部分まで,家族や親友以外の人にサトラレているというのは,あまりないことでしょう。
 そして,そういう痴呆とされる人にかかわる僕たちは,「サトラサレ」る立場にあるといえます。痴呆とされる人たちの現在の心をサトルことが難しいので,僕たちは彼らのことをサトルために,痴呆とされる人たちのこと細かいプライベートな過去や,現在の彼らの体調や生活のすみずみまでを「サトラサレ」ているのだと思うのです。これまた,相手の人間のことをこれだけサトラサレることは,日常生活においてはなかなかないのではないでしょうか。
 そして,ここで注目したいのは,痴呆とされる人たちの周囲にいる僕たちは,その人とのかかわりをよりよいものにするためとは言いながらも,なんと,あの妖怪「サトリ」と同じような存在となっている,ということです。
 施設内発表などで,痴呆とされる人のケース記録の報告を聞くと,僕はなぜか,職員の方とそのケースの方に対して,いたたまれないような感覚に襲われることがあります。会ったこともなく,関係を取り結んでいない人のことをサトラサレることになんとなく引っかかりを感じ,なんともいたたまれなく,やるせなくなってしまったのは,サトラサレることの珍奇さ,おぞましさ,おそれおおさを感じて打ちのめされたからなのでしょうか。
 妖怪・サトリは物語の最後に死んでしまいます。なぜサトリが死ななければならなかったのかはわかりませんが,もしかすると人間社会において「サトリ」のような存在は許されないものである,と教えているのかもしれません。僕たちは相手の心が見えにくいとき,サトリのような「人の心を見抜く」能力が欲しいと思ってしまいます。しかし,人の心を自由に悟ってしまうサトリは,人間社会にとって恐ろしい,許されない存在なのかもしれません。人間はほどよくサトリ,サトラレるやりとり,かかわりを求めているのかもしれません。