医学界新聞

 

看護随想-新たな世紀を向かえて

 時代は21世紀へと移った。20世紀後半の医学・看護系の学会では,そろって「21世紀へ向けた……」を枕詞にテーマが設定されていた。新世紀を迎えた今,そこで提言されていたものをいよいよ実現しなくてはならない時代になったとも言える。
 そこで本紙では,臨床現場および看護教育界で活躍されている方々に,「新たな世紀を迎えて」をテーマとして,21世紀の看護に何を期待したいか,何ができるのか,そして夢は……などについて自由に執筆いただいた。なお,本企画は今後3回にわたり掲載する。


夢で終わらせたくないこと

川島みどり(臨床看護学研究所長)


 新たな時代の変わり目に生きているという感慨で新年を迎えた。だが,1日を単位としてみれば,今日は明日の昨日なのだし,世紀が変わったからといって,日常の流れはそう大きく変わることなく続くことも確かである。とはいえ,これからの10年の変化は,おそらく前世紀100年の変化に匹敵するかも知れないと,一方で思う。遺伝子レベルでの生命操作が日常的になり,病的臓器に代わる機器が体内に植え込まれて寿命はますます延長するだろうし,現実の問題として,あと15年で高齢者人口は1000万人増え,しかも後期高齢者数の増加は急速であるという。
 延長する寿命が健康であり,心身ともに自立の期間ができるだけ長くありたいとは,高齢者の一員でもある私の年頭の個人的所感である。同時にまた,高齢者ニーズに添った看護の役割を具体的に果たさなければという,看護職者としての思いもあり,どちらかといえば,後者のほうがずっと強いのは,50年間の職業的習慣によるのかもしれない。
 年単位で見ると,現場の看護水準が落ちてきているのではないかとの不安は拭えない。だが,個々の看護職者に焦点を絞れば,こんなに真面目に仕事一途の職種が他にあろうかと,同業ながら頭が下がる。だからこそ,よりよい看護の実践を強く願う彼女,彼らの意欲をそがず,看護の可能性に心ゆくまでチャレンジできる条件を整えることが,今世紀初頭に看護界をあげて取り組むべき課題であると思う。それを抜きには,社会に対する専門職としての責務は,絵に描いた餅となろう。
 前世紀からの宿題の1つ。私の看護婦年齢とともに年を重ねた准看護婦問題。中でも移行教育の速やかな実施を願わずにはいられない。思うこととできることの乖離を自覚しつつも,残りの看護婦人生で行ないたいことはこの他にもある。1つは,看護技術の有用性の根拠を明らかにすること。今1つは,ひときわ遅れをとった障害者看護の実践に役立つ研究である。古希という年祝いがマッチしない時代だからこそ,夢に終わらせたくはないと願う。


新世紀は女性と看護の輝く時代か

松木光子(日赤北海道看護大学長)


 かつて,社会党の土井たか子党首が,1989年の選挙で女性議員が次々と当選するのをみて,意識の地殻変動を切実に感じ,それを「山は動いた」と表現した。
 近年の女性の社会進出をみていると,土井氏の言う「山は動いた」という感が一入である。これは,近年の労働基準法や男女雇用均等法の改正などが一段と拍車をかけていることに間違いはないが,その気運は1980年代から動き始めていたのである。
 筆者の若い頃,1950年代の米国においては,女性の医師や弁護士などの専門職者はきわめて少なかった。なじみの医療の現場では時に女医をみかけることがあったが,彼女らはクライエントが男性の医師を選ぶといって嘆いていたことを思い起こす。当時の現場には男性は医師,女性は看護婦という人々の意識が多分に支配していたのであった。
 その後,ずいぶんの時が経過し,1986年に筆者は再び在外研究員として米国に滞在した。もうこの時は,1970年代のウーマンリブ運動の影響か多くの女性医師が生き生きと活動していた。米国の場合はおそらく70年代の性差別廃止の運動で確実に「山は動いた」に違いない。反面,優秀な女性が医師や弁護士のほうへ進出していってしまうので,看護職に魅力を持たせることが当時の課題であった。
 わが国も男女均等の考えは,前世紀に築いた気運を受け継いで,21世紀のこれから確実に浸透していくであろう。女性は持ち前の柔軟性を武器に,この変化にうまく対処し,多くの分野で生き生きと活躍するものと感じている。しかし,それには実力と努力が必要である。それらがあれば,確実に21世紀は女性が一層社会的に輝いて活動していくであろう。
 一方,看護職については,近年の人口の老齢化や少子化により社会的需要が増加してきている。健康づくりや予防,高度医療の発展や在宅医療の提供の上で役割の面でも拡大が期待されている。それとともに,近年における看護の高等教育化の動き,看護職者の社会的進出などを眺めても,看護界でも「山が動いた」観があるように思うのは,筆者だけであろうか。
 看護界にはすでに専門職としての力をつけている看護職者は数多い。社会が健康づくりや予防に力点がを置き,病や弱ってきた時に安心して看護を委ねられる環境が整備されたら,人々は幸せである。わが国の場合,社会的需要も看護職の高等教育化も進み,職としての魅力や働きがいも認識されてきているので,女性専門職同様に看護も,21世紀はさらに生き生きと活躍する世紀となろう。
 つまり,21世紀の近未来は20世紀に培った土台をもとに,女性も看護も社会的成熟をしていくだろうと,新年にあたり夢をみている。


「21世紀は看護の時代」の論拠

見藤隆子(長野県看護大学長)


 新世紀の前半までに起こるであろうことを2つ3つ考えてみた。
 まず,医療における患者の権利や人権保護の思想が一層進むと考える。現在議論されているインフォームドコンセントやカルテ開示の問題も,パターナリズムの考え方を未だ引きずっていると思うからである。
 つまり,この患者には知らせないほうがよい,という判断をする権利が,医療者側にどういう根拠に基づいて「ある」と考えるのか。あるいは,家族が患人本人よりも病名を先に知る権利がどうして「ある」と言えるのか,である。ターミナルの苦しみにあり,安楽死を望む患者にそれを認めないという権利は誰にあるのか。など患者の権利保護の考えが一層厳しく突きつけられ,パターナリズムからの変更を余儀なくされるであろうと考えるからである。
 その分,患者も医療者も直面する苦しみや問題からの逃避の姿勢から,対峙する姿勢への転換が必要となる。対峙する姿勢を可能にするためには,医療者が人間性の深さと精神的繊細さ・強さを合わせ持ち,しかも教養豊かな人でなければならないであろう。これからは,ナースには特にその素養が要求されると考える。
 もう1つは,医療費の問題である。高齢化が一層進み,経済が停滞を続けるとすれば,医療費の負担をどの程度まで国民は容認するのか。国民を巻き込んだ大きな議論が必要となろう。種々の対策の1つとして,医療費の節約をどう図るかも議論になろう。そういう中で,入院日数の短縮,病床数の削減はより一層進むであろう。入院日数,病床数が減れば,当然ナースの数に影響が出るはずだが,欧米並みの病床数当たりのナース数を確保すれば,ナースが余るということはそれほどないと考える。
 節約の中での人件費の問題はどうか。医師の数と医療費の伸びとの間には,正の相関関係があるのであるから,当然医師数を減らすことになろう。医師の養成数を減らすことに対しては,すでに文部科学省が誘導している。医師の養成には,看護職養成に比して多大の費用が投入され,人件費も看護職に比してきわめて高いのだから,医師には高度医療を今以上に負うてもらい,米国のナースプラクティショナーが行なっている程度のことは,日本でもナースがする。そのほうが経済効率を図れる。何よりもそれは,日本のナースの意欲を活性化させる。
 以上,「21世紀は看護の時代」と言われる論拠の一端を少々語ったつもりである。


専門職としての看護学の確立を

上田礼子(沖縄県立看護大学長)


 20世紀最後の年末に,米国の著名な大学の看護学部を数校訪問する機会がありました。どの大学も歴史と伝統を踏まえつつ,新世紀に向かって看護の刷新を意欲的に語り,実践している様子が手にとるようにわかりました。そこで痛感したことの1つは,看護専門領域で新しい概念が生まれるには,その背景となる土壌があるということです。
 ある国の歴史的,今日的な状況の中での実践と,研究の積み重ねの結果生まれてきた概念を,土壌の異なる日本に直訳的に導入しただけでは正しく理解されず,誤った紹介となることもありうるのです。家庭看護と家族看護,公衆衛生看護と地域看護と訪問看護,異文化看護と国際看護などの類似性と差異はそれらの例です。米国では,これらの概念の歴史的な差異を明確に区別して使っていることを知り得たのは,今回の調査旅行の大きな収穫でした。
 日本における21世紀の看護の課題は何でしょうか。
 私は専門職としての看護学の確立に向けた実践,研究,教育の有機的・総合的な活動と考えています。専門職としての条件は(1)高い責任と責務,(2)知的で,高等教育機関で学習できる知識,(3)職業的な特殊な知識,(4)人々へのサービスと利他主義的な活動への従事,(5)実践上の比較的高度な自律性と独立性などです。
 日本の,社会の高学歴化,保健・医療分野における日進月歩などの急速な変化にともない,20世紀の後半には看護大学・看護系大学の新設および指導的な役割を果たせる人材の育成をめざして,看護系大学院の新設が続いています。2000年4月時点で博士課程11,修士課程35,大学課程84が存在し,看護職者やその志望者が高等教育機関で教育を受ける機会を得たことは20世紀の大きな成果でしょう。
 新世紀には,この土壌の上にどのような看護学の芽が育ち,花を咲かせることができるでしょうか。従来のように欧米で生まれ育てられた「花」のみをつまんで日本に持ち帰っても,グローバル化時代にはあまり役立たないと思います。
 私は以前,日本全国の約2500名の子どもを対象に,デンバー式発達スクリーニング検査の標準化の仕事をした経験を持っています。米国・デンバー市の子どもの発達基準で日本の子どもの発達を評価すると,偽陽性や偽陰性が生じて子どもや養育者に心配をかけるだけでなく,むだな仕事を多くすることがわかりました。類似のことは看護学の分野にも当てはまると思います。


予防医学の担い手として

神郡 博(福井県立大学教授・看護福祉学部)


 21世紀はどんな世紀になるのか。予測は大変難しいが,20世紀後半の足跡をたどれば,次のように予測することもできるだろう。
 医療・保健の分野では,現在の仕組みや制度がますます患者本位となり,患者や家族を参画者として巻き込んだ医療保健活動が進められる時代になる。病気の原因究明や治療方法が進み,おおかたの病気が治る時代になって,病気をしない健康な生活をいかに送るかに人々の関心が向けられる。そして,治療医学に代わって予防医学,健康科学,看護学が今まで以上に重視される。
 政治,経済,社会の分野では,人口の高齢化がさらに進み,経済や学歴優先の風潮が改められる。能力中心の,人々がその分に応じて社会活動に参画し,その恩恵を共有できる共存社会の実現が求められ,それに向けた施策や努力が払われるようになる。情報通信分野の技術革新が急速に進み,居ながらにして世界の国々の人々との情報が交換できるようになって,その結果が仕事や教育,生活全般に影響を与え,そのあり方を大きく変える時代になる。
 こうした変化の中で,人々の健康を守る看護の仕事は,ますます重要視され,おそらく次のような役割が期待されるだろう。
 患者や家族を巻き込んだ医療保健の場で,患者が病気を克服するための心の癒しと生活に密着したケアを提供すること。健康な生活を志向する人々のニーズに応え,健康を維持するための豊富な知識や体験を,わかりやすい形で伝えられること。患者の生活の場で,看護の独立した判断や援助ができること。これらの役割を対面場面ばかりでなく,電子メディアなどを介して多様な方法で具体的に提示できること。そして,これを受けての事例検討や,生活の場での患者の問題と支援方法の検討などを通した看護援助の本質に関する検証が盛んに行なわれるようになり,看護の役割が明確に示されていくだろう。また同時に,教育の面でも,こうした社会の要請に応えられる専門家を育てるために,教育課程の再編や,電子メディアを媒介にした多様な教材や教育方法の開発などがなされるだろう。


これから千年の看護教育の基盤

田島桂子(広島県立保健福祉大学・副学長)


 いよいよ21世紀が始まる。「the millennium」には,「千年至福」「正義と幸福と繁栄の黄金時代」という意味があるとのこと。「2000年問題」を克服して迎えたこの新年には,これまでできなかったことが実現しそうな気になるのもそのせいであろうか。
 これからの千年を想像するに,20世紀終盤の科学技術,情報通信技術のめざましい発展から考えて,いわゆるSFの世界が広がる。しかし,周辺はともあれ,千年単位で考える覚悟で遠回りをしても,まず次のようなことを検討し実現させなければならないように思う。
 「看護技術」の見直しと新たな看護技術の確立を図る
 今,「看護技術」の実践力低下が大きな問題となっている。看護教育の場でも,臨床においても「看護技術」の特定が難しくなってきていることが1つの要因と考えられる。その意味で,基礎教育で教育している看護技術が,現在も未来においても教育の対象となるものかどうかを全面的に吟味することが必要である。
 実践力育成の基盤づくりと看護の自立を図るために,日常生活上の援助,診療上の援助および看護治療技術とその開発を,高度医療,社会的変化に対応した援助技術を含めて検討する。
 確立した「看護技術」を市民と共有する体制を整える
 確立された「看護技術」のうち,日常生活の援助技術については,一般市民の日常生活の一部となるように指導し,健康の保持・増進にかかわる自己管理および家族単位・地域単位を含めたシステムを創る。さらに,健康障害時のファースト・エイドとしての役割が果たせるための指導体制を考える。このような基盤づくりがこれからの看護専門職の大きな役割となることを再認識する。つまり,「健康は自分で守る」という概念を,実践に移す体制づくりを看護専門職の目から総体的に行なうことである。
 高度医療,社会的変化に対応した実践を地球規模で行なう素地を創る
 前項にあげたシステムづくりの一方で,看護専門職者は,一段と高度化した看護環境およびその反応による複雑化した健康問題と取り組むこととなる。健康問題は今や地球規模での連携を必要とする時代となっている。最先端の知識・技術で必要な対応をすべく,個々の弛みない研鑚姿勢と環境づくりを行なう。
 前述の事柄は段階的意味,実践の場の違い,難易度を表しているように思われるが,看護専門職者には常に同時に求められるものである。新世紀にあたり,確実な基盤づくりの第一歩へと踏み出せることを願う。


夢は叶えるもの

島末喜美子(池田市立池田病院・看護部長)


 20世紀最後の年は,看護のみならず医療全体に国民の不信の嵐が吹き荒れ,看護管理者にとって最も厳しい試練の年であったように思います。21世紀は信頼を回復するために「IT革命」の産物を利用するなどさまざまなことを創意工夫し,産み出していく必要があるでしょう。医療機器に影響を与えない携帯電話を開発し,それを使って患者さんのID番号と薬品のコード番号を照合する。そして,間違っていればシグナルを発し,間違いを知らせてくれる,というシステムが実用化されるのも夢ではないと思います。そのようなハードの部分の開発が急がれ,また,ソフトの部分では,患者さんのベッドサイドには医師と看護職だけでなく,薬剤師,臨床検査技師,その他コメディカルの方たちも積極的に加わり,同じ輪の中でより安全な医療についてともに考えていければと思っています。
 昨年当池田病院では,薬剤部と協力し病棟薬局の開設にこぎつけ,点滴のミキシングをその病棟薬局で行なうようにしました。今年からは,薬剤師がベッドサイドに輸液製剤と内・外用薬品も配薬して,実施は医師または看護職が行なうというようにします。そこには,双方の連携したダブルチェックによる過誤防止が期待できます。
 看護界は,このように他部門との連携が不可欠になってきます。そのためにも,看護職はパーソナリティや態度だけでなく,根拠に基づいたアセスメントができる能力と専門病棟での疾患の理解など,求められるハードルは高いものの越えられなくはないと考えています。自信を持って看護し,生き生きと働く看護職の姿を想像すると,ワクワクしてきます。
 院内での継続教育だけでなく,生涯教育も,また臨床の場と教育の場がもっと融合すること,そしてお互いに影響を与えることができれば,臨床の場では科学的な根拠に基づいたケアが提供でき,教育の場においては生きた研究ができるのではないでしょうか。私たち臨床の場にいる者は,それを切に望んでいます。
 ここ最近は,臨床現場に2-3年勤務して大学に編入,外国に留学するというように,看護職の学習意欲も高まりつつあります。それぞれの職場でも,休職制度を取り入れるなどの整備も必要でしょう。大学側ももっと敷居を低くして,臨床からの進学者を迎え入れてくれるようになれば,看護は21世紀にしっかり力をつけて,患者さんのみならず国民の絶大なる信頼を勝ち取ることができるだろうと大きな夢を描いています。
 20世紀末に,若者に圧倒的支持を得た安室奈美恵さんの歌に「夢は見るもんじゃない,語るもんじゃない,叶えるもの」というフレーズがありました。私はこのフレーズがとても気に入っています。21世紀の早い時期にこの夢を叶えるように努力していきたいものです。


新世紀「看護を人類共通の財産に」

菱沼典子(聖路加看護大学・看護学部長)


 2000年の大晦日と2001年の元旦は連続しているのに,「新しい世紀」という言い方が,何か期待をもたらすのはなぜだろう。
 それよりもキリスト教圏ではないわが国で,西暦の新世紀をことさら騒ぐのはなぜだろう。日本国内でしか通じない元号より,「西暦がいい」と思っていたが,国際社会でキリスト生誕を基準にするのがよいとは限らないと気づくと,「?」である。そういえば,昨年はコンピュータの「2000年問題」で大騒ぎだったが,今年はずっと静かな幕開けだった。1つ「21世紀」という梨が売り出されるのかどうかが,気になっている。
 看護大学に身を置いている者として,21世紀にやってみたいことが2つある。
 1つは大学を,「真に教育と研究ができる場」にすることである。看護の教育と研究は,看護実践とリンクする。教育と研究ができるとは,実践もできることを意味すると思う。大学が確実に実践,教育,研究をする時間と空間を持てる場になったら,看護学はもっと発展し,有用な理論や実践技術が生まれるに違いない。これを実現するには,アイディアと時間とお金がかかるが,最も必要なのは,そうしたいという気持ちを持つかどうかだろう。関心を寄せ,参加できるかが鍵だと思っている。
 もう1つは,われわれ看護職の働きかけに対するからだの反応を,誰の目にも見える形で示し,「看護技術が生活行動上にどんな効果をもたらすのか」を説明できるようになりたい,ということである。看護の持てる力を証明する1つの手段として,生体反応をしっかり捉え,その臨床的効果を明確にしたいと思うのである。
 仕事と家庭生活を維持しているだけの毎日を送り,自分の世界を開拓する余裕と勢いがないまま世紀を越えた上,考えることがまた仕事のこととなると,少しばかり不安になる。
 食い扶持を稼ぐための仕事に,おもしろさが加わってしまった(!)今,看護を人類共通の財産として次の世紀に残せるように,楽しみながらがんばりたいと思っている。が,21世紀,老いへ向かって確実に歩みを進めている私としては,仕事においても,私生活においても,次の世代の人たちの踏み台になれたら嬉しいと思う。願わくば,つぶれない踏み台とならんことを。


新世紀の看護-4つの夢

蝦名美智子(神戸市看護大学教授)


 長崎に最新の養生所ができ(1861年),以後140年間,医学は長足の進歩を遂げました。それに引き替え,看護は「たじろぎ」の時代を過ごしてきました。例えば私の高校時代,「2・8闘争」と言われた看護婦のストライキが続きましたが,この問題は1994年「夜間勤務等看護加算」が制度化されるまで約40年続きました。
 さりながら,現在は看護大学が86校(2000年4月)となり,大学院修士課程はめずらしいものではなくなり,博士課程も開設され,世紀末における看護の発展は「ジャックと豆の木」の勢いであります。これをバブルとしないために,新世紀の看護には以下の4項目を希みます。
 1つは看護の機能分担を明解にすることです。分担の例を「農業」で見ますと,誰でも楽しむ家庭菜園,専業農家が商品として売り出す農産物,その専業農家に専門的な立場から相談にのったりアドバイスする立場,現代風にいうとコンサルタント,そして農業全体を研究的側面からサポートする各大学の農業学部の4段階があります。看護においても,家族が試みる家庭看護,お金をいただく職業看護婦,その看護婦を専門的な立場から支援する認定看護師や専門看護師,そして看護全体の発展を研究的側面から支援する博士修了者の4段階があるはずです。現在は,平等意識の混同の中で,人間として尊重されること,仕事上の職権の行使,および各個人の能力差等をゴチャゴチャに論じる向きが強いように思います。研究者にならないで,土日はゆっくり静養し,よい看護実践を行なう立場があってもよいように思います。
 第2は,訪問看護ステーションの役割が飛躍的に増大し,量的・質的に高度な看護判断をする機会が増えるでしょう。特に小児看護領域では,子どもの健全な発達を促進するためには,データが正常化しなくとも,ある程度下がった状態で退院が決定されるようになりました。したがって,訪問看護ステーションには,癌や脳血管障害の成人患者さんへの高度実践看護婦だけでなく,小児の高度実践看護婦が必要とされるでしょう。
 第3は,看護の対象者が国際化し,バイリンガルな看護婦が必要とされるでしょう。なぜなら,若者のフリーター指向は止まず,現在では,危機感を持った企業がホワイトカラーやメタルカラーを諸外国から雇い始めました。これに加え,少子化が今後も進むことを考えると,若年労働者も諸外国に依存するようになるでしょう。したがって,看護婦は外国に行かなくとも,日常的に英語やその他の言語を耳にすることになります。よい仕事をするためには,「英語が嫌い」なんて,自慢げに言ってられません。そして,その結果,国際的な活躍をする看護婦がたくさん出てくるでしょう。
 最後は私の夢です。最新の科学の成果を看護場面に導入するためのシステムを検証し,推進する役割が必要です。これからの看護婦は,独自の研究として血管探知装置(どんな血管でも一発で点滴針が刺入できる)や自動転倒転落予防装置を開発し,さらに異業種との研究を行ない,例えばソニーやホンダの人間型ロボットの応用研究に参加し,患者の安全・安楽と看護労働の軽減化に貢献するでしょう。


ナーシング・マインドを広く社会で活かす!

早川和生(大阪大学教授・医学部保健学科)


 現在,100万人の看護職が日本で働いています。そして,今や非常に優れた若い人材が看護学をめざし,毎年全国の看護大学等に大量に入学してきています。こうした意欲的で豊富な人材が,社会の進展の中で十分に活用されることが強く望まれます。
 21世紀は「心の豊かさ」と「人間らしさ」を求める成熟型市民社会を迎える,と考えられます。看護学に内在する「ヒューマン・ケア」,「生活支援」の視座は,来るべき未来社会を先取りするものであり,新しい成熟型市民社会を実現する上で必要不可欠な要素となるものでしょう。
 看護学の視座は,今や新しい時代のフロント・ランナーであり,時代を切り拓く大きな社会変革の役割を担う先端的学問分野となってきました。看護学は,スタートが遅れた後発の学問分野でありながら,社会環境の急速な変化により,いつのまにか1周遅れの走者がトップランナーと並んで走っている状況になった感があります。看護学は社会変革の一翼を担うとともに,自らも新時代に向けて脱皮する必要がありましょう。
 少子・高齢社会の新しい市民ニーズの中で,看護職は医療・保健・福祉施設で活躍することはもとより,さらに広く人間の生活の質とウェルネスの向上に貢献するさまざまな職場において高い専門性を発揮して活躍することが期待されるようになりました。看護職が働く職場は,今後大きく拡大するでしょう。また,看護学は「市民科学」とも呼ぶべき広い領域をカバーしていくことでしょう。
 ナーシング・マインドを胸中に秘め,1人ひとりが社会の隅々で地道に着実に貢献していきたいものです。


医療の標準化と質の保証

阿部俊子(東京医科歯科大学助教授)


 新世紀を迎えて医療と看護に期待することは,質の向上を図り,真の意味での患者中心の医療ケアとなること。医療の質というのは,医療者と患者では定義が異なる。医療者と患者の共通項目としての医療の質は「健康状態の改善」(パーマーの定義より)だ。患者にとっての医療の質というのは,これに,「私(患者)が満足できたか」ということが加味される。
 患者が,医療ケア提供に満足する場合,インフォームド・コンセント(説明と合意)という部分が大きい。患者の医療への不満で大きな比重を占めるのは,「説明が少ない」ということがある。
 COML(ささえあい医療人権センター,大阪市)では,患者の医療への不満を受けつけているが,ここでは看護に対する不満はほとんどないということだ。患者からの質問に「先生に聞いてみます」などと対応している看護は,患者からの信頼を得られず,専門職として認識もされていないのではないだろうか。COMLは,「医学教育と看護教育のレベルの差がありすぎるのではないか」と述べている。これは教育レベルの差だけではなく,他に2つの大きな理由がある。まず,患者ケアに対して,医師と看護のコミュニケーション・コンセンサスがとれていないことの弊害。次に,医療の標準化の問題。経験のある看護職でさえ,医師の医療ケアでの指示の予測がつかない場合がある。これは医師属性によって医療内容にばらつきがあり,その決断指標も明確になっていない場合がままあるということだ。
 この医療の標準化ということは医学だけでなく看護の問題でもある。患者中心の医療ケアを提供していくためにも,質の保証として,さらにはリスクマネジメントとして確立される必要がある。これらの医療の標準化には,EBM(Evidence-based Medicine)の必要性,さらにはインフォームド・コンセントと医療チームにおけるコンセンサスとを実現できるツールとして,クリニカルパスの導入が必要だろう。
 これからの看護のあり方を考える時に,看護のニーズ,患者のニーズ,さらには社会ニーズの3点を考えていかなくてはならない。患者の庇護者としての視座を看護の役割と定め,その上で社会のニーズも鑑みていく。そういうことからしか,看護の立場を確立できる方法はないであろう。


「看護婦であること,教師であること」を糧に

グレッグ・美鈴(岐阜県立看護大学助教授)


 「昔,看護婦さんって専門職じゃなかったんだって」
 「へえ~,そんな時代があったのね」 という会話が,今世紀の終わりに聞かれるとよいなと思う。そのためには何が必要かを,思いつくままに書いてみたい。
 まず,専門看護師の領域と数の増加が必要だろう。アメリカで義母のケアをしていた時,最も頼りになったのはCNS(clinical nurse specialist)だった。臨床試験中の抗癌剤によって,「どの程度癌が縮小するのか」が最大の関心事であった医師団と異なり,進行癌を抱えながら生きていた義母と,その家族である私たちを支えてくれたのは,CNSだった。日本でも,「専門看護師」という職種の仕事に接する人が増えれば,「看護」の価値を認める人が増え,看護婦に対するイメージも変わるだろう。
 専修学校卒業生を,編入生として受け入れる看護学士課程と定員数が増える必要があるだろう。学びたい看護婦が,いつでもそれを実行できるような制度の確立も必要と考える。奨学金制度や勤務体制を柔軟にし,編入学=職を失うことにならない制度ができるとよいと思う。
 大学院(看護学研究科)の増加とレベルアップが必要だろう。そのためには,大学・大学院で教える教員も,大学院の授業を簡単に受けられるようなシステムが必要である。インターネットコースの開設は,通学時間の節約と学ぶ機会の増加を可能にする。ADSL(Asymmetric Digital Subscribe Line:電話線でインターネットに高速アクセスが可能な,非対称デジタル加入者伝送方式)が国内どこででも,安価な使用が可能になれば(ちなみに田舎に住んでいる私は,つい最近までアメリカにいた時の10倍以上の費用をインターネットに使っていた),外国にある大学院のインターネットコースの受講も容易になる。
 最後に,看護学を医学や他の学問の中で学ぶという現象を消滅させたい。これは,現にある医学部保健学科看護学専攻などでの教育を非難しているのではない。学問の自立を考える時,「看護学」は「看護学部」で学ばなければならないと思う。医学部の中の教育に,実質的メリットがあるのかもしれないし,単なる学部名称だという人もいるかもしれないが,学問の自立なくして専門職にはなり得ないと思うのである。
 さて,私自身の新世紀への展望はというと,「看護婦であること,教師であることを大切にしながら仕事をしていきたい」という,結構地味なものだったりする。