医学界新聞

 

 〔連載〕ChatBooth

 日常のなにげないことの繰り返し

 加納佳代子


 ある医師の講演を聴く機会があった。ベストセラーになった本を書き,地域医療を積極的に担い,海外の医療活動も行なっている方である。
 最後にこういう話をした。亡くなっていくものの人間としての日々の営みは感嘆に値する。亡くなる寸前まで髭をそり,トイレに自分で行こうとし,こうやって日常のささいなことをていねいにしていくことが,人間の豊かさなのだと知ったというのである。何十年もかけて医師である彼が求めてきたものは,結局のところ,ごくごく身近な営みを大切にして生きていくことだったというのだ。
 私はそのことを聞いて,「なーんだ。そんなこと今ごろわかったのか」と思ってしまった。彼の深遠な思いを軽々しく「なーんだ」といってしまうのはどうかとは思うのだが,とにかく素直に「なーんだ」と思った。私は看護職が大切にしているものは,人間の日々の営みを大切にすることであり,この方の言わんとしたものと同じ価値観が看護職の価値観だから,「なーんだ。それなら看護職はいつも大切にしているわ」とすっと思ったのだ。いや,この医師の言ったことを私は揶揄しているのではない。私は「なーんだ」と思った直後,今日ここの講演を聞きに来た人々(そのほとんどは医療従事者ではない)は,同じ話を聞いて「なーんだ。それは看護職が大切にしていることと同じね」と言うだろうかと考えた。
 「人々が日々の生活をていねいに生きていくこと」を看護者は支えたいと思っている。どんなに医療機器に囲まれていても,日常のささいな営みこそが人間らしく生きていく上で大切なことなのだ。そういう仕事が看護職の仕事であるということを,私たちは世間に示してはいないのだろうなと思った。
 耳掃除がしてあって,爪が切ってある患者さんはその病棟でていねいに扱われていることの表われである。明日はクリスマス会だからと病棟師長がみんなの爪切りをしていた。明日は綺麗にしてでかけましょうというのだ。1人ひとりに特別の日のために爪切りをすることは,手を添えられて黙って切ってもらう至福の時間である。大声を上げていた患者さんも手をそっと出す。
 食べようとしない患者さんに1時間かけて食事をさせる。わずかに残された吸う力をつかって根気よく食べるので,おかげで点滴を頼る日が少なくなった。
 学生の実習が始まると,いそいそと髭をそって歯を磨いて準備している姿を黙ってほほえましく見ている。
 長年,弄便と異食をくりかえしていた女性がかわいいパンツを履いてから,オムツがとれた。
 日常のなにげないことの繰り返しが,変化をもたらしていることを看護職はもっと評価してよいのだが,これは皆患者さん自身の力を引き出しただけのことだから本人たちはさほどのことをしたとは思っていない。民間療養型精神病院で,私は患者さん自身の持つ力をもっともっと発見していこうと思っている。そして,ここで働く看護者たちのなにげない振舞いがどれほど価値のあることなのかを,もっともっと発見していこうと思う。