医学界新聞

 

連載(16)  「微笑みの国」タイ……(7)

いまアジアでは-看護職がみたアジア

近藤麻理(兵庫県立看護大・国際地域看護)

E-mail:mari-k@dg7.so-net.ne.jp    


2435号よりつづく

■現実を直視するということ

運河のある生活

 タイ国の首都バンコクの交通機関は,近代都市にふさわしく列車やバス・自家用車,そして1999年に完成した近代的な高架式鉄道があります。都市の異常な交通渋滞は,高架式の鉄道の完成により緩和されると予測されていたのですが,現実には自家用車の数は増加しています。しかし,タイには歴史的に重要な交通機関としての運河があります。チャオプラヤー川は,全長約1200kmにも及ぶタイ国第1の大河です。この川はバンコクの中心部を流れ,流域には運河が網の目のように張り巡らされています。歴史を通してチャオプラヤー川は水上交通のための川であり,重要な都市はすべてこの流域に繁栄したのです。
 現在「ニューロード」と呼ばれている道は,1862年になって初めて運河が埋め立てられたところで,当時は馬車が通行可能な唯一の近代的な道路でした。運河を利用した舟による水上交通から,現在のような車中心の道路交通へと移行していったのは,これがきっかけとなっています。しかし,都心を少し離れると,そこには運河沿いに家が建ち並び,生活に密着している舟の交通を見ることができます。
 そうした運河を訪れる観光ツアー(水上マーケットツアー)があります。黒煙をまき散らすボートに,10人ほどの真っ赤に日焼けした観光客が乗り込み,運河流域の観光をするのです。川岸には椰子の木が生い茂り,子どもたちは川に飛び込んで遊び,家々では食事の支度をしていたりする姿が見えます。私がタイを初めて訪れ,このツアーに参加した時,ここに暮らす人々の生活の中に,土足で踏み込んでいくような,そんな居心地の悪さを感じながら,黄色く濁るチャオプラヤー川の浮き草を眺めていたのです。

立場を変えて見てみると……

 タイでの生活も3年目を迎え,言葉も通じるようになり友人も増えてきたある日,川沿いの友人宅を訪ねることがありました。ベランダにイスを並べて話していると,次から次へとボートがやってきます。日本,ドイツ,香港,アメリカなど,国ごとに違う言葉で,文化で,さながら万国博覧会かオリンピックの開会式のようでした。忙しそうな観光客が,現地ガイドに言われるまま,ボートに乗せられて,観光させられているのです。
「なーるほど。見られていたのは,観光客のほうだったのね」と,私が声をあげて笑うと,
「あーら,そうよ。今頃気づいたの,遅いわねぇ」と友人たちも笑い始めたのです。
そして,3年前に感じたあの居心地の悪さは,その時に吹き飛んでいったのでした。
 しかしながら,このように人の生活の中に勝手に入り込み,その人たちを無神経に見学しているような後ろめたさは,他でも感じたことがあります。

患者の人権と現実を見ること

 それは,バンコクから離れた場所にあるエイズ患者の入院する病院に,大学院生として30名ほどで院内見学に訪れた時でした。案内の看護婦が患者のタオルケットを次々と剥ぎ,状態が私たちによくわかるようにと配慮してくれたのです。ベッドの上で,一体何が起きたのかと,眼をくりくりさせて驚いているやせ細った若者の姿が印象的でした。そしてベトナムでは,エイズ患者の皮膚の状態を記録するためにと撮られた写真が,壁に貼りつけられていました。その中には,顔を写した裸の姿も含まれており,正直言って驚きました。私はと言うと,このような場所を訪問すると,いつも写真を撮ることができないのです。
 しかし,ここでしっかりと記憶の中に刻まれたものは, 「私たちが直面しているこの現実を,正面から見据えてほしい」と訴えかける,看護婦やボランティアたちの真剣な眼差しでした。人との関係性の中で,その深い信頼によって生まれた「しっかり私たちの現実を見てください」という患者と看護婦からのシグナルを,どのように受け止めてよいのか迷いました。
 患者の人権や倫理問題について,日本でもやっと大きく取りあげられるようになりましたが,タイやベトナムで体験したことが日本で起きていれば,一体どうなっていたでしょうか。1つの物差しだけで,自分の見たこと聞いたことを,計ることの危うさを感じています。
 さて,最後に,話は変わってザンビア共和国での出来事です。路上でおいしそうなトウモロコシを売っている女性と,街の風景があまりにも美しかったせいでしょう,友人は思わずカメラを向けたのですが,その時に「何をするの!勝手に撮るなんて!」と怒鳴りつけてきた女性の姿が忘れられません。そして,このように批難されることが恐くて,人に対していつも無難にかかわり,深い関係を避けてきた自分に改めて気づいたのでした。これから,彼らの現実にどのように向き合うことができるのか,重い課題がどんどん溜まりますね。