医学界新聞

 

〔寄稿〕

PBLの導入によるカリキュラム改編

―佐賀医科大学における当事者達の反応および私見―

青木洋介(佐賀医科大学医学部臨床検査医学講座助教授) 


はじめに

 人々の健康問題(HCP;Health Care Problem)にプロの医師として取りくむ臨床医を効果的に育成すべく,わが国の多くの医学部でカリキュラム改編が行なわれている。佐賀医科大学では1978年の開学以来続いてきた臓器別系統講義にとってかわり2002年より臨床医学系の学習に小グループ制による問題立脚型学習(PBL;Problem-based learning)を主体とする新医学教育カリキュラムが導入された。
 知識の不完全な状況(臨床医の生涯にわたる姿)で患者の抱える問題(HCP)に直面し,その問題の解決・改善のために担当医は基礎医学・臨床医学を網羅する範疇で何を知っており,何を知らないか,知るべきか,慢性期のケアや疾患予防には患者行動科学を考慮したうえでどのように患者に対応すべきかなどについて,実際の医療現場よりは緩徐な時間の流れながら,学生を医師の臨床推論に即した思考過程の中に立たせ,知識の習得・統合・構築・応用を図らせようとする教育学習法の1つがPBLである。
 今回はこの導入過程において学内で沸き起こった反応(どの大学医学部にも共通すると思われる)について紙面の許す範囲で紹介させていただきたい。

PBLに初めて晒される

 PBL導入に先立ち1999年7月にハワイ大学医学部John A. Burns School of Medicine(JABSOM)において本学の教師4名,4・5年次学生15名が1週間のPBLワークショップに参加した。
 JABSOMにおけるPBLは患者シナリオの展開を通し,(1)事実(症候,検査所見など),(2)仮説(考えうる疾患,病態,責任臓器など),(3)患者から得たい情報(問診・診察・検査などで知りたい情報),(4)学習事項(問題解決のために自分が学習すべきと考える事項)を学生自らがディスカッションする形式をとる。

【教師】
 まず佐賀医大の教師は学生の立場から,あるPBLの事例(CaseあるいはHCP)について取り組む経験をさせられた。以後HCPシナリオ作成,テューターの役割,PBLにおける学生評価の方法などについて学んだ。参加した佐賀医大の教師は内科教授1名,基礎医学系教授2名と私の4名であった。シナリオの内容および学生に学ばせたいと意図する事項(Learning issue)の設定において教師4名の専門分野の価値観から多様な,時には相反する意見が出され,HCPシナリオの有する高く幅広い教育効果のポテンシャルに気づかされると同時に,筆者は教育の中央化を図る際の困難さを認識(予想)した。

【学生】
 学生側は数グループに分かれ,JABSOM facultyのテュートリングのもと,「耳痛を訴える小児に嘔吐が認められる」というHCPに取り組んだ。髄膜炎という最終診断を下すことは臨床医にはさほど困難ではないが,そこに到達するまでの症候・検査所見に端を発するclinical reasoningのプロセス,各自で挙げたlearning issueについての幅広く底の深い関連事項の学習,ディスカッションによる他の意見への傾聴と自己の考察へのフィードバックなどは,いずれも従来の講座主導型・多中心型の講義形態では得がたい学習経験であることを学生は当然のことながら容易に感知した。

帰国後の医学教育ワークショップ

 JABSOMからの帰国直後,毎夏恒例の佐賀医科大学医学教育ワークショップがPBLを主テーマとして開催された。
 50名程の自校スタッフを前にJABSOMに滞在した学生数人とテューター役の筆者とでPBL step1(詳細略)の“実演”を行なった。約30分のデモンストレーションの後に以下のような意見が寄せられた。

【教師】
 「そんなにゆっくりとした思考過程をたどっていては目前の患者は死んでしまう」,「臨床医から見ていると学生のあげる鑑別疾患は不十分だ」,「HCPに関連した“知識を事前に教え”ていなければ“解ける”はずがない」,「よい教育法だと思うが,これは5年次の病棟実習の際にやらせるほうがよいのではないか」,「診断にたどり着くことが目的となり,基礎医学の習得を学生が軽視するのではないか」,「基礎にせよ臨床にせよ,講義できっちりと教えることがやはり必要だ」,「アメリカの医学部生の多くははカレッジでbiologyを勉強しているし,小さい頃から自分の意見を人前で口にするよう教育されているからPBL方式でもよいだろうが,日本の医学部生には無理なのではないか」などの意見が出た。

【学生】
 「講義中ずっと背を向けて板書するような講義なら,プリントを配ってあとは学生の好きなように勉強させて欲しいと思うことがある」,「PBLではわれわれ学生が自ら学習に積極的に参加している実感がある」,「先生は教えなければいけない,と言うが,今の講義形式でも先生方は一部しか教えきってはいない……,必要なかなりの部分は図書館や自宅で勉強している」,「いまの講義形式なら,極論すれば入学していきなり5年生の病棟実習を開始しても大きな差がないように感じる」,「PBLは自己学習を促す効果的な学習法だとは思うが,従来の講義が大きく減少すると学生の方も少し不安になる」など言葉を慎重に選ぶ緊張感の中,率直な意見が出た。

PBL検討部会

 2000年秋よりPBL導入に向けて本格的なPBL検討部会が組織された。教育担当副学長を部会長に,基礎・臨床系教官が10数名集まり,佐賀医大にとって望ましいPBLの姿について議論が交わされた。
 「あくまで講義が主体,PBLは学生の興味を引き出すために加える程度でよい」,「講義は極力少なくしてPBLを主体とした自己学習に任せてはどうか」,「国家試験に出る内容に集中してPBLや講義の内容を決めればよいのではないか」,「臨床系各科に比べ社会医学などPBLに馴染みにくい教科があるのではないか」,「HCPのケースは毎年違うものにしないと後輩の学年に情報が筒抜けになる」,「HCPの内容に関連した専門科の教師でないとテューターは務まらない」などが頻繁に出された意見であった。
 検討部会はある時点で各論をめぐる賛否両論の繰り返し(point of redundancy)に陥り,HCPの数や講義時間を巡る各専門科のせめぎ合い,あるいは自科カリキュラム独立の希望などが唱えられ,カリキュラム改編に付随する“混乱”を認識させられた。
 議論百出の過程をくぐり抜け,ともかく,2002年9月より佐賀医大では3年次後期から4年次全期を通した1年半の臨床医学系PBLが開始された(5-6名の小グループ学習,全臨床科を8つのユニットに分類,自己学習の時間が増え講義数はその分減じた。:週間スケジュールなどは省略)。

カリキュラム改編過程で浮き彫りになるもの(私見)

 佐賀医科大学のPBL導入に携った教師として,医学部のカリキュラム改編が人の関わりの複雑なdynamismに影響されながらも自己啓発的でchallengingなものであることを実感した。
 同時に,医学部の使命・役割をめぐる教師各自の解釈の異同に加え,“PBL"という学習形態およびその教育効果の多様性(HS. Barrows. A taxonomy of PBL methods. Medical Education 1986, 20:481を参照)に対する認知の不足,さらには,異なる考えを持つ個で成り立つ集団(例えばPBL検討部会)における問題認識とその解決を行なっていく際の効果的戦略(strategy)の不足,これらがいかにカリキュラム再編過程で遭遇するあらゆる種類の“困難さ”の本質であるかを認識する機会となった(筆者にはPBL検討部会の討論のあり方こそPBL方式による討議を応用するほうがよいのではないか,と感じられた)。
 複雑・高度・専門化する一方の医学であるから医学教育が間口の狭く奥行きの深い単純縦割り的な構成へと変遷を遂げたのは講座中心型教育であれば至極当然な結果と思える。しかし,社会のニーズに照準を合わせた医学部の役割,productを明確にすることにより,医学部に「医療のプロを育成する医学校」としての機能を確立する必要がある。卒業後に初めて臨床教育が始まるにも似る現状からは脱却せねばならない。このためには強いリーダーシップを与えられた組織を据えることにより“分散化”した教育の“中央化”を困難な中にも推し進めながら,医学教育改編の方向性とその迅速性を常に意識しておくことが重要であると考える。
 スタッフ教育あるいはFD(faculty development)で得るべきことは,教育に関する各論の認識・修得はもちろんであるが,人との関わりの中で深く掘り下げる自己への認識,個は全体のために何をなすべきかと問うこと,などであると思う。いささか観念的ではあるが,「多様な価値観の集合体である医学教育およびその変革に従事するものとして重視すべきことは,emotional nurturance(精神・情動面の成熟と滋養)およびpolitical dexterity(検討の場,交渉の場における器用さ・柔軟さ・機敏さ)である」との言葉(Stephan Abrahamson, Good Planning is Not Enough.上記テキスト)を,読者の方々に最後に紹介したい。