医学界新聞

 

第22回日本看護科学学会開催




 第22回日本看護科学学会が菱沼典子会長(聖路加看護大学教授)のもと,昨(2002)年12月6-7日,東京・有楽町の東京国際フォーラムで開催された。
 「“説明できる看護”へ向けて」をメインテーマに掲げた今回は,テーマに沿った会長講演の他,看護研究と看護実践が,いかにして有機的つながりを持ちながら発展していくのかを探る目的で「実践に還元される量的研究」「質的研究はどのように看護実践を変えるか?」と題した2つのシンポジウムを企画。
 また,教育講演「Translating Nursing Research to Practice」では,William L.Holzemer氏(UCSF)から,看護学を含むすべての学術研究を,実践に活用するための米国での取り組み「Translating Research」の考え方が紹介された。
 さらに,質疑の時間を例年の2倍にする試みが行なわれた一般演題で389題が発表された他,「家で死ぬこと,看取ること」と題した市民フォーラム,「ドメスティック・バイオレンスと子どもの虐待のケアを考える」「不妊看護の可能性を探る」「日本人のスピリチュアリティと看護」など10テーマの交流集会が開催された。


“説明できる看護”が求められる時代へ

 会長講演「研究による実証が,説明できる看護を築く」で,菱沼氏は,まず「これからは,看護を書くこと,すなわち説明することが求められる時代である。これまでは,そのための蓄積の時期だった」と述べ,その背景として,(1)自分の健康は自分で守る社会になった,(2)保健医療福祉の主体は市民にある,(3)そのため市民に看護を説明できなければならないことを指摘した。
 また一方で,看護を説明することの困難性を指摘し,その要因として,看護技術によって生じる反応が非常に小さいこと,看護には人間関係が含まれており,しばしば受け手の主観的な評価に価値が置かれること,また効果の測定指標が不十分であること,などを上げた。
 そして,この背景に看護の特徴である「看護は人間関係の上に成り立ち,看護の働きかけは,皮膚を介して行なうものであれ,言葉を通して行なうものであれ,必ず身体に反応が起こる」という前提があり,その特徴=存在価値ゆえに,構造的な説明の困難性を秘めていることを指摘し,この困難性を克服し,看護を説明するためには,看護研究の積み重ねから“EBN”(Evidence Based-Nursing)へ昇華する必要性を強調。
 最後に,「明確な目的があり,効果を生じるメカニズムと臨床で効果を得られる確率がわかっており,安全が保証された確実で簡便な手技が示されるような,誰もが納得できる,説明ができる看護に投資して,看護を選択しようと市民に認められる研究を実践しよう」と会場に呼びかけた。

「実践に還元される量的研究」とは

 シンポジウム I「実践に還元される量的研究」(司会=千葉大 手島恵氏,聖路加看護大 亀井智子氏)には,真田弘美氏(金沢大),田高悦子氏(弘前大),荒川唱子氏(福島県立医大)が登壇。
 この中で真田氏は,15年前から続けている「褥瘡予防を目的とした体圧分散寝具の研究・開発」について発表。氏は二層式エアマットレスの臨床実験(RTC;無作為化臨床比較試験)の結果を示した上で,「体圧分散寝具が褥瘡発生を防ぎ,コスト面でも大きな効果があることははっきりしている。これからは,可動域拡大やADL自立を促進する観点からも,さらなる研究が必要である」と課題を述べた。
 また田高氏は,痴呆性高齢者の地域でのケアプログラムに,高齢者の過去の回想に焦点をあてたアプローチ方法である「回想法」のRCT結果を報告。「アルツハイマー症と脳血管性痴呆では,効果のあらわれ方や持続期間に違いがあり,臨床適用においては対象の選定が第一に必要である。また,実施場所,評価指標,推進体制などクリアしなければならない課題もある」と述べた。
 最後に登壇した荒川氏は,がん化学療法に伴う嘔気・嘔吐に対するリラクゼーション技法の効果測定結果を示した上で,「EBNとは根拠を集めること,使うこと,作ることの集大成である。量的研究の先に必要なのは,根拠に基づいた癒しのワザである」と締めくくった。

「質的研究はどのように看護実践を変えるか?」

 シンポジウム II「質的研究はどのように看護実践を変えるか?」(司会=東医歯大井上智子氏,日赤看護大 筒井真優美氏)では,田中美恵子氏(東女医大),戈木クレイグヒル滋子氏(都立保健科学大),秋元典子氏(岡山大)の3氏の発表の後,討論が行なわれた。
 まず,「語りを通して体験を知ることは,看護実践をどのように変える可能性を秘めているのか?」というテーマで講演した田中氏は,精神障害者の語りを通してその体験を知る研究を行なった経験から,「この方法は研究者が参与者となり自身も変化することから,最終的には看護行為も変化する」と述べた。
 次に戈木氏は「質的研究のプロセスがもたらすもの」というテーマで講演。子どもを小児がんで亡くした母親のサポートグループにかかわった経験から,「母親と話し合いを重ねるうちに,母親が悲嘆の過程を経験し納得のいくストーリーを作り出し,悲嘆から踏み出していけるよう促す援助が可能となり,研究プロセス自体が実践に還元される」と発表した。
 最後に秋元氏は「看護ケアの意味を知る」とのテーマのもとに,クリニックでの看護実践場面を3つ紹介。患者が話した言葉を分析し,行なったケアとそれがもたらした結果を抽象化することで,その普遍性を高めていくプロセスを具体的に示した。
 討議では,概念を明確に定義づけること,抽象化されたものを個別化していくことの重要性,研究の成果をどう伝えるか,研究者の解釈の妥当性などに論議が集中した。

市民フォーラム「家で死ぬこと,看取ること」

 2日目午後には,市民との相互交流を意識しつつ,看護の現状や実践,そしてその成果を市民にわかりやすく紹介することを目的とした市民フォーラム「家で死ぬこと,看取ること」が開かれた。
 在宅での看取りは現在,どのように行なわれているのだろうか。母親を看取った体験からその一例を示したのが小川陽子さん・祥子さん姉妹。姉妹の母親は顆粒球性肉腫で5年間の闘病の末,在宅で死を迎えるために病院を退院。“凝縮された”最期までの2週間を家で過ごし,呼吸が乱れていく中で家族にピースサインを送った後,亡くなったという。この姉妹の話から,病状に変化が起こる度に,姉妹に選択肢を与え続けてくれた在宅医,そして,「心配ならいつでも遠慮なく連絡してほしい」と安心感を与えつつ最期まで伴走してくれた訪問看護師など,在宅死を支える専門職の重要性が浮かび上がってきた。
 しかし,誰でもが望みさえすればこのように理想的ともいえる最期を迎えられるのだろうか。川越博美氏(聖路加看護大)は在宅ケアの条件を示しながら,困難を可能に転ずる方向性を示唆した。
 氏の提案の1つが「家で死ねる街作り」で,在宅死を考える一般市民を対象とした連続講座を東京・墨田区で開催し,受講前は全員が在宅死は不可能と考えていた参加者が,受講後はほとんどが可能と考えるように意識が変わってきたと言う。医療の枠内だけで考えるのではなく,在宅ホスピスチーム(医師,看護師,ヘルパー,ボランティア)が地域にどう根づくかを基軸にした発想は,氏が講演の冒頭で提示したホスピスの本質を示す言葉-「ホスピスは建物ではなく考え方である」に呼応するものであり,さらに,看護が社会にどう働きかけていくかについての可能性をも示す興味深い内容であった。
 講演終了後には,山田雅子氏(セコメディック病院)の司会で,市民を含む参加者との活発な意見交換が行なわれた。