医学界新聞

 

NURSING LIBRARY 看護関連 書籍・雑誌紹介


開かれたパンドラの箱――看護婦は感情労働者である

<シリーズ ケアを開く>
感情と看護
人とのかかわりを職業とすることの意味
 武井麻子 著

《書 評》石川 准(静岡県立大教授・社会学)

 看護婦は酷使されている。そのことを,劣悪な労働条件から説明するのではなく,「感情」という「看護のなかでもこれまでもっとも光の当てられてこなかった領域」を切り口に,豊富な事例・引用に基づいて分析を試みる本書は,画期的な取り組みであると同時に,なぜこれまでそのような論考がなかったのかという疑念をも誘発する。
 実はそのような看護をめぐる言説空間のありようこそが,何かを物語ってはいないだろうか。そのことを明らかにするには,看護労働と,「感情労働」という感情社会学によって提出された概念との関係を考える必要がある。

感情労働とは何か

 感情労働とは,「公的に観察可能な表情と身体的表現を作るために行なう感情の管理という意味」(ホックシールド『管理される心』2000: 7)である。この意味で,看護労働が感情労働であることは自明であるが,本書の触発的なところは,単純に感情労働としての看護労働の分析にとどまるのではなく,むしろ他の感情労働との差異を語るための端緒を開く役割を果たしている点にあると,私は思う。
 感情社会学において,特にその嚆矢であるホックシールドが,フライト・アテンダントのような接客業に焦点を当てたのは,ジェンダーと労働という関心からであった。
 感情社会学は,女性というジェンダーに感情労働を強いている感情政治のありようを批判し,またそこから導出された表層演技,あるいは深層演技といった概念によって達成される感情の脱自然化は,フライト・アテンダントの実存的苦悩を緩和するものとして機能した。なぜなら感情労働という考え方は,演技によって表示される「偽りの自己」と,それをコントロールする「本当の自己」という切り分けを可能にしたうえで,そのような切り分けは,フライト・アテンダントの感情管理能力,つまりは職能の高さとして誇ってよいのだと述べたからだ。

「感情消去」が看護婦を守る

 「玄人はだし」の趣味を持ったり,職場とはまるで別人格の私生活を送ったりというように,そのような切り分けをしている看護婦は多いとも,本書には記述されている。しかし,そうした「割り切り」が看護労働でも有効なのであろうか。
 表層演技や深層演技では,「自分は本物の『良い看護婦』ではない,患者に不誠実な『悪い看護婦』」(51頁)という自責の念が生じやすく,そのような気持ちを避けるためには,「演じているという意識そのものをなくしてしまうしかありません」(同頁)と著者は述べる。つまり「割り切り」ではなく,ある種の感情消去こそが看護労働の職能の高さを保証すると同時に,極度の「共感疲労」や自己への幻滅感によってバーンアウトすることからかろうじて看護婦を守っている。
 このような事情が,看護をめぐる言説空間で,感情,特にネガティヴな感情について語ることをタブーにしてきたのであり――なぜならそれは感情消去していることを再想起させてしまうからだ――,同様に感情社会学的言説も,フライト・アテンダントを励ますことはできても,看護婦に対してはいっそう複雑で困難な状況をもたらしてしまう。

アンビバレントな要求に引き裂かれる看護婦

 看護という労働において職業人としての自己とプライベートな自己を区別するのが著しく困難なのは,それが死や病や痛みという人の根元的な苦悩と至近距離で向き合う仕事だからである。そもそも看護が目的とする「ケア」は,患者との全人格的なかかわりを要求する。他者への自己のかかわり方の深さや浅さは自分が抱いている感情の質や強さによって自覚される。
 だがその一方で,看護婦は,特定の患者に感情移入してはならないこと,冷静沈着であることもたたき込まれる。個々の患者の苦悩に同情しすぎたり,罪悪感や無力感を感じたり動揺したりして,医療という戦場から戦線離脱してはならないのだ。
 それぞれ十分適切に同調することは困難であると同時に,両立させることはさらに至難の業であるような2つの感情規則は,看護婦を追い詰め,それは時に「共感疲労」や「援助職症候群」といった病理的な状態にまで陥れる。

「負の能力」という希望

 そうした背景を考えた時,本書に紹介されている,看護婦たちが自分の感情を語り「本当の自分」を取り戻そうとする取り組みは,貴重である。しかしながら著者も述べるように,「看護婦みずからによる自分たちの本当の姿を受け入れる努力」だけでは問題は解決しない。看護社会学者のジェームズは「ケア=組織+肉体労働+感情労働」(258頁)と定義しているが,当然のことながら,看護労働を必要とする医療という制度や病院という組織のあり方を再構築していく必要があるし,それによって,看護労働における感情政治は緩和されることもあろう。
 だがそれでも,われわれの社会が看護を担う人々に,他者への「本当の思いやり」を要請し続ける限り,看護婦の苦悩はなくならないようにも思える。そして,おそらくわれわれの社会,否,われわれは,どれほど看護婦たちの苦悩を聞かされても,この要請を控えることはできないだろう。だからこそ「何かができる能力ではなく,何もできない無力感や空しさに耐える能力」である「負の能力negative capability」こそが,「希望とつながっている」(264頁)と著者は述べるのである。
A5・頁280 定価(本体2,400円+税)医学書院


「臨床の知」の獲得に焦点化した臨床実習を

学生とともに創る
臨床実習指導ワークブック 第2版

藤岡完治,安酸史子,村島さい子,中津川順子 著

《書 評》筒井真優美(日本赤十字看護大学教授・看護学)

 クライエントの在院日数の短縮,重症化,高齢化,疾病構造の複雑化に加えて,実習時間数の短縮,学生の生活体験の減少などの要素が加わり,実習は多くの課題を抱えている。また,虐待,校内暴力,不登校は増加し続けており,2000年に発表された総務庁の全国調査によると,5人に1人の子ども(9-14歳)が人と関われないことが浮き彫りにされた。このような子どもたちがこれからの看護学生になるのである。本書は多くの課題を持つ実習指導について,具体的な指導方法を示している。

臨床の経験を学生自らが意味づける

 著者らは,「臨床の知」をはじめとする「知」の捉え方に大転換が起こっており,あらゆる事象を目的合理的に説明しようとする思惟様式が行き詰まっていると述べている。膨大な記録,看護過程という技能のトレーニング,看護診断という教える側も消化不良ぎみな知識の指導ということにも疑問を投げかけている。
 臨床実習教育は「臨床の知」の獲得に焦点化して行なわれるべきであり,臨床の経験を学生自らが意味づけるプロセスの中で,「臨床の知」としての看護技術が獲得されるとしている。そして,学生の経験は教師と学生とが相互主体的にかかわる中で,意味づけられるのである。
 教師には「あるべき論」をふりかざさず,自分の価値観に固執せず,学生の素朴な思いや気づきに耳を傾け,他者からの働きかけを謙虚に受けとめる姿勢が求められる。すなわち,教師の姿をロール・モデルとして示すことが必要であることを強調している。
 このように述べてくると,では実際どのように教師はかかわればよいのかという疑問が出てくるが,本書はそれらを実に具体的に説明している。

指導型から学習援助型へ

 本書は序章,第1部臨床実習教育の理論,第2部臨床実習における教育的かかわり,第3部臨床実習教育をワークする,第4部臨床実習教育の実践例から構成されている。
 著者らは本書のどこから読み始めてもよいと述べているが,著者らの提言が今までの実習教育と何が違うのか(具体例),それはなぜか(理論),ではどのようにすればよいのか(方法)と読み進めるほうがわかりやすいように思う。すなわち,従来の指導型の実習教育と著者らの提案する学習援助型(あるいは経験型)実習教育との違い(32-33頁)から読み始め,次に序章から第1部,第2部,第3部へと読まれることをお勧めする。学生や教師が本書を参考にして,少しでも心に残る実習を体験できればと願う。
B5・頁156 定価(本体2,600円+税) 医学書院