医学界新聞

 

〔寄稿〕RCTにおける看護の役割-いまアメリカで

余 善愛(米・ミシガン大)


●クリニカル・トライアルの定義

はじめに

 昨(2002)年秋に,聖路加看護大学の堀内成子教授に,久々に日本に帰国する機会を作っていただきました。堀内さんとは,遠い昔聖路加看護大学の学生だった頃の先輩・後輩の仲でした。「ケム」というあだな〔その昔,「おそまつくん」という漫画の中に登場する,「ケムンパス(毛虫のようなもの)」に似ていたのです〕で通っていた堀内さんが,山登りの訓練と称して,巨大なうさん臭いリュックを背負って,その頃聖路加看護大学のただ1つの通路だった階段を,地下から5階まで「ウンウン」うなって行き来しているのを横目に見ながら,私は私で演劇部で強制されたいかがわしい男役の扮装をして(私は背が高いので,男役だけが回ってきたのです)辺りの迷惑も省みず,階段の踊り場で,歌ったり台詞を覚えたりしていました。そのような思い出が,いまなお印象深く残っています。
 そんな昔話はさておき,今回の来日で私は,現在実行中の研究が「ランダマイズド・クリニカル・トライアル(RCT)」という研究法をとっていることから,そのお話をする機会がありました。大学院生から教員の方々まで,大変熱心に話を聞いていただき,その後に行なわれた総合討論の場でもこのRCTをめぐって話題となり,熱い意見交換が続きました。
 そこで今回は,久しぶりにこの「週刊医学界新聞」を通して(注),読者の方々に,アメリカで主として薬の効果を測る手段として開発された「RCT」について,そして私なりに考える,現在「エビデンス・ベースド・プラクティス」(実証事実に基づく臨床活動)のためのゴールドスタンダードとされてもてはやされている,この「RCT」の実践に関して,看護学が担う役割というものを簡単にお話してみたいと思います(編集室注:余氏は,1997-1999年に,弊紙上で「ミシガン発最新看護便-いまアメリカで」を隔月連載をしていました)。

Phase I-III のサンプルサイズ

 お馴染みの「MEDLINE」の検索で,「クリニカル・トライアル」の定義を見てみますと,以下のように表示されています。
 MeSH HEADING: CLINICAL TRIALS SCOPE: Pre-planned studies of the safety, efficacy, or optimum dosage schedule(if appropriate)of one or more diagnostic, therapeutic, or prophylactic drugs, devices, or techniques selected according to predetermined criteria of eligibility and observed for predefined evidence of favorable and unfavorable effects. This concept includes clinical trials conducted both in the U.S. and in other countries(quote from Medline MeSH Heading).
 これは,つまり「あらかじめ定められた研究手段で,あらかじめ設定された基準にしたがって,験者ならびに結果の見方を設定し,それに従って調べたいもの(診断用,治療用,または予防用の薬,器具,技術)の安全性,効果,ならびに最適量の判定をくだす方法」という定義になっています。
 NIH(米国立衛生研究所)の規定によりますと,このRCTは3つ(または4つ)の段階に分けられます。第1段階治験(Phase I Clinical Trial)というのは,動物実験の次の段階で,その効果が確証されたものを,はじめて人間に移す段階です。この段階の実験では,安全性の証明が目的となり,サンプルサイズは通常20-80名程度です。
 その次が第2段階治験(Phase II)で,目的は「理論的な有効性を証明すること」にあります。この段階でのサンプルサイズは,だいたい100-300名とされています。
 最後に,実際的な生活場面での効果を測定するのが,第3段階の治験(Phase III)です。これは,複数の実験場を必要とし,通常サンプルサイズも3000-4000名とされています。

●RCTの実際-クリニカル・トライアルに参加

記述法と実験法

 このRCTも,最近はいろいろなタイプが考案されています。以前は,薬や医学治療のための処置方法(放射線治療,または新しい手術法など)のみに使われていましたが,現在ではもう少し一般的な市販薬,例えば,ビタミン剤や漢方薬を使ったり,運動や食事の摂り方という生活様式を使ったりして,その効果を「疾病予防」という視点からみるRCTもあります。その他にも,いろいろな疾病や健康状態をスクリーニングする方法を「介入」(インターベンション)として,その発見率を比較するいう観点で研究するRCTもありますし,癌看護などにおける,患者の苦痛を和らげる方法という視点からみるRCTもあります。
 このように,RCTには,その段階と種類においていくつかあるわけですが,基本的なデザインは一貫しているものの,その実施法/手順(プロトコール)はかなり違ってきます。
 ここで少し,研究法の中でRCTの占める位置を簡単に触れておきます。実際の手順ならびに実施法を決定する概念としての研究法というものを大きく分けると,「記述法」と「実験法」に分かれます。
 「記述法」というのは,ある事象についてそれをあるがままを描くことを目的としているのに対し,「実験法」は,記述法による結果を踏まえた上で,ある事象に対して意図的に1つだけ手を加えて行なう方法です。RCTは,この2つのうち,後者の「実験法」に属します。

生活に当てはめた検証

 実験法の原則は,すべての条件を同じにして(controlled),無作為に抽出した(randomized)半分に対して1つの条件だけを加えた場合に,もし2つの群に違いが生じたとしたら,その違いの原因は,1つ変えた条件が原因になっている以外にはあり得ない,という論理に基づくものです。この,実に素朴な理論を,人間生活の中に当てはめていって証明をしようというのが,「クリニカル・トライアル」というものの本体なのです。
 この単純な理論を人間生活の中に当てはめて,ある事実を検証していくということが「クリニカル・トライアル」の原点ですが,これが意外と難しいということが,最近徐々にわかってきました。つまり,実験群と比較群(コントロール群)という2群を考える時に,「介入」現象がその他の人間生活や思考に影響してはならないわけです。そうなってしまうと,実験群が基本的に比較群と性質が違ってくるので,結果についてうんぬんする時に困るわけです。
 例えば,薬の実験でよくやる2重盲検は,「そのまま」にするという比較的簡単な方法です。つまり,薬を飲むほうも飲ますほうも,薬が入っているのがどちらかがわからなければ,偏見や思いこみによる行動の差が現れようがないという論理です。
 ですが,これは本当に,そんなに簡単なことでしょうか?
 私は以前に,家族を巻き込んで,風邪薬のクリニカル・トライアルに被験者として参加したことがあります。風邪は感染しますから,家族全員が一単位として参加するということが被験者の原則でした。家族の中の1人が風邪にかかるやいなや,担当者に連絡をして「薬」をもらうのです。家族全員が1グループとして,偽薬か本薬かの薬を飲むのです。
 私たち一家の場合は,まず一番下の息子が風邪症状を呈しました。子どもの風邪を何度も手当てをしてきた母親である私には,鼻の穴に噴霧した薬が偽薬か本薬かなどは,子どもの様子を見ればわかります。
 熱を出し始めた時には,立っていられないほどフラフラしていた子が,3時間後にはバスケットボールをしてはしゃぎまわっているのをみれば,母親でなくともわかります。もし,私たちが「偽薬」のほうにあたっていたら,いくら同意書にサインをしたからといって,忙しい子育てと仕事の中,最後まで偽薬をきちんとあげられたかどうか,はなはだ疑問です。このような状態を推測し得ないで,「盲検」にしたから,結果は「そのまま」の状態が保存されたとは,誰が言えるでしょう?

●看護の役割が必須となるRCT

活かされる,応用科学としての看護学

 近年,アメリカだけではなく世界中でもてはやされているRCTは,もともとは,ほとんどが薬の効果を測定するためのものでした。しかも初期の頃は,主として病院内での投薬という形で行なわれていたようですので,環境をコントロールすることなど,比較的簡単であったと思われます。
 それが最近では,先ほども述べたように,薬以外の治療法や予防法,スクリーニング法,もしくは「よりよい生活」はどちらか,というような比較する方法として使われ始めています。このように,急速にこの研究法の使われ方が広がっている中で,基本的な研究方法の完全性を保持し続けることは容易ではありまぜん。
 そして,私はここで,RCTは応用科学としての看護学が最も活かされる場ではないかと考えるのです。つまり,人間の行動を家族との関係や社会との関係で理解しようとする学問,環境との生理的な反応を理解しようとする学問,病気との関係を,受け手である患者の側から理解しようとする学問である看護は,基本的に「介入」因子がその他に及ぼしうる影響を,正確に感知するための武器であると思うのです。

信憑性が問われる現在の「エビデンス」

 細かいことは,紙面で説明するのを避けますが,私がクリニカル・トライアルを正確に実行するにあたって,看護学が果たす役割が必須であると思う理由がもう1つあります。クリニカル・トライアルが「人間または人間の行動や感受性を対象」としなければならないのに対し,実証的研究法は,もともと,人間のそういう曖昧模糊としたものを概念の外において作られているようなところがあるのです。
 例えば動物実験を想定する場合,動物は人間のような複雑な思考はしないという過程のもとに,経験主義的に実証できるという設定がなされます。それでかどうか,クリニカル・トライアルを指揮する研究者も,往々にして被験者の人間性を考慮することをあまり得意としていないように思えます。これは,被験者を人道的に扱うかどうかという倫理委員会が取り扱う問題とは違って,研究方法を,実際に手順に移す時の過程の問題です。
 2重盲検法のところで触れたように,相手がモルモットなら,「一方に薬を与えて,他方に生理食塩水を与える」ようにすれば,偽薬効果は抑制できるかもしれませんが,人間を相手にする場合,実験に参加してくれる人々の動機や生活環境,事情などを踏まえないと,実質的には結果にも影響してくるということを,現在の研究者たちは,米国でさえもあまり気がついていないと思われます。今から5年,または10年先には,現在「エビデンス」として使われているトライアルの結果のあるものは,その信憑性を問われるのではないかと私は思っています。

看護はRCTに最も適した学問

 実験参加者の,これらの条件を正確に把握して,情報収集の際に考慮し,実験方法の原理の完結を保持するために,看護学が果たす役割はわずか,ということではないはずです。疾病やさまざまな健康状態に対して,人々がそれを受け入れたり,生活態度を調節していったり,または拒絶したりする過程を見守り,導いていくことを目的とするのが看護であると私は考えます。
 そのように考えると,RCTにおいて,実験事項を守ること,ならびにその他の生活を「そのまま」にしておくのに必要な状況の設定や,参加者の志気の維持に必要な情報・教育を適切に与えていくために,看護学は最も適切な学問であるはずです。