医学界新聞

 

解剖学はホントにおもしろい!?

看護学校訪問 上野正彦氏の教壇より


 「学生が解剖学に興味を持たなくて困る」。こんな教務主任の悩みをよく耳にする。解剖学は暗記が多い学問で,講義も教科書の棒読みとなりがち。確かに学生も眠くなるに違いない。そんな中,学生から「もっと授業時間を増やしてほしい」と要望の出る授業があるという。担当講師は,『解剖学はおもしろい』の著者でもある上野正彦氏だ。板橋中央看護専門学校の赤嶺邦子教務主任によると,「土曜日でもいいから,授業をしてほしい」と,学生のほうから言い出すほどだという。上野氏の授業は,なぜそんなにおもしろいのか。板橋中央看護専門学校での解剖学講義を取材した(上野氏と学生の座談会を掲載)。





「若いうちは細胞が多いんだから,たくさん勉強しなさいよ」と学生に語りかける。
 この日は1年次最後の解剖学講義で,90分授業を2コマ。授業がはじまってまず気づくのは,上野氏が教室の中を歩き回り,学生に次々と質問を繰り出すことだ。この日は神経系の講義だったが,模型を示しながら「お母さん,ここは何ていうの?」と尋ねる(学生の呼び名は,男子なら「お父さん」,女子なら「お母さん」。その他,大きな縞模様のシャツを着ていると「大島さん」,小さければ「小島さん」など)。「私が講義している状態を,神経系を使って説明しなさい」という,人間の活動に結びつけて学生の理解力を試す質問もあった。1人の学生が答えられなければすぐ隣の学生に移り,時には教室の最後尾まで歩く。教務主任の赤嶺氏は上野氏の授業を評して,「教員が話すのではなく,学生が自ら学習することに重点を置く」と語る。

たけし,ヌード,子どもの歌……
魅力的な脱線講義の数々

 もう1つの大きな特徴は,解剖学に対する好奇心を刺激するような,具体例や比喩の引出しがたくさんあること。
 分布の状態が似ていて間違えやすい,三叉神経と顔面神経の違いについては,「寒い北風で頬が痛むのは知覚が主の三叉神経,ビートたけしがバイク事故のあと麻痺で表情がみえなくなったのは運動が主の顔面神経」と説明。「これは今年の国家試験に出てる。こういう臨床に直結した問題が出るから,今の話を忘れちゃだめだよ」と付け加える(92回看護師国家試験で,患者に両目を閉じてもらった状態のイラストから,異常のある神経を判断する問題が出た)。
 シモネタも多いらしく,「それがまた(重要事項を)覚えるんだよねぇ」(女子学生)と好評。この日も,「女性のヌードを眺めると勃起するのは副交感神経の働き。わかった,お父さん?」と声をかけられた男子学生が照れて,教室が笑いに包まれた。
 その他にも,錐体外路系のところでは,「ここに異常が出ると“ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む”(幼稚園の遊戯などでやる歌の振りつけ)ができない」と説明。殴打外傷と転倒外傷の違いについては,裁判に持ち込まれた有名な事件の話題が出てくる。テキストの棒読みではない,魅力的な脱線講義が続く。「教科書から離れるとわからないのは本当の知識じゃない」という上野氏の信念を実践する講義だ。学生からも,「パーキンソン病は治らないのですか?」など,挙手するわけでもなく自然と質問が出てくる。

職業人として贈る言葉

 「大切にみることができて,感動とともに覚える」(学生)というスライドも魅力的だ。外傷性脳出血や先天性奇形の脳などのスライドを,監察医としての30年間の中で体験した事件とともに語る。
 講義の最後には,158名が死亡した昭和31年の列車脱線事故の大惨事のことが話された。事件の概要とともに,続々と映し出される死体のスライド。学生は息を飲む。ところが,「むごい写真だから次に切りかえる」といって出されたスライドには,みんな大爆笑。映し出されたのは,上野氏が飼っていた犬の写真だった。
 列車事故の話は続く。事件の1か月後,上野氏のもとに被害者の両親から長い手紙が届いた。「足が事故でなくなって三途の川を渡れない。足を探して」と息子が訴える幻が見える,と。「ここで医療人として気づかなければならないことは何ですか」と学生に問いかける。なかなか満足のいく答えは得られない。「放置すれば,精神病になると気づかないと駄目。じゃあ,いちばんよい手当ては何ですか?」と,また問いかける。氏は,足を探して届けることをまず考えたが,それが難しいと考え,精神科医と相談して両親のショックをやわらげるような手紙を書いたという。
 両親が手紙に満足したかどうかはわからないが,と続けて,将来プロのナースとなる看護学生に,最後の言葉を贈った。「この事件を通して考えなければならないのは,健康とは何かということ。体力をつけて病気にならないのだけが健康ではない。精神状態,生活環境を整えて(相手を)快適な状態にするのも健康の重要な要素。身体的・精神的に快適な状態をつくるのが,われわれ医療人の役目。わかった?」。

学生からも感謝のメッセージが

 授業を終わろうとしたところ,2人の学生が立ちあがり,上野氏に感謝の気持ちを述べた。
 「先生の授業は実例をあげてくれて,わかりやすかった。時には感動的な講義もありました。看護師のあるべき姿勢も語ってくれました。立派な看護師になるためには体のつくりを理解することが絶対に必要だと感じました。これからも『解剖学はおもしろい』を読みこなして,自分のものにします。できれば,私たちの後輩にも解剖学のおもしろさを伝えてください。私たちのために一生懸命教えてくれて,本当にありがとうございました」。最後の号令とともに,学生みんなが「ありがとうございました」と声を揃え,教室に拍手が鳴り響いた。

 休憩時間中も,上野氏のまわりには学生が集まる。講義内容についての質問に答えたり,サインや記念撮影をお願いされたりと忙しい。





上野正彦氏
1929年生まれ。54年,東邦医大卒業後,日大医学部法医学教室に入る。59年,医学博士。東京都監察医務院監察医となる。84年同院長に就任し,89年退任。『死体は語る』(時事通信社),『死体は生きている』(角川書店),『解剖学はおもしろい』(医学書院)など著書多数。現在文筆活動の他,7つの看護専門学校で非常勤講師,杉並精神作業所アゲイン運営委員長など,多彩な活動を続ける。法医学評論家としても活躍中で,取材当日も講義を終えた後,ワイドショーの収録のためテレビ局に向かった。