医学界新聞

 

[連載] 質的研究入門 第18回

事例検討による研究(1)


“Qualitative Research in Health Care”第7章より
:JUSTIN KEEN. TIM PACKWOOD (c)BMJ Publishing Group 1996

大滝純司(北大医学部附属病院総合診療部):監訳
澤田いずみ(札幌医大看護学科/北大医学研究科):訳
藤崎和彦(岐阜大助教授・医学教育開発研究センター):用語翻訳指導


 保健・医療サービスの現場の問題を明らかにする,あるいは政策上の課題を探るといった目的で,事例検討による研究が行なわれており,そこではさまざまな質的研究手法が用いられている。この章では,優れた事例検討の持つ特徴と,実際にそれを用いて保健・医療サービスや健康政策を評価した具体例を紹介する。

はじめに

 疾病の研究では,昔から質的データが大切にされている。特に,疾病の症候については,主に事例(症例)検討を基に研究が行なわれてきた。この傾向は現在に至るまで続いており,代表的な例としては,医学雑誌に毎号掲載されている症例報告などがあげられる。また,医療職が日常の仕事の中で頻繁に行なっているさまざまな判断も,量的というよりも質的なデータを根拠としていることが多い。
 この章で紹介するのは,臨床研究としての症例検討ではなく,保健・医療サービスの活動に関する事例検討型の質的研究方法である。
 医療職の仕事の様子を調べる際には,研究者であれ,査察機関(英国の監査委員会;Audit Commissionや,米国の会計検査院;General Accounting Office)であれ,この方法を用いている。その意味からも,医師(および医療職者)はこの研究手法についての設計や運用の原則くらいは知っておいたほうがよいだろう。
 ここでは,保健・医療サービスの中でどのような分野を調査するのに事例検討が適しているのか,また,そこではどのような質的研究手法が使われるのかを簡単に紹介する。質的な研究を単独で行なう場合だけでなく,一部に量的な研究手法を併用する場合についても,その具体例を示す。

事例検討による評価

 医師たちは,例えば「自分は病院の管理・運営にかかわったほうがよいのか。かかわる場合にはどのようにしたらうまくいくのか」「今度の新しい政策は患者の生活にどのように影響するのか」「診療の進歩や変化に,臨床現場はどのように対応していけばよいのか」といった現実的な疑問にたびたび直面する。このような問いの答えを見出すには,大きく分けて2つの方法がある。
 1つは,示された政策自体を分析することである。すなわち,その政策に矛盾がないかを検討したり,実施した場合の効果を何らかの理論を使って予測するのである。例えばNHSの一部に市場原理を導入するとか,地域ケアの構造を変えるといった国の政策がもたらす影響については,経済学などの理論を基に予測が行なわれてきた。
 この章で取りあげるのはもう1つの方法で,保健・医療サービスにおける介入(intervention)の効果や,政策の変更の影響について,実際に起こっている現象を調査してその価値を評価し,判定を下すのである。この方法における判定には一般的に2種類ある。1つは,その介入が対象者にとって適切かどうかの判定であり,もう1つはそこから得られたものが費やされたものに見合っているかどうかの収支の判定である。
 事例検討による評価は,複雑な状況の下で幅広くかつ入り組んだ問題を扱わなくてならない場合に用いられる。ある介入に関連した出来事のすべてを1つの方法でとらえることは不可能であり,事例検討をする場合にも,さまざまな方法を併用することが多い。
 事例検討では,その時の状況によって質的な方法も量的な方法も並行して用いる。質的方法を用いた事例検討が特に有用なのは,介入の詳細な生の様子を知りたい場合,またその介入が,なぜ,どのようにして成功,あるいは失敗したかを知りたい場合,さらに結果的にさまざまな要素が複雑にからみ合っている場合や,調査者がその事象を操作したり介入したりできない場合などである。これらの場合は,関連する因子の数が多すぎ,コントロールできないために実験的な手法は使えないからである。
 研究対象である介入の持つ特性から見た場合に,事例検討という手法で検討するのが適しているものがある。第1に,介入の多くは,その影響が及ぶ範囲が(特にその開始時点では)不明確で,周囲の状況と区別するのが難しいことがあげられる。その範囲がはっきりしていても,介入はそれだけが単独で行なわれるのではなく,さまざまな変化を引き起こしてそれらと複雑にからみあっている。同時にしかも相互に影響し合いながら,さまざまな変化が進むのは,世界中の保健・医療サービスに共通してみられる現象である。例えば,先の病院管理への関わりを検討する医師の場合でも,医療監査,資産管理,専門医の業務管理,行政的法規制など,多くのことがからんでくる。
 第2に,どのような介入であれ,その結果に対する評価はさまざまな利害関係者のしがらみに影響されやすい。利害が異なると,生じた出来事に対する解釈も異なることはめずらしくない。そうした食い違いをとらえるには,インタビューなどの質的研究方法で事例検討をするのが適している。
 第3に,介入は,それが最後まで十分に実行されるかどうか,最初の時点では定かでない場合がある。例えば大規模コンピュータシステムが故障してしまった場合には,所期の計画通りには介入が行なえなくなる。一方,こうした失敗について研究することで,次の失敗を防ぐ貴重な手がかりが得られる可能性もある。
 要するに,このような状況の下では,実験的な方法では研究できないのである。事例検討は,複雑な状態について検討するための研究手法の1つであり,決していいかげんなものではなく,研究対象である出来事の成否を,情報を分析して明らかにする手段なのである。

事例検討研究の計画

 先に述べたように,公的サービスを監査し規制する機関でも,質的研究方法を用いた事例検討が行なわれている。その機関としては,英国の国立会計検査局(National Audit Office)や監査委員会,米国の技術評価局(Office of Technology Assessment)などがある。この調査は,事後調査(retrospective)の形で行なわれることが多く,特に政策が首尾よく実行できなかった場合に行なわれる。しかし,政府が定めた基準や方針がどの程度守られているかを知る目的で,前向き(prospective)な形で調査する場合も増えてきている。例えば,英国の国立会計検査局は,病院でみられる病院食の外注化について,市民的な権利を定めた憲章に沿った基準や監視体制が備わっているか,栄養水準や経費の面で政府の政策や指導に沿った運営が行なわれているか,に注目しながら調査を進めている。
 前向き研究は,学術研究者によっても行なわれてきた。その例として,英国でGriffith報告を受けて実施された包括的な保健・医療制度導入による改革,1989年に行なわれたNHSの見直し報告の効果,米国の病院における包括的な医療の質管理(quality control)導入の成果,などがあげられる。これらの研究で,研究者たちは,彼らが直接手が出せないさまざまな状況が複雑にからみあう中で,一体何が生じているのかを把握しようと努めた。そして,新たな政策やマネジメント理論を導入する際に生じるいろいろな問題が浮き彫りとなり,さらにそれぞれの問題に応じた方法で調査が行なわれたのである。