医学界新聞

 

〔連載〕How to make <看護版>

クリニカル・エビデンス

-その仮説をいかに証明するか?-

浦島充佳(東京慈恵会医科大学 薬物治療学研究室)


2447号よりつづく

〔第4回〕ベスト・トリアージで被災者を救え(2)

 前号では,阪神淡路大震災を中心に「トリアージ」の重要性を述べました。今回は,前回で前置きだけを書きました「チェルノブイリ原発事故」を改めて報告するとともに,海外からの学びについて触れたいと思います。

チェルノブイリ原発事故にみるトリアージ

 1986年4月26日に起きたチェルノブイリ原子力発電所での事故は,システム上の問題と馴れていない技術者の誤操作が原因でした。あっという間の出来事でしたが,トリアージに関しては学ぶべき点が多々ありました。
 施設内医務室に待機していた3人の技官は事故直後より活動し,29人を30分以内に入院させています。事故発生から37分後の2時に,医療チームを含む救援隊が到着しました。そして医療施設に転送する前に施設内で被曝者の服を脱がせ石鹸を用いてシャワーを浴びさせています。これは衣服や皮膚についた放射性物質を除去し,本人だけでなく入院先での医療スタッフへの暴露を減らすために行なわなくてはならない重要な行為です。6時40分モスクワから医療チームの第1陣が,昼には第2陣が到着しています。12時間でおよそ130人の被曝者が地域病院に送られました。
 初期医療で最も問題となったのは熱傷でした。反応塔のそばで仕事をしていた2人は熱傷によるショック状態で,そのうち1人は5時間後に死亡しています。熱傷がない場合には被曝です。造血機能を含め,しばらくしてから臓器不全を呈してくる点がクラッシュ症候群に似ています。
 トリアージを行なったソビエトの医師は,嘔気・嘔吐のない者は帰宅,無痛性遅発性紅斑,粘膜炎,下痢,発熱を呈したものは被曝が強かったものと考え,モスクワの病院に転送しています。判断がその時点で十分つかなかった患者に対して2-3時間ごとに血液検査を施行し,好中球とリンパ球数の低下に着目しています。結局350人を急性放射線症候群と診断し,そのうち203人をモスクワかキエフの後方病院に送っています。モスクワでは骨髄移植ができるため,重症例は優先的にモスクワへ移送されました(表参照)。
 入院した203人の被害者のうち軽症と判断された被曝者において死亡はゼロで,中等症と判断された被曝者における死亡はわずか1例であり,多くは初期より重症・最重症と診断されています。キエフで死亡したのは最重症の2例だけで,ほとんどの被曝者はモスクワの病院で骨髄移植を含む最善の医療を受けて死亡したことになります。モスクワで死亡した最重症の20例は熱傷がひどく,それ自体が死亡の原因となり得る状態でした。
 60日以内に4.5グレイの放射能を浴びると半数の人が死亡すると言われていますが(通常の骨髄移植では12グレイを3日6回に分割して照射する),チェルノブイリでは35人以上が5グレイ以上被曝したと推測され,この35人のうち13人が骨髄移植を受け6人が胎児肝細胞移植を受けました。移植例を含む29人が3か月以内に亡くなっています(移植後生存は2人だけで,いずれも自己造血再生による)。
 驚いたことに,この犠牲者転送をトリアージしたのはたった1人の医師でした。さらに各施設で責任を持って指揮した医師も1人でした。もちろん医学的判断が適切である必要はありますが,各施設1人の医師に全権を委任したことが,かえって混乱を招くことなくスムーズな患者移送につながったとも考えられます。しかし,何より日ごろの準備と訓練が重要なのは言うまでもないでしょう。

表 チェルノブイリでの被曝者の移送先
重症度キエフモスクワ死亡数放射線被曝量(Gy)
軽症
中等症
重症
最重症
74
10
2
2
31
43
21
20
0
1
7
21
1-2
2-4
4-6
6-16
合計8811529 

飛行機事故-日頃の訓練の賜物

 1989年7月19日,その日は快晴でした。ユナイテッド航空232便の機長であるアルフレッド・ハイネス(59歳)は,33年の経験を持つベテランです。DC10型機は,他の機種と何ら変わらず287人の乗客を運んでシカゴに向けて出発しました。しかし15時16分,アイオワ州アルタ上空で第2エンジンが故障してしまったのです。乗客もエンジンが爆発した音を後方で聞いています。その直後より飛行機は大きく揺れ,同時にどんどん下降していくのがわかりました。スチュワーデスを含む誰もがパニックに陥り,機内は騒然となったのです。しかしそんな時,コックピットより落ち着いた機長のアナウンスが入りました。
 「本機の第2エンジンが故障しました。シカゴ到着が少し遅れそうです。両翼のエンジンが安定しているので心配するには及びません」。これを聞いて乗客は再び本を読み始めました。これとは対照的に,実はコックピットはパニック状態でした。
機長:「水圧機が完全にいかれた。舵(カジ)が効かない。おそらく着陸時にタイヤも出ないと思う」
管制塔:「240マイル先のアイオワ州デバク空港に緊急着陸願います,どうぞ!」
機長:「そんな遠くは無理だ。一番近いところは?」
管制塔:「方向転回して西7マイル先のシオックス空港に着陸できますか。ここなら滑走路が3キロあり,逆噴射しなくても何とかなるかもしれません」
 一部の乗客は,左右エンジンの音を上げたり下げたりしながら飛行機が西に向けて大きく旋回するのを見逃しませんでした。手漕ぎボートをオールで方向転回するようなものです。機体はヨッパライのように揺れています。ハイネス機長は管制塔に
 「右旋回しかできない。空港までたどりつけるだろうか?」と聞いています。シオックス空港管制塔からは
 「緊急避難体制を敷いている。オーバーランやクラッシュ(墜落)に備えて警察と消防・救急隊に要請したところだ。ハイウェイ20号も滑走できるように準備を進めている。何とかがんばってくれ・」。
 シオックス空港は,「飛行機が着陸時クラッシュし,150人の生存者がいる」という設定で,最近2年間実地練習を行なってきていました。まさに練習の成果が実を結ぶ時が来たのです。232便のDC10型機が視界に入る前から救急隊,地域病院のスタッフ,警察,消防隊という,日頃から訓練をしている災害医療チームが猛ダッシュで空港に向かいました。232便はいよいよ操縦が難しくなり,右にぐるぐると旋回しながらどんどん高度を下げて行きます。
 「私たちはシオックス空港に緊急着陸します。相当揺れると思います」と機長は再度アナウンスをしました。乗客は緊急時用ポジションをとらされました。すなわち頭を下げ,手で足首をしっかりとつかむ姿勢です。乗客はみな各々の思いを胸に,じっとこらえ念じている様子でした。
機長:「何とか空港に届きそうだ。しかし,まっすぐ滑走することはできない。このままいくと滑走路を逸れて北西の方向に突入するかもしれない」
 15時53分着陸直前,操縦室から乗客へマイクを通して「ガンバレ!」という言葉が3回続けざまに発せられました。機体は滑走路で2回バウンドしてから滑走路に不時着し,その際,右翼がへこみ機体は左のとうもろこし畑に突入してやっと止まりました。機体は3つ以上に寸断され,一部はもろくも回転して遠くまで飛んでいきました。機内もぐるぐると回転し煙につつまれ,やがて停止しました。
 この時,すでに35台の救急車が到着しており,直ちに救命隊が乗客を助け出しました。九死に一生を得た人々は壊れた機体から射し込む日差しと外に出た時のトウモロコシ畑の緑がさぞまぶしかったことでしょう。コックピットもはずれてしまいましたが,3人の機長クルーも無事でした。
 結局110人が最期を遂げることにはなりましたが,残りの186名が助かったのです。状況からすると奇跡的という言葉がふさわしいでしょう。クラッシュ数分後には最初の重傷者が病院に到着していました。もちろん,病院スタッフはすでに倍増した人員態勢で重傷者の到着を待っていたのです。このドラマのような準備周到さはまさに普段の訓練の賜物でした。もしも訓練を行なっていなければ,犠牲者の数も当然違っていたことでしょう。
 トリアージの技術は,ナイチンゲールがクリミア戦争に参加した時に遡るかもしれません。しかし,日本の看護あるいは医学教育で災害医療に関してどの程度時間をとって教えているのでしょうか? 私たちは過去のクリニカル・エビデンスに学び,将来の犠牲者を1人でも減らす備えをしなくてはなりません。