医学界新聞

 

Vol.16 No.10 for Students & Residents

医学生・研修医版 2001. Nov

「すべて自分で決めてきた!!」

――医師として,人として,
「後悔しない生き方」のヒントは何か

【インタビュー】木村健氏(アイオワ大)に聞く


 木村健氏(アイオワ大)は,「外科医になって一度も後悔したことはない」と言う。50歳を目前に渡米した木村氏は,「遊離腸管アイオワモデル」他,全米で広く実施される手術を開発した著名な外科医である。その成果はアメリカの小児外科の教科書に収載されており,また本紙第2456-57号で,黒川清東海大学医学部長との連続対談「日米の現況から進むべき医療の道を探る」で医師のあるべき姿を語っていただいた。
 そこで本号では,アメリカで外科医として成功され,現在に至るまで,どのようなストーリーがあったのか。医学生・研修医時代のエピソードから外科の魅力,日米の医学生・研修医の違いなど,医師として,人として,「後悔しない生き方」のヒントを伺った。


「外科医になって後悔したことはない」

――なぜ医師を,さらには外科医を志したのですか。また,アメリカで外科医をやる,と決断した時のことを教えてください。
木村 子どもの頃,いたずら坊主だった私は,小学校3年生の時に,膝に怪我をして,医師に縫ってもらったことがありました。子ども心に「傷は,ちゃんと縫えば治るんだ」と思ったのが,外科医をめざした原点です。初めから医師というより,外科医になりたいと決めたのがユニークといえばそうでしょう。
 私は,両親を10歳で亡くし,親戚を転々として育ちましたが,小学校3年の時に抱いた「外科医になろう」という思いは変わらず,医学部に入学しました。誰にも「医師になれ」とは言われなかったし,そのために「勉強しろ」と言われたこともありません。幼い頃からすべてをセルフコミットメント(自己責任)で決めてきました。自分の将来は,すべて自分で決断してきました。それで,外科医になって後悔したことは一度もありませんから,おめでたい人生ですね(笑)。
 小児外科医になったといっても,初めから「小児外科」をめざしたわけではありません。当初は,当時流行のアメリカのテレビドラマ「ベン・ケーシー」を観て,主人公の脳外科医に憧れましたが,私の学んだ神戸大学(当時は県立神戸医科大学)には,脳外科の教室がありませんでした。そこで,心臓胸部外科教室に入り,何度か赤ちゃんの手術を経験して,小児外科に関心を持つようになりました。ちょうどその頃は小児外科の黎明期で,時代に迎合したところもあります。

渡米――人生の第2幕

木村 渡米を決めたのは,48歳(1972年)の時です。私は,日本の小児外科学会に所属し,日本で活動の場もあり,公務員でもありましたので,当時「将来の心配は何もない」という状態でした。
 「このままでいいじゃないか」と思う気持ちがありましたが,ある日「ちょっと待てよ」と思ったわけです。人生は一度しかない。しかし,1度しかないこの一生も,使いようによっては,二生にも,三生にも使えるんじゃないかと。
 その頃,ニューヨークにできた新しい小児病院が世界中からスタッフをリクルートしていました。そこから声がかかり,話が決まったのです。
 実はアメリカへ移ったことを,多少後悔したことはあります。日本から見るとニューヨークでは,金権医療が日常的で,お金にならない医療はしないというのには違和感がありました。また,アメリカは個人プレーの国です。それまで私は,日本式のチームプレーに慣れていましたので,新しいルールに接して,当惑することばかりでした。
 ですが,一方から考えれば,それはチャンスでもあるのです。アメリカには,いくらでもチャンスが転がっています。
 アメリカの団体の規則がよくできている点は,すべてに例外規則が作ってあることです。
 私は,ヘッドハンティングで,アメリカへ渡ったわけですが,当然,ライセンス(アメリカ医師免許)もボード(専門医資格)も持っていませんでした。しかし,州のライセンス委員会は,私の経歴を見て,すぐにライセンスを発行してくれましたし,アメリカの小児外科学会は,一時的に会則を変えて,私を会員にしてくれました。
 アメリカは,実力本位で,そういう例外が通るような国なのです。


【ヒント(1)】医学・医療の魅力を感じる

毎晩,糸結び2000回

――先生はどのような医学生・研修医時代を過ごされたのでしょうか。
木村 学部時代は,勉強をしない,とてもいい加減な学生でしたね。県立大学で,奨学金をもらっていましたが,自活しなければなりませんでした。そのため家庭教師のアルバイトを週に4日やっていました。卒業するまでに,20人は教えました。クラブ活動などに割く時間はありませんでしたが,本はたくさん読んでいました。
 インターン時代には,毎晩,布の端に縫い付けた糸を,2000回繰り返し結びました。1か月続けると,6万回結ぶことになります。そうするともう手が結び方を忘れません。完全に職人の世界です。
 今までに「あの時,手が十分に速く動かなかったら,あの方は亡くなっていただろう」という患者さんが何人かいます。外科医の手は大事な道具の1つですから,普段から鍛えておかなければいけません。
 私は渡米した後,ニューヨークからアイオワ大学へ移りました。その時,転職先のアイオワ大学の教授がニューヨークに問合せたことはただ1つ,「ケンは手術ができるか」ということだけです。外科医は手術ができるかどうか,これがすべてです。
 自分の手を使ってやるということが,外科の最大の魅力でもあります。外科治療の展開では,秒・分単位で何を選択するか,ジャッジメントを常に自分自身でしなければなりません。手術には前もって青写真があるわけでもなく,誰かが後ろに立って教えてくれるわけでもありません。自分で判断し,自分で前へ進むのです。常に「自分が仕事をしている」という実感があります。
 もう1つの外科の魅力として,術式を生み出すことがあります。自分のデザインした新しい術式が,世界中の人に使われ,多くの生命を救い,次世代へと伝わっていくのを想像するのは,それだけでも楽しいことです。

飛行機の翼を見た時,「閃いた!」

木村 新しい術式を生み出すのに大切な要素は「イマジネーション」です。うまくいかない手術を体験すると,「これはなんとかしよう」というモチベーションが湧いてきます。考え始めたら,夜も昼もなく,ずっと考え続けます。するとある日,新しいアイデアをパッと思いつくことがあるのです。
 例えば,「アイオワモデル延腸術」という,今では世界の外科医が使っている術式です。これは腸間膜の血行を外し,なおかつ腸が壊死にならない手術方法を考えていた時,香港の空港の待合室で飛行機の翼が偶然目に入りました。翼の下にはエンジンがぶら下がっていて,その下には何もありませんが,翼の中のパイプを通って燃料が供給されているわけです。このデザインを見て,腸間膜についている腸を腹壁に縫い付けることを思いつきました。実験してみると,2か月後に腸間膜を切っても,腸は壊死になりませんでした。腹壁からの側副血行ができていたのです。
 そこに至るまで,2年くらい毎日そのことを考えていましたが,あの時,飛行機の翼を見なかったらこのアイデアは思いつかなかったかもしれません。外科医にはアーティストのような側面があります。実際,「あなたのやっていることはクリスチャン・ディオールかピエール・カルダンの仕事に似ている」と言われたことがあります。
 ただし,「外科の魅力」,これは手術をする側の話であって,される側の人は命を預けているのですから,感じ方の乖離があることを忘れてはいけません。もちろん外科医も人間ですから,興味の湧かないことは追究できませんので,初めは関心のあるなしで外科医を志してもよいと思います。しかし,チーフとして手術をするようになったら,それではいけません。
 私の外科医としてのポリシーは,「臆病」ということです。先走りも,スタンドプレーもいけませんし,自惚れも駄目です。「安全」を第1に患者さんの病気を治すことに専念すべきです。


【ヒント(2)】「人の営み」を知る

「人の営み」を知り,「思い」を語れ-“縦書きの本”のススメ

木村 患者さんと接する時,私がいつも思うことは,医者としてというよりも,人間として,いろいろな「人の営み」を知っていなければならないということです。
 「貧しい人の営み」「金持ちの営み」「教育のある人の営み」「教育のない人の営み」と,いろいろな営みを知った上で,対処しなければいけないと思います。例えば,手術を恐がる患者さんがいますが,そういう場合には,その人にわかる言葉できちんと説明し,手術は命を永らえさせるものだということを納得してもらわなければいけません。「手術しなきゃ駄目ですよ」と言ってしまったら,患者さんとの間に大きな溝を作ってしまうことになります。
 しかし,いろいろな営みをすべて自分で経験することはできません。その穴を埋めるために,私はいわゆる“縦書きの本”を勧めています。“縦書きの本”には,いろいろな人間のさまざまな営みが書いてあります。それを読んで,「こういう生き方もある」「こういう人生もある」ということを知って,それを自分の糧にするのです。
 “縦書きの本”を勧めるのには,もう1つ理由があります。
 私は,神戸での医学生時代にはESSのキャプテンをしていたくらいですから,言葉で不自由はしませんでした。しかし,外国で医療を学ぼうと思ったら,英語に限らず,その国の言葉でちゃんと話ができることが必須です。そのためには,まず自分の伝えたいことを母国語できちんと表現できなくてはなりません。日本から来る若者に,「こういうことを英語で言ってごらん」と言うと,パッと英語で答えますが,「君の考えをまとめて英語で言ってごらん」と訊くと,なかなか言えないのです。文法はできても「思い」がないからでしょうね。
 ですから,アメリカで勉強しようと思ったら,まず自分の「思い」を持つことと,それを語る語学力を身につけること。そのためにも,やはり“縦書きの本”を勧めます。

ストリートノリッジを身につける

木村 日米の医学生には,大いに違いがありますね。それは,どちらがよい,悪いということではありません。医療者は,「ストリートノリッジ(street knowledge)」を持っていなければいけないからです。ストリートノリッジとは,皮膚感覚を通じて入ってきた知識,常識のようなものです。
 日本人同士だと,初めて会った時,「よろしくお願いします」と言ってお互いの心を和らげ会話をはじめます。これは日本のストリートノリッジで,アメリカ人の同僚とはそうはいかない。どうコンタクトを取ればよいかわからないのです。本当は普通にしていればよいのですが,対人関係を考えて,あれこれ工夫したりします。私もそういうことで困りました。しかし,その時には自分がなぜ困っているのかすらわかりません。わからないけれど違和感がある。自分がどこにいるのか,相手が自分をどう評価しているかもわかりません。
 アメリカでは,患者さんが来て「よろしい,僕が手術をしましょう」と言ってコンタクトが始まりますが,日本では「うちの科のチーム全体でやりますから任せてください」というようなことを言います。アメリカでそのように患者さんに言うと,変な顔をされます。これはストリートノリッジの違い,バックグラウンドの違いです。


【ヒント(3)】人の1.5倍努力する

アウェイで勝つには1.5倍の努力

木村 このように,異なったストリートノリッジを持った人同士が,例えば1つのレジデントのポジションを争うとすると,必ずホームグラウンド・アドバンテージがあります。ですから,日本の学生がアメリカへ行って,アメリカの学生の取るべきポジションを取ろうと思ったら,アメリカの学生の1.5倍の努力,1.5倍の労働時間と,何もかも1.5倍やることを勧めます。日本のカルチャーでは,みんなと同じでないと駄目ですが,アメリカでは,生存するためにみんなと同じでは駄目なのです。
 その上,アメリカの医学部は4年制の大学を卒業した後で入学する大学院大学ですから,学生にはすでに社会人の意識があります。大学を出てから何年か働いた後に医学部に来る者も,結婚して子育てを終えて医学部に入り直す者もいます。すでに,社会人として成熟しているのです。
 一方,日本の医学生は,高校からストレートに医学部に入学して,6年で卒業するでしょう。そのため,アメリカでレジデントになる際,面接試験を受ける時,試験官はいろいろな「営み」について質問をしますが,日本からの受験生はそれをまだ知りませんから,子どもっぽく見られてしまいます。
 医師になる人間には,他人の悩みの解決を手助けする能力も必要です。自分の悩みも解決できない人には,他人の悩みは解決できませんし,人の悩みを解決しようとしたら,さまざまな営みを知らなければいけません。そういう面でも医学に限らず広範な勉強が必要とされます。


【ヒント(4)】自分の仕事に誇りを持つ

医師としての誇りを持って

――最後に,日本の医学生・研修医にメッセージをいただけますか。
木村 日本の研修医は非常に虐げられていますね。アメリカでは,1人のレジデントを育てるのに,政府は1人につき1年に10万ドルを支出しています。10万ドルというと1200万円ですよ。そのうち約4万ドルがレジデントの年俸です。レジデントはどこか他所で生活のためにアルバイトをする必要はありません。インハウスのオンコールは3日に1度,週に1日は完全にオフです。院内には,栄養のある食事やシャワーなど,「人の営み」ができる環境が用意されています。一方,日本では,待遇にしても労働環境にしても劣悪です。
 あまりに給料が安いと研修医たちは「自分には価値がない」と思ってしまうかもしれません。しかし本当は,彼らは6年間で大量の医学知識を学び,今から生涯にわたって人の生命を助けようかという人たちです。誇りを持ってよいのです。医師としての誇りは絶対に失ってはいけない。
 医学生や研修医に,自分の仕事に対する誇りを持たせる環境,これが今の日本に欠けているものだと思います。医師は,自分が医師であることだけで満足してしまってはいけません。医師である以上,苦しかろうと,辛かろうと,医療に献身する義務を帯びています。ですから,これを「ノブレス・オブリジ(noblesse oblige,高い身分に伴う道義上の義務)」と呼んでいます。
 しかし,「ノブレス・オブリジ」を維持するためには,自分自身の「人の営み」を確立していなければできません。片方でアルバイトをして生計をたてながら,人様の命は預かれませんから。
 これからは,私がアメリカの大学教授として経験し学んだことを皆さんに伝え,お役に立ちたいと願っています。その最たるものは,日本の研修医に経済面も含めた「人の営み」を保障する環境を用意するよう働きかけることだと思っています。
 実は,私はこの11月でアイオワ大学を退職して名誉教授となりました。今後は,日本での講演活動や執筆活動に力を入れるつもりです。私の人生は,これから第3幕に入ろうとしているところです。(了)

木村 健氏
1937年生まれ。63年神戸大医学部卒。70年兵庫県立こども病院勤務。72-73年ボストンフローティング病院小児外科チーフレジデント,74年兵庫県立こども病院小児外科部長。86年NYシュナイダー小児病院からのリクルートを受け,渡米。87年アイオワ大外科へ移籍。90年同大小児外科教授,92年より小児外科主任教授として現在に至り,本年11月より同大名誉教授。小児外科医として十二指腸ダイヤモンド吻合術など,5つの手術術式を開発し,世界的に知られる。著書に『アメリカで医者をするにはわけがある』(草思社)など多数。