医学界新聞

 

〔連載〕
かれらを
痴呆
呼ぶ前に
「ボディフィールだー」出口泰靖のフィールドノート
    その4
  急いては「わかること」をし損じる?(2)の巻
出口泰靖(ホームヘルパー2級/山梨県立女子短期大学助教授)


2553号よりつづく

「へぇ~」という身体感触の表出行為

 先日,道を歩いていると,学校帰りの小学生数人がランドセルをバンバン叩きながら「へぇ~,へぇ~」と言っている光景に出くわしました。「トリビアの泉」というバラエティー番組のマネをしているのでしょう。
 「トリビアの泉」というのは,知っていたとしても何の役にも立ちそうもないムダな知識なんだけども思わず「へぇ~」と感心してしまうトリビア(ムダ知識)を披露する雑学情報バラエティー番組のことです。視聴者から投稿されたトリビアを品評する際,「へぇースイッチ」なるものをバシバシたたいて「へぇ~」度をはかり,その「へぇ~」数値で獲得金額が決まるというものです。
 とてもささいなことって,案外,「ふーん,だから?」とか「わかっていたからってどうってことないじゃん」と思考がとまってしまう場合が多いんじゃないでしょうか。それを「へぇ~」とおもしろがり,関心をよびさまし,心に感じる身体感触の表出行為って,まんざらバカにできないなあ,と思います。前回お話しした,ウサギの人形が食パンに見えたり,実はその人はタバコを喫っていないのに喫っているからと言って灰皿を探していたゆきさん(仮名)も,その言動に僕が「へぇ~」の身体感触を思わず表出してしまった方でした。

「漬物トリビア」を披露するゆきさん

 ゆきさんは職員が夕食の準備をしている時に,必ずといっていいほど何やら心配そうに立ちつくしていました。僕が話しかけるとよく「今日は本館の方で22名ほど入るっていうから,お新香づくりの準備に行かなきゃね」と僕に語りかけます。旅館の仲居さんを長年勤めたゆきさん,丁度お客がチェックインするこの時刻になると,昔のことがよみがえってくるのでしょうか。「お新香づくりのため,買い物に行かなきゃいけないけど,お財布がない」とおっしゃる時は,僕は「代わりに私が買っておきますよ」とさも同僚の従業員のように振る舞ったりしました。
 この場合,医学的には,今はいつでここがどこであるかわからない「見当識障害」にあるとか,僕たちの側の世界とは異なる過去の自分に戻っている,など「痴呆」独特の状態だとみなされてしまいます。
 ただ,僕にしてみれば,「見当識障害」や「過去への回帰」と分析するよりむしろ,お新香に関するうんちくや智恵を何度となく聞く度に「へぇ~」と感心してしまいました。例えば,「お新香をつくる時,キュウリの本数は多いといけない。小さな樽にキュウリを5,6本入れ,塩をふって重しをのせて塩漬けにするんだ」「お新香入れ,あれがあると,色映えがハッキリしてくるからな。昔から日本人は色で食うって言ってな,目で味わってから食うんだよな」などなど。
 「お新香づくり30年」という言葉をよく口にしていたように,ゆきさんはお新香づくりに精魂を傾けてきたのでしょう。僕がゆきさんの口からこういうことを聞いて「へぇ~」という「驚き」の身体感触を心の内で表出してしまうのは,僕の頭からは到底出ないような含蓄のある話が飛びだしてくるからなのか,はたまた僕が「痴呆の人だから」と枠をくくって,あるいは,たかをくくっていたからなのでしょうか。

「芸」とは,空いた空間を埋めるものなんですよ

 そのゆきさん,実は,まだ他にも僕が「へぇ~」と感ずることがありました。特養の行事で外出して食事会をした時のことでした。富士山の歌とか,北国の春とか童謡を歌っていると,ゆきさんがその歌にあわせて滑稽に手を挙げ足腰を揺らし,踊り出しました。手つき足つきがなんとも滑稽な,それでいて深味のある踊りでした。「老人会でやってたのかしら」「どこであんな芸を覚えてきたのかしら」と職員の人たちも今まで知らなかったゆきさんの別の「顔」に皆驚いているようでした。
 しばらくして,「ゆきさん,さっきの踊り,うまかったですねぇ。僕に教えてくださいませんか?」と声をかけてみました。「あれはな」。ゆきさんは次のような話をしはじめました。
 踊りは,手順が決まったものでなく,型にはまったものでもなく,「芸」である,とゆきさんは言いました。その「芸」とは空いた空間を埋めるものである。例えば,座が白けて間があくと,そこに入れるものである。踊りの動作にもそれが言える。動きの流れの中で,空いた空間に手足を持っていくことである。雰囲気であれ,実際の動きであれ,空いた空間を補うかたちで指,手,足を運ばせる,と。
 実際に,指の動きも教わったのですがこれが意外に難しいものでした。すべての関節を曲げることとか,ただ手のひらを返すだけでなく,指の1本1本を順番に返していけば,空間が豊かになること,それに加えて空気を2,3回なでるように手を返すと,手だけでも立派な踊りとなるといったことを教わりました。武術をやってきたせいもあって「身体の運用」に関心がある僕は,このゆきえさんの含蓄ある話と,それを見事なまでに証明してみせる動きに,お新香のこと以上に「へぇ~,スゴイ!」と思わずのめり込み,聞き惚れてしまいました。
 ゆきさんは,「坂東光三郎」(不勉強なため誰かはよくわかりませんでしたがけっこう高名な人だったらしい)から教えを受けていたらしいのです。新橋の演舞場で踊ったこともあると,僕に話してくれました。旅館で給仕をやっていた時代も,役者が時に泊まりに来ていたので,踊りを見て芸を盗んだ,と言います。
 バラエティー番組の「トリビアの泉」でいえば,へぇースイッチをバシバシたたいて,「へぇ~」度が99までいってしまうような話でした。もちろんそれでゆきさんの気持ちやなぜ人形がパンに見えるのか,なぜ過去に回帰するのかがわかるわけではありませんが,僕はとても感心してしまいました。ゆきさんが「昔踊りを習っていた」ことに対して「へぇ~」と尊敬の念をいだいたというより,僕にとって今,ここにいるゆきさんの持つ踊りに関する含蓄のある知識が,実際の身体の動きで見事に体現されていることに感心してしまったのではないか,と思います。

「痴呆の人の世界を受け入れる」とは?

 痴呆ケアでは,「痴呆」とされる人が主観的に構成している世界を受け容れ,その世界を私たちの現実にとりこむといい,といいます。しかし,この,痴呆とされる人の主観的に構成される世界を「私たちの現実に取り込む」というのはどういうことでしょうか。
 例えばゆきさんの場合だったら,彼女が僕のことを旅館の従業員だと思っているのなら,それを引き受けてみるといい,といいます。そうすることで,痴呆とされる人は,自分が受け容れられているという思いが生じ,落ち着きを取り戻す,というのです。
 ですが,「痴呆」とされる人の過去回帰をわかってあげる姿勢よりむしろ,「今,ここ」の目の前で繰り広げられているゆきさんの語りや踊りの世界に対して,僕らが「へぇ~」という身体感触を表出してしまうこと自体も,ゆきさんの世界を僕らの現実に取り込むことといえるのかなあと思います。
 ところで,前述した「トリビアの泉」の「トリビアtrivia」とは,雑学という意味の他にも,ささいな,つまらない,という意味があります。「ふーん,それで?」と知ることや思考することを停止するのではなく,ささいなことでも「へぇ~」と表出できる身体感触が欲しいと思う今日この頃です。
 もっとも,ゆきさんの話や実際みせてくれた踊りは,僕にとってムダでも雑学でもない,とても深みのあるものでしたが。