医学界新聞

 

〔寄稿〕 病院疫学のすすめ

期待される病院疫学者の活躍と養成

原野 悟(日本大学医学部公衆衛生学教室講師)


 「病院疫学hospital epidemiology」とは,わが国では聞き慣れない言葉であろう。しかし,米国においてはすでに専門の学会The Society for Healthcare Epidemiology of Americaも設立されており,『Hospital Epidemiology』の題名でいくつかの専門書も出版され,多数の病院で病院疫学者hospital epidemiologistが活躍している。そこで,病院疫学とはどのような分野で,病院疫学者はどのような活動をしているのか紹介してみたい。

「疫学」とは何か

 そもそも「疫学」とは何であるか。ある人にとっては,疾病調査の集計データを意味するかもしれなし,また別の人にとっては何か統計学的手法を用いて病因について理屈をつける研究なのかもしれない。しかし,その起源をひもとくと「疫」の字が示すように感染症の流行についてその経緯や因果関係を調べ,対策を講じるための情報を提供し,その効果を評価する実用的な手法なのである。ちょうど臨床に喩えるならば,診断学や予後判定に相当する。もちろん今日では感染症のみならず,癌や生活習慣病をはじめとするあらゆる疾患を対象としているが,歴史の示すとおり病院疫学もまずは院内感染対策から始まった。しかし,最近の医療の複雑化,特に医療の質や有効性,効率性などが問われるようになり,病院疫学者の仕事は院内感染にとどまらず,医療技術評価やマネジメントといった医療経営に関連する事項にまで及んでいる。

病院疫学が提供するプログラム

 病院疫学が提供するプログラムに次の4つである()。
 まず,(1)感染症制御(infection control)と従業員の健康(employee health)についてである。
 先に述べたように疫学は,感染症対策で始まった。そこで,病院疫学では院内で起こる感染症をまず扱う。院内感染の原因究明から,他の患者への蔓延防止,そして院内感染の新発生予防である。もちろん,院外から持ち込まれる感染症が拡大することも防ぐ。さらには患者からの結核感染や針差し事故などによるHIV,B型肝炎などの感染,あるいはエチレンオキサイドガス中毒などといった病院従事者特有の健康障害の予防も扱う。つまり,バイオハザードに関連する問題が中心となる。
 次に,(2)診療行為(clinical performance)と質的評価(quality assessment)についてである。医療の質とは,パフォーマンスのことであり,プロセスの問題であるとも言われている。そこで,診療の過程を監視し,そのプロダクトである医療サービスのパフォーマンスを一定に保ち,さらにはそれを向上させるようなプログラムやシステムが必要であり,病院疫学者はこの開発を担当する。これはあたかも工場などで品質保証のために工程管理をするのに似ており,医療の質を保つために診療過程の改善と維持に努める。
 さらに,(3)医療用製品評価(product evaluation)と薬剤使用管理(drug use management)についてである。医療用の資材や診断機器などの製品,あるいは新しい薬剤を採用する際に,その品質や効果,効率性などを調査評価し,数ある中で最良のものを選択するための根拠となる資料を整えたり,薬剤が適正に使用され,その効果を評価できるような管理システムを構築し,その実施を検討したりするものである。
 そして,(4)医療技術評価(technology assessment)と技術移転(transfer)についてである。
 現在行なわれている診療技術や新規開発された技術を,有効性や効率性などから評価したり,適切な対象者の選定を決定したりして,医療技術の用い方を見直すための調査を行なう。新薬の治験もこれに含まれる。また,基礎的研究で得られた知見から生み出される,新たな技術を実際に患者へ適用するにあたり,効果や有害性,効率性などの評価検討を行ない,臨床研究の計画実施に参画する。

病院疫学者に求められる能力と知識

 このように,病院疫学は多岐にわたる役割を担っているが,それでは病院疫学者に求められる能力や知識にはどのようなものがあるだろうか。
 まずは何といっても,(1)疫学的調査研究の基礎である。疫学で用いる指標や研究デザイン,バイアスや交絡の制御といった内容である。日本の医学教育においても一部が教えられてはいるが,とても使いこなすほどには至らず,紹介程度にとどまっているのが現状である。そこでより高度な知識や訓練が必要とされる。
 次に,(2)データ収集や管理,分析の技術である。対象の設定や調査測定の仕方,そして得られたデータを扱うシステムの構築などの技術である。
 (3)医用統計学の知識ももちろん重要である。よく疫学と統計学は混同されるが,疫学は調査研究の計画から結果の解釈,利用まで扱うのに対して,統計学はデータ分析のツールとして存在する。ちょうど,診断学が疫学とすれば,喩えるならば統計学は血清検査の分析法である。疫学者には,統計学の理論よりも,どの場合にどの手法が適しているか正しく選択できる能力が問われる。
 (4)院内感染コントロールの方法についても知る必要がある。得られた結果からどのような対策が立てられるのか,対処法についての知識と技術が必要である。
 そして,(5)コンピュータの能力である。近年では情報ツールとしてのコンピュータは不可欠である。また,コンピュータを用いて得られた情報をわかりやすく提示するのも必要である。
 (6)コミュニケーション能力も忘れてはならない。他のスタッフや患者,その家族とも適切なコミュニケーションを取り協力を得ることは,計画推進の基本である。そして,得られた情報をいかに理解しやすいように提供するかという技術も問われる。
 (7)マネジメント能力も重要である。人,物,金などを効率よく用いて,中長期の展望のもとに運営していく能力である。また,病院管理にも関わるので,組織の機能も理解されていなくてはならない。
 最後に(8)検査技術である。抗生剤耐性の評価をし,微生物の遺伝子型を調べ,環境測定のサンプリングなど,測定資料の扱いを知らなくてはならない。

緊急の課題-病院疫学者の養成

 以上に示した知識や技術は,現在の医学教育の範囲では不十分である。経営学,社会科学,工学など幅広い学際的な知識技術が要求される。アメリカでは公衆衛生大学院(school of public health)においてこれらを網羅し系統だった教育がなされており,近年では臨床家がここでMPH(公衆衛生学修士)を取得して,再び臨床の現場に戻っていくケースが増えている。
 ここにマネジメントの分野に強いアメリカの医療の本質があるように思える。日本においても診療以外のマネジメントにかかわる業務がますます増加し,臨床医のみでは対処できなくなってきている。また,現在行なっている診療行為や医療サービスも最善のものか検証評価し,改善していく努力が求められている。そのためにもわが国の医療現場においても,臨床医をサポートする病院疫学者がますます必要となってくるだろう。
 今後は日本でも病院疫学とそれを教える公衆衛生大学院の確立が推進され,多くの病院疫学者が養成され活躍することが大いに期待されるところである。



 原野 悟氏
1983年日本大学医学部卒業,1987年日本大学大学院医学研修科修了,医学博士。その後,日本大学医学部脳神経外科助手,中駿赤十字病院脳神経外科部長を経て,1991年日本大学医学部公衆衛生学助手。1999年より同講師。2001年にインターネットによる遠隔教育第1期生としてジョンズ・ホプキンス大学公衆衛生大学院を卒業しMPH(公衆衛生学修士)を取得。