医学界新聞

 

臨床の知-症候学の重要性

World Federation of Neurology ; Research Group on Aphasia and Cognitive Disorders 印象記

田邉敬貴(愛媛大教授・神経精神医学)


 世界神経学会の下部組織である失語・認知障害研究班の2002年度班会議が,5月28-30日の3日間,フランスのニース近郊のVillefranche sur Mer(写真)の城塞(La Citadelle)で開催された。田舎町だがシェークスピアが好んだと言われるように,風光明媚なコート・ダジュールの中でもとりわけ眺めのすばらしい落ち着いた町であった。この班会議は世界各国からの数十名のメンバーで構成され,2年に1度開催されており,現在のChairman/SecretaryはケンブリッジにあるMRC Cognition and Brain Sciences UnitのJohn R Hodges教授,今回の世話人はパリの国立ブローカ研究所のFrancois Boller教授がなされた。に示した7つのセッションと,テーマを特定されていない1つのセッション,ならびにポスターセッションで構成された。


表 失語・認知障害研究班のセッション
Apraxic Disorders 失行症
Aphasia Therapy: Considerations beyond language 失語症治療
Progressive Disorders of Speech Output in Frontotemporal Dementia 前方型痴呆の発語障害
Functional Imaging of Semantic and Syntactic Processes 意味・統語過程のブレインイメージング
Memory and Dementia 記憶と痴呆
New Approaches to Mapping the Language Cortex 新しいアプローチによる言語領野
Categorical Organisation of Semantic Memory 意味記憶のカテゴリー化

脳変性疾患による失語症の問題

 ここでは筆者が現在関心を抱いており,かつある意味では症候学ないし臨床診断に多少とも混乱がみられる3番目のテーマであった,「脳変性疾患による失語症」に関するセッションについての印象を述べてみたい。このセッションは第23回日本失語症学会(1999年,笹沼澄子会長)の特別講演も務められ,日本にも度々来日されているHodges教授の同僚であるKaralyn Patterson女史が司会をされた。

「apraxia of speech」をめぐる混乱

 最初に驚かされたのは,「apraxia of speech」(発語失行)という用語が登場し,その用語が示すところ,ないし内容をめぐっての混乱であり,これは20数年前の本邦での議論ないし混乱を再び目の当たりにする感を覚えた。すなわち,非流暢性失語であるBroca失語の中核症状で,一貫性のない構音の障害である「アナルトリー(anarthria)」と,流暢性失語である伝導失語の中核症状であり,構音の障害自体は伴わずに言い直しを伴う「字性錯語」と,「apraxia of speech」との関係である。
 言語学者Darleyが使い始めた「apraxia of speech」という用語は,アナルトリーも言い直しを伴う字性錯語をも表す広い概念で使う学者も一時期いたが,現在はほぼアナルトリーに対応するものとして使われていると筆者は理解していた。ところが,この用語の使い方ないし理解に,欧米の研究者の少なくとも一部の人には混乱がみられる。この背景として,最近の認知神経心理学の台頭やアルツハイマー病をはじめとする変性性の失語症への関心から,局所症状の症候学的理解の,ある意味では基本となる脳血管障害例に,この領域の研究者が触れる機会が少なくなっているのではないか,と筆者は危惧する。

進行性非流暢性失語の診断

 今1つは変性性失語の非流暢性タイプ,すなわち進行性非流暢性失語(progressive non-fluent aphasia)についてである。
 変性性失語の流暢性タイプの代表である意味性痴呆(semantic dementia)という病態は,臨床的には日本では語義失語と呼ばれ,例えば「エンピツってなんですか?」という患者さんの発言に特徴づけられる,きわめて印象的な,語の意味すなわち語義が選択的に障害された病像である。そして,剖検例のほとんどに共通するその病理学的基盤は,側頭葉前方部に萎縮中心を有する葉性萎縮で,組織学的にはピック細胞やピック小体のような特徴的な組織学的所見を欠くが(もちろんアルツハイマー病の病理所見も欠く),顕著な微小空包化によって特徴づけられる非特異的病理変化である。このように,意味性痴呆は臨床的にも,病理学的にもかなり均一性の高い病態である。

アナルトリーの有無が診断の鍵

 一方,進行性非流暢性失語の報告例は,非流暢とは表現されるものの,口頭言語の内容は症例によりかなり幅があり,加えてその病理学的基盤もピック病,上述の非特異的病理変化,アルツハイマー病,大脳皮質基底核変性症等,さまざまな疾患ないし病態の病理所見が報告されている。つまり,臨床的にも,病理学的にも多様性を有している。臨床的な多様性をもたらしている主因は,筆者の見解では非流暢という規定の中に,構音の障害,すなわちアナルトリーの有無を重視するかしないかという立場の違いにあると思われる。
 例えば,きたる11月27-28の両日,京都で開催される第26回日本失語症学会(会長=京大人間環境学 大東祥孝氏)の特別講演者であるイギリス・マンチェスターのJulie Snowden氏の症例は,語想起障害が強いため発話量は乏しく,例えば鋏を見てもハサミと命名できない時に,その綴りを“sci... sciss....”というように言いながら,しばしば命名に成功するという,非常に興味深い変性性の失語例であった。この症例は構音自体の障害は見られず,復唱の障害もない例であったが,進行性非流暢性失語の範疇で捉えられていた。
 筆者は1分間の発語数が何個というような基準ではなく,進行性非流暢性失語と診断する場合には,アナルトリーの存在が必須と考える。進行性非流暢性失語の報告例のほとんどは,シルヴィウス裂周囲ないし島を被う弁蓋に病巣を有しており,アナルトリーを生じる中心前回下部を含んでいる。
 ちなみに,前頭葉前方部に萎縮中心を有する葉性萎縮例でみられる力動性失語(dynamic aphasia)ないし超皮質性運動失語ではアナルトリーはみられず,この病態は進行性非流暢性失語の中に含められていない。

臨床像に適切な用語を用いる大切さ

 もちろん,その病態を生じせしめる病理学的変化,原因疾患の究明が大事であることは言うまでもないが,日常の臨床あるいはケアにおいては,患者さん1人ひとりの病態の把握が大事であり,そこには症候学が要求される。アルツハイマー病にしろ,ピック病にしろ,あるいは統合失調症(精神分裂病)にしろ,その病態にかなり共通した臨床像が見られるわけであり,異なった病態を同じ用語で呼ぶという事態が助長されれば,臨床病理学的対応の研究に要らぬ混乱を引き起こすことになる。例えば,どのような病態が意味性痴呆と呼ばれているかを的確に把握していないと,意味性痴呆がアルツハイマー病でもみられた,というようなことになりかねない。実際にそのような報告があるが,筆者が知るかぎり,それらは超皮質性感覚失語の要素を持った健忘失語であり,側頭葉前方部に萎縮中心を有する葉性萎縮による語義失語像とは異なる。
 ここでもう1つ指摘しておきたいのは,臨床的評価がSPECTやPETなどの機能画像による病巣の部位,拡がりにバイアスを受けていたり,影響されている場合が少なくないという点である。記銘力障害,視空間性障害等を呈し,臨床的にアルツハイマー病と診断される症例で,いくら左側頭葉前方部にまで機能低下部位が及んでも,葉性萎縮によるような語義失語像はみられない。

症候学は臨床の基本

 形態ならびに機能画像により,生前に患者さんの脳の状態についての情報を与えてくれる現在では,臨床を診て,病態,臨床解剖学的対応を考え,臨床の腕を切磋琢磨していけば,少なくとも精神疾患や痴呆性疾患は,画像を撮らなくとも,患者さんとの数分間の会話の中で,かなりの精度で診断を下すことができる。改めて,脳とこころに関わる臨床においては,神経疾患,精神疾患両者の経験に基づいた臨床神経心理学,症候学が重要であることを強調したい。
 なお変性性失語についての詳細は,拙著『痴呆の症候学:ハイブリッドCD-ROM付』(神経心理学コレクション医学書院刊)を参照されたい。