医学界新聞

 

【鼎談】

考えながら実践できる学生を育てるために

問われる教員の資質

安酸 史子
(岡山大学)
奥原 秀盛
(NPOジャパン・ウェルネス)
田中マキ子
(山口県立大学)


―― すでに医科系大学を越えて100校に届こうとする看護系大学(以下,看護大学)の定員は,全看護師養成所(以下,看護学校)の20%になろうとしていますが,看護大学の教育目標には,「考えながら実践できる学生を育てる」ということがあると思います。近年の看護師国家試験を見ますと,これまでの単純想起型の問題から応用力を試される状況設定問題が導入されるなど,ここでも「考えながら実践できる」ということが重要視される傾向になってきているようにも思えます。
 また,文部科学省の「看護学教育のあり方に関する検討会」は,この3月に報告書「大学における看護実践能力の育成の充実に向けて」をまとめましたが,ここでは看護学教育の特徴に「臨地実習は不可欠」をあげています。一方では,臨床の声として「実践できる新人が入ってこない」という指摘があり,それに対して「教育現場は基礎的な教育であり,育てるのは臨床の現場」という考えから,「看護師の卒後研修」も提唱されています。
 看護教育界にはこのような背景がありますが,今日は,大学教育が中心とはなるものの,現在の看護教育がどのような傾向にあり,その中での学生の質,そして看護教員の質について,問題点を明らかにするとともに,理想とされる教育像を探ってみたいと思います。

■「看護」を学ぶ「看護大学」

看護大学の志望動機

―― まずは,今の学生は看護職志向があるのか,というところからお話しいただきたいと思います。かつては,「看護師になりたい」との思いから看護学校へ入学する学生が多かったはずが,大学化していく中で志望動機の枠も広がり,「学士号」取得が目的であったり,必ずしも卒後に看護職を選択しない人たちも増えてきているように思えます。いかがでしょうか。
安酸 私が接する限りでは,全員が「看護師になりたい」との動機から入学しています。昔は,大学に落ちたから,成績があまりよくないから看護学校へ進学する,といったマイナーなイメージがあったかもしれませんが,看護師に対する意識そのものが違ってきて,今は,高校の成績がよかったから看護をめざして看護学部に入るという人が多い気がします。優秀だからこそ「看護師になりたい」「看護学を勉強したい」という人たちが多く入学していますので,他学部の人と話をしても卑屈にはなっていない,という感じがします。
田中 私もそれには同感です。リサーチしたこともありますが,必ず原体験みたいなものがあって,看護学部を志向しています。昔は「看護師になりたい」と言葉に出していたものが,今の学生はそれを口に出さない。でも,訊けばちゃんと目的意識を持っているんですね。
奥原 私は昨年3月まで日本赤十字看護大学の教員でしたので,その経験からですが,3分の1から半分ぐらいの学生は,「看護師になりたい」という強い動機づけがあったと思います。また,能力のある学生が入学していますが,自分の意思とは無関係に,「親が行けというからきた」という人も1割,あるいはそれ以上の確率でいるような気がします。でも,その動機づけが弱い学生は,実習に行ってから,比較的問題ある学生になってしまい「大学を辞めたい」と言い出す。だけど,せっかく2年まできたのだからとか,3年まできたからと言って,辞めることもできずにいて,結局そのような学生が教授会などで問題になってしまう。そういう学生が増えたな,という思いが私の中にはあります。

「大学人」を作る

―― 今の安酸さん,田中さんのお話と奥原さんでは,若干ニュアンスが違っているように思いますが,地方と都市部の大学では差があるものなのでしょうか。
田中 かつて,農村地区では成績のよかった,いわゆるお嬢さんタイプの人が看護師になるという評価がありました。そういう意味では差はあるのかもしれませんが,学生の3-4割が地元の出身ですね。
安酸 県立大学は地元の推薦入学がありますので,半数近くが県内出身でしたけれど,国立大学ですと全国からきます。
奥原 国公立と私立でも違いがあるのかもしれませんが,お2人の大学では問題のある学生はそれほどいませんか。
安酸 途中で進路変更をして,医学部を受け直したり,薬学部へ行くという学生はいますが,それも1学年80名の中で1人か2人ですね。
田中 コンスタントに毎年1人や2人は,「今日も出てこないね」とか,「休みがち」という学生はいます。彼女らは,精神的な面で大学に出てこられないのですが,それは看護学校,看護短大にもあったことで,ただ表面化しなかっただけだと思います。「自分は進路を間違えたのでは」と考えることってあると思うのですが,それが大学という,ある種自由な場でちょっと出やすくなったと考えられますね。
安酸 私は,大学を卒業したからといって,必ずしも看護師にならなくてもよいと考えています。「看護学」という教養を学んだ一般人が増える,これはすごく贅沢なことですよね。4年制看護大学の理念には,看護師や保健師国家試験の受験資格取得ということと同時に,大学人を作るということがあげられますが,私の中では「大学人を作る」という感覚はけっこう大きいですね。でも,このような感覚を持ちあわせていない教員も少なくないですね。
奥原 私も,「大学人を作る」という考えに共感しますが,看護大学が増えてきた背景には「看護師不足」がありました。社会的には,質のよい看護職が要求されており,そのような看護職を育てるということが,もう1つの看護大学の理念なのだと思います。ですから,どうしても実践現場で即戦力になる人の養成も課せられているようで,私のジレンマともなっています。

教員は「看護」という仕事にプライドを持っているか

奥原 大学人を作るだけでしたら,教養を学んで出て行けばよいわけですが,看護大学においては実習という対人関係が重要とされる場が出てきます。そういう時に,私は彼女たちに対して,「看護職になってほしい」という思いから接しています。
安酸 そういう場面で,学生が「看護師になりたい」と改めて思えるならばよいのですが,「ここに入ったのだから,看護師になるべき」「看護師であるならこうあるべき」といった「あるべき論教育」をするのは,願いとしてはすごく強いものがあるだけにつらいですね。
田中 私は,看護短大ができた時の1期生ですけれど,自分たちには,「短大に入った」という意識がありながらも,「ここに入ったからには看護師にしかなれないんだ」という思い込みがありました。そんなある時に,先生から「あなたたちは看護を学びにきたのであって,看護師になるためにここへきたのではない」と言われて,ちょっと開眼させられました。その思いが今もあって,学生たちには,「せっかく選択したのだから,必ずしも皆が看護師にならなくてもいいと思うけれど,看護という仕事にプライドを持たなければいけない」と指導をしています。実習に出る限りにおいては,相手への責任も生じますし,プライドを持った準備をして,対応してほしいというスタンスですね。それが「大学人」につながるのかどうかわかりませんが,生きた臨床の場を使う限りは,せめてそれが礼儀だと,そこは厳しく言っています。
 ただ,そういった姿勢の実習では,自分の限界が見えてしまう学生もいます。そこで進路変更するのは,ひょっとしたらよい選択なのかもしれません。それを知るのも大事なのだと思います。
安酸 学生にプライドは持ってほしいけれど,教える教員が看護という仕事にプライドを持っているかどうかが問題なのです。教える側に,看護に対するプライドがないと,それはすぐに学生に伝わりますよね。

■今,看護大学では

看護大学と看護学校の違い

―― 看護学校では,「使える看護師」の養成が優先されていたかと思います。そこには指定規則に沿って,どこの学校でも共通する時間割や外部からの指導講師も同じという,ある意味画一化された教育が行なわれていて,一方では自由裁量のある大学教育がある。このように,「看護教育の現場」に2面性がある状況の中で,学生の質の違いというものはあるのでしょうか。
田中 私は,学生は年齢的にもまだ若いですから,「迷うのは当たり前」だと思っています。でも,今までの看護学校での教育は,迷う時間もないくらいに,次から次へ課題が出され,「この実習が終わったら,○○日までにレポートを提出」というように,レポート出したらもう次の実習の準備……。だから,悩みたくても悩む時間がないというのが実態でしたね。
 しかし,大学生はけっこう自由な時間があったり,クラブなどでいろいろな人とかかわることもしていますので,その中から「そういう考え方もあるのか」と知ることもできる。そこでおのずと思考が柔軟になると言いますか,刺激されます。逆を言えば,かえってその分手がつけられなくなってしまうことが多々ありますけれど,そういった時間的余裕は絶対大事です。
奥原 看護学校は,確かに目標が職業人の養成ですから,きちんとした技術教育をされていなければいけないし,それが「専門学校」としての役割でもあるのだと思います。一方,大学は自由裁量ですし,学士を育てる教育をしている。だからこそ,今,「考えられる学生を育てよう」という意識が高まってきているのだと思います。また,臨床現場で相対する患者さんたちの教育レベルもあがっているわけですから,そこで臨機応変に対応できる看護職も必要とされ,看護大学では彼女らを育てたいという思いも強くなってきている。そのようなことから,「考えられる学生」がクローズアップされているのかな,という気がします。
安酸 「考えながら」なおかつ「実践できる」という,両方を求めたいというところですね。

現代看護学生気質

田中 「考えながら実践」とは言うものの,実状は「考えることは考えること」,「実践は実践」と,プツッと切れていませんか。以前,自分が看護学校や短大で教えている時は,学生が何を考えて,どういう目的でその場にいるのか,という予測が立てられたのですが,最近はわからなくなってきました。「何を見てるんだろう?」「何で黙ってるんだろう?」「どうしてしゃべらないんだろう?」という「???」ばかりで,「どうしたの,何考えてるの?」と訊かなくてはいけなくなってきた。それって自分の能力のなさなのかなって(笑)。
 でも,学生に訊くと,ちゃんと考えているのですね。「いまこうだったから,待っているんです」とか,「どうしたらよいかわからないから固まってしまいました」と応えてくれます。昔は,固まらずにうまく場をつないでいく能力を,学生は持っていたように思うのですが……。
安酸 昔はもうちょっと,友だちに訊くとか,現場の看護師に訊いてみるということをしていましたよね。
田中 そうですよね。ところが今は違っています。ただ,そこで固まっている学生に,ここで叱っちゃいけないと思いながら,「どうして訊かなかったの?」と尋ねると,「いや,看護師さんが来ませんでした」という返事なのですね。だから,考えながら動くということが,今の学生には無理なのだろうかとも考えさせられてしまいます。
奥原 私も,それは実習の時にすごく感じました。その一因として,学生の生活の希薄さが絶対にあると思っています。例えば,台を拭かせるとびちょびちょなんですね。見ると,驚いたことに濡れた雑巾を絞っていない(笑)。それから,排泄の介助を一緒にしていて,「トイレットペーパーをくれる?」と言ったら,ぐるぐるといっぱいの量を渡してくれるんですね。本当に,「えっ?」と思うような体験をしてきました。
 それから,今の学生は,年上の人とコミュニケーションを取るという習慣が少ないせいでしょうね,患者さんと向かうと緊張してしまいます。加えて,知識も経験も乏しいから,固まってしまうのだろうな,というのは理解できます。ですから,実習で気をつけることは,学生が安定できるように,いかに緊張を解きほぐすかにかかっていると言えます。
安酸 考えながら実践できる学生を育てるためには,考えながら教育をできる先生が必要ですね。いろいろな学生がいますが,難しい学生もいます。そういう学生に会った時に,「今度はこういう学生か。こうきたらどうする」というように,ある意味こちらが楽しんでしまうことも1つの手段かもしれません。それも,臨床の看護職と協力しながらという態勢があればいいですね。

実習現場にて

安酸 私のとても困った例ですが,患者さんを「怖い」と思う学生がいて,一緒について実習をしたら,今度は私のことまで怖がってしまったということがありました。その時は,臨床指導者にすごくやさしい感じの方がいて,彼女にお願いして任せるようにしました。そうしたら,少し落ち着いてきたんですけれど,そういった過緊張の学生っていますよね。
田中 実習の時には,厳しいことを言って叱るけど,「私はあなたの味方」ということを宣言しないと,本当に孤立してしまう学生もいます。いろいろな学生がいるわけで,表面に出ている言葉だけをとらえてしまうことは問題ですね。
安酸 きちんと言葉で「あなたたちの味方よ」と言う必要はあるかもしれませんね。そして,学生のできているところはきちんと言葉に出して認めるようにしていくと,「この先生はわかってくれている」と感じてもらえますし,緊張する学生の場合は落ち着いたりします。
奥原 私たち教える側は,比較的できていないところは指摘するけれども,できていることは,言語化してほめませんね。
田中 確かに,「この学生はできているからいいや」という,こちらの勝手な思いから,なかなかほめ言葉は出ませんね。
奥原 そこを省略してしまうと,学生は非難ばかりされていると思ってしまう。でも,私がそのことに気づいたのは,教職に就いて何年もしてからです。自分のこれまでを振り返ると,教員自身が実践しながら,考えながらの教育が実践できなければきっとだめですね。
安酸 それに関する実例ですが,実習中の学生のことを担当教員がとてもほめていたのですね,「今回の実習でのあの学生はすごいよ」って。それで,その学生に会った時に,いい返事が来るだろうと思って「実習はどう?」と訊いたんです。そうしたら,すごく暗い顔をして「先生,私はこれ以上できません」て言うんです。「私はものすごくがんばってます。でも,もうだめです。がんばっても,がんばっても次の課題を出されるんです」と。私は,「先生はあなたのことをとってもほめてたよ」と言ったら,「そんなことはありません。やってもやっても認めてもらえないから,課題がどんどん出るんです」と言うんです。
 できるから次に期待をして課題を出すということはよくありますが,その時にきちんとほめてから次の課題を出さないと,学生には教師が認めているから次の課題を出しているということが伝わりませんね。
奥原 できる学生ほど自分を振り返る力があります。だからこそ,「この学生はできているからいいや」ではなくて,きちんとできていると感じさせないといけないんだなあと思いますね。
田中 私,最近ですが,集団面接を個人面接に変えました。学生はきっと嫌がるだろうと思ったのですけれど,「個人面接?」とか言いながらも,順番が来るのを待っているんですね。けっこう個人面接で自分を見てほしいという意識が強いんだなと思わせるところがあります。1人っ子が増え,兄弟姉妹という触れ合いがないままに,大事に育てられているということもあるのかもしれません。プライドもけっこう高いですね。自分が注目されることもやはり嬉しいようですし,個人面接も大事なんだなと思いました。

■問われる教員の資質

学生が喜びを知るために

―― 教員にも考えながら実践できる能力が必要との話がありましたが,教員の資質も問われているのだと思います。そのあたりのことに話を移したいと思います。
安酸 学生には知識の提供をしなければいけないわけですが,「考えながら」と言っても,自分にベースとしての知識がないといけないわけで,学生が求めてくることも,そういった知識ですよね。また,学生にもベースとしての知識教育は基礎教育ですし,今後の勉強のためにもやはり必要です。『ケアリング・カリキュラム-看護教育の新しいパラダイム』(安酸史子監訳,医学書院,2000年)の中に出てくるのですが,探究型になっていく前の,本当にテクニカルタームを覚える部分が,大学の基礎教育の中にはまだ必要だとされています。きちんとした知識を養うために,系統的にわかりやすい授業が求められると思いますね。基礎がないと,学生は右往左往してしまいます。
 日本では,教育方法について指導型はだめで,ケアリングならばいい,といった,どちらか一方だけに偏る傾向が多いのだけれど,従来の指導型と言われるものにも利点があるわけですから,そこを上手に使っていくことも必要だと思っています。
田中 基礎教育の中における臨床実習というのは,学生がすごく伸びる時ですが,こちらが状況を整備してやらないと,学生が臨床の流れに乗れないでいる場合があります。看護職は「学生が来たのだからあれも,これも……」とたくさん教えようとします。でも,学生はそれを吸収できないままでいることになりますので,「この学生には,この部分を伸ばすように指導をお願いします」というように介入しています。その体験を得る中から,学生は自分で学ぶ喜びを知ることができるのだと思います。

「知らない」と言える勇気

安酸 私は,力を抜くことと,臨床現場にいる人を味方につけていくという方法を考えるんです。臨床の手法はどんどん新しくなっていますので,知らないことも必ずあります。だから,教員が「知らない」と平気で言える勇気を持つことは必要ですね。言われたことは全部わかる教員ではなくて,わからない時に何を見るのか,彼らと一緒に勉強しようという姿勢を持てば,そんなに気負わないですみます。
 臨床の看護職も,「ちょっとわからないから教えて」と言えば教えてくれます。だけど,「大学の先生で何でも知っている」という態度をしていると,話をしにくいでしょうし,大学の先生から訊かれたら何と応えようかとかまえてしまう。わからないから勉強しているのであって,「わからない」ということは,これから学べるのだから大いに楽しもうではないか,というような感じで一緒にやっていく。そういった気持ちが必要。でも,あまり気負いがなさ過ぎてもいけないでしょうけれど(笑)。
奥原 授業のスタンスというのが,学生や現場にも伝わるし,それが大学教育のあり方と言えるのかもしれないですね。
田中 教員がわからないことって,意外と看護職もわかってなかったりすることがありますので,現場の活性化につながるのかもしれませんね。
奥原 学生の素朴な疑問に,教員もわからない,臨床の看護職にもわからないという時に,「それはいい疑問だね」と話すことができれば,学生にとってもよい刺激になると思います。ただ,それをどのように活用していけるかは,教員の力量になるのでしょうけれど。
安酸 わからないことを「わからない」と言えるというのは,ものすごい力なんですよね。本当にわからない人は,わからないということがわからないから,絶対に質問できないでしょう? いつも「質問できるってすごいね」って認めるんだけど(笑)。

患者情報をいかに入手するか

田中 実習の時に,上手に患者さんとコミュニケーションがとれない学生がいると,その場にさりげなく入っていってモデル的な役割をとったりしています。後で,「あの時,話し出すきったけが見つからずに困ってそうだったから,話しかけてみたけど,参考になった?」と訊くと,「あ,そうだったんですか」って言われて(笑)。もう,ガクッとくることがあるんですよね。そういう意味で,学生のコミュニケーションのとり方に,ちょっと不安を感じています。
安酸 モデルになるって,すごく難しいですね。私が東女医大成人病センターで実習をしていた時に,ある担当看護師は,患者さんとの雑談の中から上手に食事の情報などをとっていました。それをモデルにしてほしくて,その看護師と患者さんとのかかわりを学生に見せるようにしたのですが,あまりに自然な会話は学生にとってはモデルにならなかったんです。それで私は実習の仕方を変えました。まず朝の調整で,看護師がチームリーダーに「この患者さんは家ではどのような食事をされていたのかを,情報として聞きます」だとか,1つひとつのケアを行なう時でも「機会があれば食事に関する情報をとります」というように調整しているのを聞かせました。その上で,その看護師と患者さんとのかかわりの場面を見せました。その後,看護師から学生に,会話の中で自分はどういうことをキャッチしたのかについて話をしてもらいました。そうすると学生はとてもびっくりするんです。「ただの雑談と思っていたけど,意図があって情報をキャッチし,それで計画を立てるなんて,看護師さんてすごい!」と言ってくる。あまりにも上手にというか,当たり前のように行なっていると,学生にはその意図が見えないのですね。看護職は,さりげなく意図的な会話をしているのですが,そのことを学生には言語化しないと伝わりにくいですね。

学生に経験をさせる難しさ

奥原 私にも同じような経験があります。後になって気づいたのですけれど,私自身がモデルを示すために,患者さんと一生懸命に話をしてしまって,学生への配慮に欠けていたかなと。その学生を巻き込むことをしていなかったですね。ですから,学生にとってみれば,「自分は疎外された」という感じで,「先生はできるけれど,自分はできない」という経験をさせてしまったかなと,反省です。
安酸 逆に教員がいいとこ取りをしたという思いですよね。
田中 それは学生から言われたことがありますよ。「私の患者さんなのに」って(笑)。
奥原 教員としてモデルをするということと,場面の中でどう学生を中心に据えて巻き込んでいくかというかかわりが大事だと思います。今の学生は,自分に関心を持ってほしいという一方で,自分は未熟だと自己嫌悪する学生もいたりで,加えてプライドが高いということもありますし,そのあたりを配慮する必要がありそうですね。
安酸 自分から訴えてくれる学生ならばよいのですが,困っているようだけど言ってこない学生を見極めるのも難しいですね。こちらが推測しながら言葉をかけるのだけど,なかなかピタッと当たらない。
奥原 その見極めも教員の能力なのでしょうね。私は,看護というのは,患者さんの体験世界にどのくらい入り込めるのか,生理学的な痛みも含め,生活する上での不便さに対して,どのような思いを持って入っていけるかが重要なのだと思っているのですけれど,それを教育の場で学生に経験をさせたいですね。
安酸 教員は,患者さんの体験と学生の体験,この2つが見えていないといけないのではないでしょうか。これは一概には言えないのかもしれませんが,私が修士課程にいた時に,看護教員による学生指導レポートを分析したことがあります。その結果ですが,教育学部を出た教員は学生の体験世界に入っていきやすいという傾向が見られました。だけど,患者さんは横に置かれる。本来の「看護」がちょっと抜けて,学生への教育が優先されてしまう。そうすると,「患者さんがかわいそう」みたいになっちゃいますよね。反対に,教育学部出身ではない教員は「看護」が強い。でも,患者さんのことは思っているけれど,今度は学生が疎外される。だから学生は,患者さんの前で怒られたり,それは多分よかれと思ってしているのでしょうけれど,患者さんの前で顔をつぶされてしまったのでは,つらいだろうなと思いますよね。そういう面をけっこう見てきましたので,両方のバランスがとれていないと,看護教育は難しいと思います。

■基礎教育が抱える問題

日米の基礎教育のあり方の違い

安酸 アメリカの看護教育を見てきましたが,日本とは実習の位置づけが違いますね。期間も長いのですが,講義・演習・実習が緊密に連携しています。それから,クラスの単位が小さいですね。1クラスに30人もいないくらいでした。
奥原 私はアメリカのことはよくわからないのですけれど,4年間という基本的な時間は同じですよね。だとすると,カリキュラムの内容が問題なのでしょうか。
田中 確かに日本の基礎教育には,重複する部分がありますね。小児看護で習ったことが母性看護にもあって,さらに基礎看護でも同じことを習うということが多々あります。また,講義と実習の間に1年以上の間が空けば,もう1度復習せざるを得ませんものね。
奥原 現実的な話ですけれど,実習をしていて,非常に基本的な生活援助技術を体験しないまま卒業している学生がいることが,だんだんわかってきたんですよ。足浴や陰部洗浄を1回もやったことがない学生がいる。これは問題だと思うのですが。
田中 だから,今病院では,看護学校の実習でどのような経験をしてきたか,その教育レベルを調べるためにチェックリストを使っているところが多くなってきました。
奥原 それは必要でしょうね。
安酸 どこかでは必要だと思いますね。

学生が自主的に学べるための環境

―― そのあたりの技術教育というのは,大学の中では無理なのでしょうか。
田中 いや,セレクトさえすれば無理ではないと思います。
安酸 なんでもかんでもやろうと思うと無理なんだけれども。例えば,1つでいいから「これは誰にも負けない」という技術を身につけていったらいいんじゃない,と学生に言っています。技術は,ビデオもありますし,繰り返し学内で行なうこともできる。それは,洗髪とか食事介助でもかまいません。「誰にも負けない」というものを身につけると,実際の現場に自信を持って臨めると言っています。
田中 1つの技術を完璧にすることで,いろいろなバリエーションに対応できるようになれるのかもしれない,と思う時があります。
安酸 「身につけたい」と思わせることが,私たちの姿勢です。学生が自主的に学べるようにビデオなどが利用できる環境を整えて,学生がどんどんスキルフルになるような訓練をする。上手になるためには,繰り返すことが必要です。
奥原 それをしていく中で,どういう点を工夫しているのか,そのためには何を調べたらよいのか,ということに発展していくことで,次のことにつながるということですよね。
 私が学生だった時の実習で1つだけよく覚えているのは,糖尿病の患者さんの看護計画を立てた時のことです。レポートを出したら,そこの看護師さんが,「奥原さん,よく調べてあるけれど,この文献はずいぶん古いわね」って(笑)。
安酸 学生が,ある先生の使っているビデオはすごく古いもので,昭和30-40年代のものじゃないのかってクレームをつけたと,怒っていたことがあります(笑)。基礎看護の実習などでは,現実的に今の病院では絶対に使わないもの,例えばシーツ交換にしても,ほとんど全部が外注化されていますし,ナースが行なうにしてもBOX型だったりで,四角い大きな布でやっているところは稀少です。だから学生が,「本当にこれ,使うんですか」という疑問を投げかけてくるようなことがたくさんあります。臨床の現場では実際に使われていないし,学生も手にしたことがないような水銀体温計を教育の現場では使っていたりと,教育と臨床のギャップというのは,確かにありますね。それは,逆の場合もあるのかもしれませんけれど。

社会人入学生の影響

―― さて,話は尽きないのですが,そろそろまとめに入りたいと思います。最後につけ加えることがございましたら,お願いいたします。
奥原 話が前に戻りますが,現代若者像について。今の学生にとって,自分で何かを学んでいくことはとても難しいのだ,という話を聞きました。それをどう学ばせるのかなのですが,今の若者は本当に勉強しないから,現実的にそれが可能かなと,矛盾した考えがあります。
安酸 今,社会人入学が増えてきましたが,彼女らはすごく勉強していますね。それは教える側の教員のほうも刺激を受けます。一方で,彼女らのほうが臨床の現場をよく知っているために,教えにくいという話も聞きます。
 社会人からの質問は,ストレートできている学生とはちょっと違うんですよね。すごく挑戦的な質問がきたりするわけで,それはそれでこちらも楽しいし,それに応えたりします。「先生はそう言うけれど,私はそうは思わない」なんて言われると,またうれしくなってね(笑)。そういったことも,他の学生には刺激となっていると思いますね。
―― そういう楽しみ方があると,教員にもまた刺激になるかもしれませんね。学生指導をきちんとできる教員が必要とされている,という話でもあると思います。
安酸 社会人学生の場合は,自信があるというか,何かを超えた人でもあり,そのような余裕が出せるのではないかと思います。ですから同じように,教員もダイナミックな経験をすればそれなりの資質が備わるのではないでしょうか。自分なりの表現方法を知っている教員だと,けっこう学生との間でも,攻撃を攻撃と受け取らないですむというのはあると思いますね。
田中 知的対決,知的協力,そういうものが,しかも学生との間でできるというのはおもしろいですね。
―― 冒頭にも申しましたが,文部科学省の「看護学教育のあり方に関する検討会」報告書が3月に出されました。また,時を同じくして,厚生労働省の「医道審議会保健師助産師看護師分科会・保健師助産師看護師国家試験制度改善部会」が「国家試験の改善について」の報告書をまとめました。これらを見るにつけ,看護大学の教育のあり方は見直しが迫られ,教員の質の向上も問われることは必至と言えると思います。今回は,教員の質の向上をどう図るのかについては言及をしませんでしたが,今後の本紙の課題としても取りあげていきたいと考えています。今日は,どうもありがとうございました。