医学界新聞

 

臨床医の育てかた

臨床研修における指導医の役割

〔インタビュー〕松村理司氏(市立舞鶴市民病院副院長)


 国民が求める医療とは何か。そのためにはどのような医師を育てることが必要なのか。
 この命題への1つの解答として,市立舞鶴市民病院(京都府・舞鶴市)では松村理司氏(同病院副院長)を中心に,患者を総合的にみられる臨床医を育成する目的で,北米の一流の臨床医を指導医として招聘し,総合診療的な臨床教育プログラムを構築してきた。松村氏はこれらの医師を,その高い臨床力や確固たる倫理感などから,北米で活躍する身体能力の高いプロ野球選手になぞらえ「大リーガー医」と呼んでいる。
 このたび,『“大リーガー医”に学ぶ-地域病院における一般内科研修の試み』(医学書院刊)を上梓した松村氏に,臨床医学教育のあり方を,特にその鍵を握る「指導医」の役割を中心に話を聞く機会を得た。


■指導医の最大の要素は「臨床力」

―――市立舞鶴市民病院(以下,市民病院)では18年間以上にわたり,海外,特にアメリカの優秀な臨床医を指導医として招聘しています。
 今,日本の医学教育は変革が叫ばれ,2004年からは卒後臨床研修が義務化されるなど大きな転換期を迎えています。その中で,臨床研修の成功は「指導医の良し悪しで決まる」とも言われていますが,先生がお考えになる「指導医」とは,どのような医師を言うのでしょうか。
松村 私たちが指導医としてどれだけ出来ているか,必ずしも自信はありませんが,シンプルに言うと,臨床の指導者には「臨床力」が最も大事です。今は,ややもすると個々の指導医の臨床力はとりあえずあるものと仮定して,ファカルティ・ディベロップメント(FD)などで教育の方法論に対する理解が追加されればそれでよいと考えられがちですが,それだけではもちろん不十分です。最も重要なことは,指導医の持っている臨床力です。
 現在,日本において指導医の臨床的能力がどの程度なのか,平均的な指導医の臨床能力がどのあたりにあるのかが,教育を決すると思います。これからの研修医は,「自分の指導医は優れた臨床家であるのか」という点を見直す必要があると思います。
 あるいは,指導医が本当に臨床の方向を向いているか。指導医が研究オリエンテッドで,やむなくある時間だけを臨床に割いている→方法論がないからどうすればよいかわからない→そのために仕方なくFDで勉強している,という構造が続く限りは,それは本物の臨床ではありません。それで次の世代が花咲くかと言えば,言わずもがなでしょう。
 なぜ,日本において臨床力が必ずしもみんなに備わっていないのか。これは大学を中心とする教育機関の目標が基礎研究主体である風潮が,明治の初めから現在に至るまで続いてきたことによります。

大学で臨床医が育たない理由

松村 もちろん,基礎研究は非常に重要です。そこで,アメリカの場合は,基礎研究者と臨床医の進路をほぼ完全に分けています。卒後研修が終了して,大学や日本での研修指定病院のような関連病院で生きてゆく医師は,基本的にどちらのコースを取るかを選択させられます。
 アメリカでは,日本の大学の一般的な(内科系)臨床系教官と同様な立場の人を「フィジシャン・サイエンティスト(physician scientist;医者・科学者)」と言います。一方,臨床に汗をかき,教育に汗をかきという人を「クリニシャン・エデュケイター(clinician educator;臨床医・教師)」と呼んでいます。両者の道がかぶさらないのですね。
 日本は現在,医学教育熱が高いようですが,大学ではこのフィジシャン・サイエンティストに「クリニシャン・エデュケイターとしての能力も発揮せよ」と言っているのです。1人でこの2-3役をこなさなくてはならないなんて,スーパーマンだってできませんよ。大学はこのような構造的な問題を抱えています。
 大学外の病院に働いている勤務医たちは,クリニシャン・エデュケイターです。だから,その人たちがより臨床力を高め,さらに教える時間的ゆとりが保障され教育に携れたら,今より状況は好転するでしょう。

専門を足してもジェネラルにはならない

松村 英語で,内科なら一般内科・総合内科,外科では一般外科など総合診療に結びつくことを「ジェネラリズム」と言います。これをさらに求める「more generalism(もっとジェネラリズムを)」というのが私たちの立場です。特に卒後の初期研修の場合には,ありふれた病気を診てジェネラルな力を蓄えて,その後に特殊な病気を診てスペシャルなものを学ぶという順序が大事になります。スペシャルなものを学んで,それを足したらジェネラルになるかというと,これはなりません。
 日本はスペシャリストに価値が置かれていて,大学病院や規模の大きな研修病院もスペシャリストばかりです。そこではスペシャル,あるいはスーパースペシャルな疾患を扱うため,結局そこでの研修はスペシャルなものを「足す」という形です。これでジェネラルなものが学べるかというと難しい。特に卒後初期におけるジェネラルなものは,ジェネラルな教師からでないと学べません。なのに,日本にはジェネラリズムを教えられるジェネラリストが少ないのが現状です。
 日本の大学での総合診療は,歴史の古い専門医集団の中にあって,「ビルの谷間の総合診療」になってしまい,専門医が手から離すものを扱うという形になっている側面があります。本来はプライマリな患者を全部診て,また,専門医が束になっても解決しにくい,きわめてジェネラルな事象をすべて診るのが本当のジェネラリズムだと思いますが,大学の構造上そうはいかないようですね。
 その点が解決されないために,本当の意味のジェネラリズム,あるいは総合診療の臨床力が,果たして大学で必要かどうか自体が問われているのではないかと思います。現時点ではその必要性が専門医集団にまだ認められてないために,総合診療の地位がなかなか上がらないのです。専門医が「総合診療がないと困る」と認めるところまで,総合診療のジェネラルな臨床力の質が上がればよいのですが,まだ専門医の目を引きつけるところまでは到っていないということではないでしょうか。

「総合診療的マインド」

松村 われわれのような地域病院では,ジェネラリズム――「総合診療的マインド」という言葉を勝手に作ったのですが――「なんでも診る,幅広く診るというマインド」が必要です。これは何も大学病院に不必要なわけではなく,医療のどの場所でも必要ですが,多くの専門医がいる病院では,専門医集団が1人の患者さんを診ることになります。しかし,地域医療,あるいは中規模以下の病院では,専門医がたくさんいるわけではありません。このような状況でも,医療はけっこう高度化し,また患者さんが非常に高齢化していて,その疾患は多臓器に及び,生活習慣病もたくさん抱えています。
 先日,病棟回診をしてみたところ,ある部屋では6人全員が90歳以上でした。介護病棟ではありません。皆さん複数の疾患をお持ちで,老いて,生活習慣病を抱えて,また今までにたくさんの病気に罹ってきてもいます。こうなると,病と老いとの境の見極めがとても難しい。これは専門医の日頃のスタンスではなかなか見極められないのです。その時こそ「総合診療的マインド」の出番です。
 術前のコンサルトも大変です。例えば,「自室で歩行中に倒れて大腿骨頚部骨折した88歳男性。15年前にペースメーカー,8年前に他院でPTCA(経皮経管冠動脈形成術)を施行。この1年間に急性腎盂腎炎で1回,誤嚥性肺炎で2回入院。6か月前に『背中が痛い』と来院した時にCTで総胆管結石が発見されたが,ERCP(内視鏡的逆行性胆膵管造影)以上の侵襲的検査は拒否されている」という場合を考えてください。
 内科医が当番で診たとしたら「気をつけて」としか言いようがない。手術をやめるようにとは言えないですからね。
 循環器科医・呼吸器科医・消化器科医・感染症医・腎臓病医への「個別の対診(院内紹介)の総和」という発想は,地域医療には馴染みません。そんなことをしたら,高齢の患者さんは皆さん全科に対診しなくてはなりません。これは,総合診療的マインドのある一般内科医が対応して,それで手に負えない問題が起きた時にだけ専門医の出番,という形になるほうがずっとベターです。
 そのためにも,ジェネラルなスタンスは総合診療的なマインドのある場所で教育を受け,よりスペシャルなものに限ってスペシャリストのもとで勉強する必要があります。しかし,日本ではその肝心の病院ジェネラリストが少ししか存在していません。「大リーガー医」に匹敵する専門家はそこそこいると思いますが,病院ジェネラリストは限られています。

■指導医の果たす役割

オープンな議論の場を持つ

松村 外来患者さんや入院患者さんの持つ諸問題は,知識に関することに加えて,倫理というか感情などに関することがあります。このような問題を1人の担当医だけで囲いこまずに,医師全員の課題にすることが,私たちが意図する「世代を超えたオープンさ」「開放性」です。そこから議論が産まれることになります。
 その中で,知識を持っているのは若い世代かもしれないし,年配の世代かもしれない。どちらでもよいので,とにかく持っている人から流れる知識をもらう。これが地域の病院における生涯教育のありようだと思っています。
 またジェネラリズムの立場では,1人がすべてを知ることは無理ですから,常にオープンにして流れてくる知識をもらうという仕組みが大切です。例えば,指導医をしながら研修医から新しい知識をもらうなどがそれで,「君はどこの大学? 何とか言うよい先生がおられるらしいねえ。どんなふうに教えられてるの?」とか言って,その先生たちの専門の知識を聞く,盗む。これはアメリカでは皆がやっていることです。「某先生はアップ・トゥ・デイトな知識だけど,あれは全部,研修医からのもの」とか言われることが実際あるのです。指導医は長い経験に基づいて,教える中で何かを得るという,ギブ・アンド・テイクが上手に働いています。知識は,教師から生徒に一方的に流れるのではなく,当然,吸い上げられてもいくものなのです。
 指導医が常にこのような姿勢を持つことが教育の条件であるべきですが,そのためには絶えず元気な若者が混じってくることが大事です。医療の場が双方向的な議論ができる環境にあるかどうかが鍵を握ります。
 空間が開かれている場所では,若者も自分の意見を言いやすくなります。これは当院には専門医が少ないからかもしれませんが,専門医が乏しかったら若者が元気なわけでは必ずしもありませんので,議論が奨励されているからだと思います。
 同時に,看護師などのコメディカルの人たちにも議論に入ってもらうことで,彼女・彼らの知識を吸収することも同じです。このようなスタンスが,これまでの日本の医療には乏しかったわけです。

若い医師に場数を踏ませる

松村 常にコミュニケーションが必要な現場に個人が置かれて,自分が喋らなければ物事が進まないという状況は,訓練になります。その場数を踏ませることが大事です。
 当院での教育では,知識の面も,倫理や「知情意」の「情」の側面も,できるだけ一緒に話し合うようにしています。医療空間をどう構築するかですが,患者さんと主治医だけの空間にしてしまい,あとは検査と伝票を見るだけでは,空間の広がりようがありません。それだと,コミュニケーションのとれない医師が出てきます。コミュニケーション・スキルの涵養とまで言えるかどうかはわかりませんが,ともかく一緒に議論できるような場数を踏ませるのが大事です。研修医が自分の考えを述べる場は,どのようなものにせよ,できるだけ多くあるべきだと思います。

Clinical Problem Solving

松村 研修医は,具体的な臨床状況をどのように解決していくか,つまり「Clinical Problem Solving(クリニカル・プロブレム・ソルビング,臨床的問題解決)」の能力を身につけていくことが求められます。
 臨床研修病院でも,研修医がどのように患者さんをマネージするか,つまりクリニカル・プロブレム・ソルビングの能力が試されるような議論をする時間を十分に設定するという豊かさは今までにあまりありませんでした。評価といえば,外科なら手術が何例,内科ならどんな患者を何人見たかという側面のみであって,中身の評価がされてきませんでした。
 医学教育でも高名なある先生も,「日本では,分厚い評価表がたくさん出ているが,それをパスしたらどのような医師になれるのかというイメージが全然ない。ロールモデルも乏しい」とおっしゃっています。いったい何のために評価をパスして行くのかという批判すら出ています。

死生観を持つ医師

松村 地域医療の現場では,患者さんの死に場所と死に方に思いを馳せることも重要です。例えば,96歳の人が入院してこられて,死の問題がぽっと入ってきたけれども,無事に軽快されて退院されていくような場面がありますが,25-26歳の研修医が屋根瓦状(ピラミッド状)の教育方式のもとで経時的に修業していくことができるかどうかも,医学教育の大きな課題でしょう。クリニカル・クラークシップのもとでの医学生の実習課題でもあるでしょう。
 超高齢社会の日本では,このような場は大学病院や大規模な研修指定病院にもあるでしょうが,そのような場所でない地域病院のほうが体験の機会は多い気がします。
 大学病院では,老いた人もなんとか治してもらおうとしている。一方,地域医療の空間では,死に場所を求めてもいる。これはどちらも医療であり,同一の個人がどちらの場合の主人公にもなり得ます。だから,若い研修医が,治らない病気,あるいは「老い」に接しなければ,あるいは地域医療を経験しなければ,高齢社会の医療の半分しか見たことになりません。

研修医のモチベーションや理解度を尺度に


今夏滞在していた大リーガー医は,イラン出身のラミン・アーマディ氏(イエール大関連グリフィン病院内科プログラムディレクター)。38歳の若さにして全米最年少のディレクターになったという経歴の持ち主。写真のような研修医たちと議論が連日行なわれる
松村 私たちが海外から招いている「大リーガー医」は,クリニシャン・エデュケイターがほとんどで,内科系のプログラム・ディレクターが多いため,教える際のほめ方や研修医にモチベーションを持たせるのがとても上手です。何か質問すると「グッド・クエスチョン」と自然にほめます。議論も双方向的であり,また次も質問してみようと思わせるものがあります。
 アメリカの研修医たちは,わからなかったら質問します。皆が理解するまで議論もしますが,日本の場合はあまり質問もしないし,理解していなくても質疑が終わってしまう。日本は講義が多く,聞いたほうがどれだけ理解して伸びるかが必ずしも問われていないような場合もあります。
 これは一般的なことかどうかわかりませんが,アメリカでは講義を聞く前の成績と,講義後の成績に差が大きくて,例えば20点満点の試験で,講義前は10点でも,講義が終わったら平均18点になるというように,講義後の成績が伸びるという特徴があるそうです。しかし日本は,講義前から14点取っていても,講義後も15-6点にしかならない。これでは講義の仕方に問題があるように思えるのですが。

患者を見下さない精神

松村 アメリカの医療界では,倫理的側面で患者さんを見下さない姿勢が徹底しています。例えばアルコール中毒でボロボロになっている人を,医療の現場では「病んでいる人」とみなし,「また飲んだからこないになったんや」とはもっていかない。それは徹底しているように思いますね。日本では,「また飲んだかねえ,ホンマにもう」とか言われてしまいます。アメリカではそういう風に出してはならない。1つには裁判に訴えられやすいからですが。
 日本の場合は裏表が少ないというか,思ったことをポッと言ってしまうことがよくあります。もちろんアメリカでも裏ではそう言っている可能性はありますが,表の医療現場では,見下されやすい病気に接しても,決して人格を見下すようなことは言いません。
 医者はその所属する社会の中流層出身が多いですし,研修医は病気もせずに大層若いので,お年寄りや病んだ患者さんを見下してしまえば,そこには上下の関係しか出てきません。アメリカのように努めて「上下ではない」ように振舞うのは偽善だと言う日本人もいます。そういう要素もあるかもわかりませんが,アメリカで臨床訓練を受けた多くの日本人研修医が,向こうの大教授たちの「腰の低いプロフェッショナリズム」の虜になっています。まさに,習い性となるものですね。

専門医が一般病棟の指導医に

松村 アメリカの医学の強さの1つと私が思っていることに,内科系の専門医が「general ward」,つまり一般病棟の指導医(アテンディング)になる制度があります。循環器,呼吸器,腎臓,消化器などの各専門医が1か月単位で,年に2-4か月ほど一般病棟の責任者になり,研修医を指導します。毎日病棟に行かなければならず,3-4時間ほどかけて回診し,20-30人の患者さんの責任者になります。
 本当にいろいろな病気の患者さんがいますので,これが自分の内科のジェネラルな知識を保つチャンスなのです。研修医や学生から,新しい自分の専門以外の領域が最近どのようになっているかを学ぶ場所なんです。
 なぜこんなことができるかと言うと,若い時にたくさんのありふれた病気を診ているという訓練の土台があるからです。また,以上のようないわば生涯教育がアテンディングの形で行なえているからです。日本では,スペシャリストになってしまえば,自分の専門領域の患者さんだけしか診ないでしょう。だから,専門医が研修医にジェネラルな事象を教えるというノルマを課されても,きちんと果たせないわけです。
 アメリカでは,専門医にもジェネラルな能力が最低限必要という構造を作って,質を保つという仕掛けになっています。アメリカの医学生は勉強しているので,たくさん質問をしてきます。だから,アテンディングにも相当の勉強が必要でしょう。日頃から,このような臨床能力を保つためのさまざまな工夫がなされていることが,アメリカの臨床医のモティベーションや質を高く保たせているようです。1960年代から数十年間の専門化の傾向の中で,世界をリードし続けているアメリカですが,「専門医にもジェネラリズムが必要だ」との認識は,構造的に放棄してこなかったと言えます。アメリカの医療アカデミズムの臨床的英知を感じさせられます。

アカデミズムとジェネラリスト

松村 その背景には,「クリニシャン・エデュケイター」という道を早く確立したことがあります。クリニシャン・エデュケイターとして生きて行くことで,給料を得,地位も名誉も社会的に保障されるのは大きいことです。
 それにつけても,臨床的な議論の展開に関して,アメリカの病院ジェネラリストは日本より1歩も2歩も進んでいますし,また力があります。これは経験した者でないとわかりませんが,彼らの臨床力は幅広く,そして深い。その伝統がまだ日本には育っていないのだと思います。
 しかもアメリカでは,総合診療的マインドを持った優秀なジェネラリストが,大学の中にもわんさと棲息しています。一方,日本では,ジェネラリストであるはずの医師が,特別な病気(例えば心身症)だけを診ていたり,振り分け外来だけに従事という制約が強いのは残念でなりません。私たちは小さな地域病院にいるので,総合診療的あるいは一般内科的な医療は比較的展開しやすく,日本の大病院での展開の困難さは親身には理解できません。しかし,アメリカでは大学や大病院でもとっくに軟着陸できています。難しいでしょうけども,日本の大学の中でのジェネラリズムがもっともっと輝いてほしいと念願します。
 クリニシャン・エデュケイターとしての道がアカデミックなキャリアとしても確立すること,臨床力のあるジェネラリストがアカデミックな医療現場の問題解決にも奔走できること,この2点にこそ,次代の若手医師の臨床力の向上がかかっていると思います。ひいては,グローバル・スタンダードの時代の日本の臨床医学の再生という課題にもつながるように思えます。
―――ありがとうございました。

●舞鶴市民病院の臨床研修と,そこでの研修医たちの姿を追ったドキュメント番組「研修医たちの200日(仮)」が,TBS系列で10月19日(土曜)13時から放映される(関東のみ。他の地区は未定)