医学界新聞

 

新春随想
2001


「万国外科学会・ISS/SIC」の100年に思う

比企能樹(北里大学名誉教授・万国外科学会理事)


テオドール・コッヘルによって創立

 21世紀の幕が上がった本年は,万国外科学会が創立されて100年を迎える年でもある。そもそもこの学会は,広く世界の外科学者に呼びかけて結成した,世界最古の外科の国際学会である。
 正確には,「La Societe Internarionale De Chirurgie」と称し,ノーベル医学賞受賞者であるスイスのテオドール・コッヘルによって1902年に創立された。ずっと後の1979年,サンフランシスコの学会の折に,「International Society of Surgery」という英語名を加え,「ISS/SIC」という現在の名称になった。日本語では終始「万国外科学会」と言う。1905年にベルギーのブリュッセルにおいて初めて大きな学術集会をもち,その後数年に1度の割合で本学会が催された。近年では,定期的に2年に1度の学会が催されるようになったが,今年は創立100年を記念して開催地を初回のブリュッセルに戻して,2001年8月26日より30日まで,「International Surgical Week ISS/SIC」として行なわれる。

「万国外科学会」と私の関わり

 1977年にアジアで初めての第27回万国外科学会が,斎藤キヨシ組織委員長のもと京都で催されたが,石川浩一教授と私の恩師である島田信勝教授が協力された。この時は一参加者として,「国際学会は大変なことだなあ」と,その規模の大きさや,世界から集まる学者のビッグネームをプログラムで眺めて感心していたが,まさか後にこの学会の運営に深く関わっていくとは思ってもみなかった。
 私自身は,その後の1983年にハンブルグの第30回万国外科学会で,初めて一般演題の演者として学会に参加した。東西が分断されたドイツではあったが,第2次大戦の痛手を克服して,医学の本場としての自負を持って,再び起き上がろうとする勢いが漲り,学術プログラムも多彩であったと記憶する。この時,初めてソシアル・プログラムにも参加したのであるが,その華やかさは復興した北ドイツの粋を凝らしたものであった。学会場や,懇親会が開かれたエルベ河畔の由緒あるホテル,会場近くの大きな植物園などでは,日本から参加された著名な外科の先生方と親しくお話しする機会にも恵まれ,感激したことを思い出す。
 1987年のオーストラリアのシドニーでの第32回万国外科学会は,南半球で初めての開催であった。新しい町での開催でもあって活気があり,心なしか学会の雰囲気も若返った趣きがあった。この時も演者として参加したのであるが,開会式の会場でひとりポツンと窓の外のシドニー港を眺める大男を見て驚いた。数年前に私がミュンヘン大学でレーザー内視鏡学の教えを受けた,その道のパイオニアであるProf.Kiefhaberではないか。特別講演に招かれたこの内科学の教授は,外科医の集団の中では孤独感を抱いていたらしい。声を掛けると満面に笑みを湛え,大きな手で痛いほどの握手をして,左手で肩をぽんぽん叩かれた。「メインゲストとひらの演者」という格こそ異なれ,教授と同じ国際学会の舞台で発表できる幸せを噛み締めた。

メルボルンの思い出

 正直に言うと私にはオーストラリアを訪れるもう1つの目的があった。ふた昔前,メルボルン・オリンピックにボートのエイトで日本代表として出場した私は,青春を燃やしたあの場所にぜひもう一度立ってみたい,と思ったのである。
 懐かしいボート競技の行なわれたウエンドリー湖畔に建っているオリンピック碑に,確かにわれわれのクルーのJAPANという文字が今も刻まれていた。あの時は準決勝まで進出したのだが,突然の風雨は軽量の日本のボートを激しく揺さぶり,無念にも決勝進出を逸したのであった。まざまざと思い出しながら,陽の翳るのも忘れて立ち尽くした。当時の選手村の仮設住宅は跡形もなく,草ぼうぼうの野っ原と化し,まさに「兵(つわもの)どもの夢の跡」であった。湖だけはあの時と同じように,水面に黒いスワンが静かに浮かんでいた。思い出に心を残しながらも,満足して帰国できたのは万国外科学会のお陰である。

「万国外科学会」と日本

 この学会に日本が正式に参加したのはイタリア・ローマにおける第7回学会からで,当時日本代表として三宅速教授が出席してからである。だがその後,第1次および第2次世界大戦の影響は医学界にも波及し,国際的な学会の開催や世界各国からの参加も決して順調とは言えなかった。
 前記のように,戦後に日本は第27回学会を京都で開催したが,その後は些か低迷気味になった。その後,1993年の香港での第35回学会で,わが国が横浜を開催地として招致をしようということでお手伝いをしたが,アジアでの開催が重なるためこの時は機会を逸し,今日に至っている。この学会以来,私は日本代表として,また一昨年からは本学会の理事としての重責を担うことになった。
 第36回のポルトガル・リスボンでの学会において,日本人として初めて出月康夫東大名誉教授が本学会会長に就任された結果,日本支部は再び活気を取り戻したと言える。通常学会は会長のお膝元で開催するのだが,この学会は独特のシステムにより,「会長が全権を持ち,開催地の組織委員会会長に学会を運営させる」という方式を採っている。出月会長はユーモアを加えた余裕の英語を駆使したスピーチをはじめとして,会長としての任務を立派に成し遂げられた。
 以後,メキシコ・アカプルコ,オーストリア・ウイーンと学会も38回を終え,いよいよ本年はブリュッセルで創立100年記念の学会が催される。すでに手元に届いた学術プログラムによると,開会式に続いて,恒例となった学会目玉の「Grey Turner Lecture」が行なわれる。この名誉ある演者に,昨年第100回日本外科学会を主宰された北島政樹慶大教授が選ばれ,その日が今から待ち遠しい。現在米国に次いで会員数世界第2位の日本から,今回も多くの諸侯が8月の暑い日本を離れベルギー・ブリュッセルでの記念の学会に参加し,同時にヨーロッパの古典に触れられては如何かとお勧めするものである。


救急に弱い特殊専門医
――9・9(救急)の日に思ったこと

桜井 実(公立学校共済組合東北中央病院長・東北大学名誉教授)


名乗るべきか,名乗らざるべきか

 だいぶ昔のことだが,海外旅行に向かう飛行機内で,「乗客が体の不調を訴えているので,医者が乗り合わせていたら乗務員に知らせてほしい」というアナウンスがあった。成田で乗り込んだばかりで,ほとんどが日本人だったので,「まあ,外国語は使わずに対応できるか」とも考え,どんな状態なのかも知らずに,一応当方が医者であると名乗りを上げることにした。
 幸いにして,会社重役風の人が冷や汗をかいて喘いでいる程度で,意識不明で倒れているというのではなかった。脈の触診からすると血圧は低く頻脈である。深呼吸を勧めたらすっかり落ち着き,「このまま飛行機に乗って出かける自信が出た」ということになって,私の役柄は終った。出張を前にして,寝不足が続き疲れていたのだそうである。
 そのような呼出しは,昔の国鉄時代の列車の中でも遭遇したことがある。車掌に,「請け合うことにしよう」と話すと,医師である証拠を見たいと名刺を取り上げられた。青森に行く途中の北上駅で,具合が悪い人と一緒にホームに降りて救急車に手渡してから,私は1本遅れの列車で旅を続けた。これだけの世話をしたのだから,国鉄から私の名刺の住所あてで礼状が来るかと期待していたが,無しのつぶ手だった。
 そういう偶発事故は,その後も何度か経験したが,駆けつけてみたらもうすでに数人の医師らしい人が傷病者を世話していたので,黙って引き返したこともあった。しかし,苦労を背負い込んでみても,どうせ国鉄は謝意を示すわけでもなさそうなので,以来,国鉄の中では知らん顔をすることに決めた。

医師の出る幕,までもなく

 本来,医師であれば人道上の診療拒否はできないはずだが,列車の中で,誰かが心筋梗塞でばったり死んだとしても,乗客すべてを調べて医師がその中にいたかどうか調べることもありえない。
 一方,よく考えてみると,治療の道具も薬も持ち合わせもないところで,しかも循環器の専門家でもないのに,「医者である」と名乗ってみたところで果たしてどんな医療行為ができるのか,と問われるときわめて心もとない。
 ある夏の暑い日,長距離バスの中で,たまたま私の教え子の若い医師と出会って,挨拶を交わしたことがあった。ワンマンバスの運転手は高速道路をばく進している車内で,「子どもさんがひきつけを起こしています。この中にお医者さまはおられないでしょうか」とマイクに向かって叫び出した。
 「君,面倒をみてやれよ」とは言わなかったが,私が目配せをしたので,彼はすぐに母子のところに進んで行った。
 私は,「誰からでもよいから,飲み物をもらって,とにかく飲ませなよ」とアドバイスしたが,その幼児は予想通り,暑い日ざしの中を母親に連れ回されて,脱水状態であったのである。こんな処置は,医師でなくても人生経験の中で,大概の大人なら知っていることであろう。
 医師の出る幕というのは大袈裟すぎるのかもしれない。
 阪神淡路大地震以来,危機管理が注目され,災害に際しての薬品や医療器具の備蓄が小さな市町村でも,中核病院でも,検討され始めている。夏の水難事故が多発するころになると,一般の素人も人工呼吸の訓練を受ける。
 最近のことだが,私の病院では9月9日の「救急の日」に消防局から救急救命士を講師に呼んで,医師ではない一般職員を対象に救命蘇生の研修会を開いた。一旦緩急の災害時には,群衆がうちの病院に押しかけて,けが人を運び込んで来ることを想定して,医療職でない事務員でも,いちいち医師を呼ぶ間もない事態で対応を迫られた場合に,一般素人よりはましな処置ができることを期待してのことであった。

専門分化すればするほどに

 そういう災害時を予想した場合の医療を考えてみた時,気道の確保,補液と循環の管理など,はたして何割の医師がやり得るだろう。少なくとも,私がかつて列車で世話をしたなどということ自体,失格の類であるし,私の専攻してきた整形外科の中でも,外傷の現場に取り組んだ人以外は,麻酔医の真似ごとのようなことすら不可能である。内科の医師だって循環器を専門とする人以外は怪しいかもしれない。ましてや眼科,耳鼻科はどうだろうと考えると,専門診療科が独立して細分化していく時代に,きわめて気になる問題でもある。


アルゼンチン紀行

高橋政祺(杏林大学医学部名誉教授)


地球の正反対側の国へ

 日本から一番遠い国がアルゼンチンで,完全に地球の反対側にある。飛行機に乗っている時間だけで24時間以上かかり,直行便はないから乗りかえの待ち時間を入れれば30時間にもなる。首都のブエノスアイレスは日本の静岡の位置で,冬の最低気温が5℃で雪は降らず,夏は30℃までで,春夏秋冬の四季があるのであるから,これほど気候に恵まれた国はない。さらに国境は山脈に囲まれているが,国土の90%がすべて平地なのだから,日本のように平野が少ない国から見ると羨ましい限りである。
 人口3千万人で,牛はその2倍の6千万頭もいる。世界中に小麦や牛肉を売っている農業国であるが,わが国ではアルゼンチン牛は野生で口蹄病があると称して,イギリスとともにその輸入を禁止している数少ない国の1つである。この良質で非常に安価な牛肉が入ってくれば,わが国の畜産農家は全滅するであろうから,政治的には仕方があるまい。
 南米はどこの国も治安が悪く,旅行者が独りで出歩くことなどできないが,アルゼンチンだけは唯一の例外である。ブエノスアイレスの治安は非常によく,深夜ダンスホールから若い女性が独りで流しのタクシーに乗って帰れるのであるから,そのよさが証明できよう。
 現地の人たちは私に,「以前はよかったが最近は物騒になったので,貴方も気をつけなさいよ」とよく言われる。しかし,私は深夜遅くまで独りで出かけても,不安を感じたことはまったくない。日本と同様,一般人はピストルを持っていないから,米国の夜とくらべれば格段に安全である。
 言語はスペイン語で,ホテルの受付係は英語を話せるが,街では英語はまず通じない。日本からの観光客は年間数千人の渡航でしかない。しかし,訪れてみると必ず,また来たくなる国である。8割方が白人で,イタリー系,スペイン系が多く,残りがインディオとの混血である。黒人はまず見かけることはない。そして,彼らは他の東洋人はあまり好きでないのに,日本人だけには非常に好意的である。外国でこのように親日的な国民が多いのは,近くでは台湾,遠くではアルゼンチンである。
 これは歴史的にも非常に古くからで,日露戦争の時に,アルゼンチンがイタリーの造船所で建造中であった「日進」と「春日」の2巡洋艦を,ロシアからの交渉を振り切って開戦直前のわが国に売却してくれ,日本海海戦にはそれにアルゼンチン海軍の観戦武官まで乗船させて,大活躍させたことは,昔の子供たちなら小学校で聞かされた話である。
 最近ではわが国民の勤勉と機械工学の優秀性が彼の国でも評判となっており,日本人を見習ってよく働けとは,指導者の言としてもたびたび聞かれる言葉である。

アルゼンチンタンゴに魅せられて

 アルゼンチンと言えばタンゴで,私もこの音楽に惹かれて,杏林大学を定年退職の年1992年に初めて渡航した。それまでできなかった,自分の遊びだけのための外遊をしたわけである。するとそこにいるアルゼンチン人の人情が,私の子どもの頃の戦前の古き良き時代の日本人とそっくりであった。これはよい国に来たものだ,と私はすっかり喜んだ。米国人に常に感じていた違和感がまったくないのである。特にタンゴダンスに興じる人たちは素敵であった。
 そしてこの「タンゴ・アルヘンティーノ」の米国公演のヒットや,ニューヨークのブロードウェイでの長期公演の成功などによって,タンゴダンスが各地で引っぱり凧になり,ヨーロッパにもこれが波及した。このため現地でも他の踊りからタンゴに転じてくる人が多くなり,数百組ものプロのタンゴダンサーが犇(ひし)めくことになった。
 こうして現地では休業していたタンゴバーが次々に再開しだした。しかし,ここにきて世界的な不景気の到来である。特に南米諸国はあまりよくない。そのため周辺諸国からの観光客が減ってきている。その煽りを受けてタンゴバーの経営は苦しくなってきた。
 私は定年後,遊びの人生のほうを選択したので,毎年ブエノスアイレスに行くようになった。年に2回も行く年もあり,この8年間に12回もの長期滞在を繰り返している。大正生まれのこの私に,まだ本格的な老化が到来してこないのは,このブエノスアイレス滞在の余慶とも思われる。
 わが国民が世界一の長寿国民になったことは喜ばしい限りであるが,同級生を見るとどうも老人くさくなって手足の不自由さをかこつ者が多い。楽な恵まれた豊かな暮らしの副作用のようにも思える。生活習慣病の防止とその先送りがこれからのわが国の課題であるが,楽しい最後の老春を送ってからお別れさせていただけるように,密かに願っている今日この頃である。


四匹目の猿

菅野剛史(浜松医科大学副学長・病院長)


四匹目の猿の発見

 この頃は,○○七福神と言うのが下町であちこちに見受けられる。隅田七福神,下谷七福神などは古くから知られているが,私が知らなかった所以もあろうが,名の知れない七福神が各所で見受けられる。時々,この七福神に交じって「見ざる」,「言わざる」,「聞かざる」の三匹の猿が年の暮れに見受けられるのもひとつの決まりのようだ。この猿たちは,圧政に耐える庶民の生きざまと知恵を如実に表したものと言える。見ていても見なかったことにする。言いたくても「物言えば唇寒し」であり,話そうともしない。聞いていても聞こえなかったことにしたい。これらは,暴君の下で,うまく立ち回るご家来衆の生き方を示し,会社人間での平社員の処世術とも理解されている。でもどうして年の瀬に現れるのだろうか? 借金があっても無かったことにしてもらうためであろうか。
 それはさておき,4年ほど前であろうか,香港に旅行した際に露天の土産屋で,もう一匹の猿が加えられた四猿が売られているのを見つけだした。この四匹目の猿は,どんな猿であったのだろうか。なんと腕から手のない海豹(かい)っ子の猿であった。
 思い出すのがサリドマイド事件であったので,「これは,サリドマイドのような薬害を訴えたものであろうか」とお店の人に聞いてみたら,「この頃は,こういう人間が多くなってね」という答えが返ってきた。
 なんでも初めは,手錠をかけた猿を作ったが,印象が悪いのかあまり売れなかったそうだ。そこで,海豹っ子にしたら売れているそうだ。そして,できれば「言わ猿」を止めて,この「サリドマイド猿」と取り替えた三猿にしてもよいという話であった。要するに,「手が動かない人間が増えてしまったから,不器用な人間が増えてしまい,どうしようもない」ということの表現が,この「サリドマイド猿」であるという話であり,さらには,言わ猿どころか姦(かしま)しい猿も多くなったからだ,と言う。

不器用であることと訓練と

 「近頃の若者は」とは言わないが,若者の中にこのような存在がたくさんいるような気がしてならない。しかも,不器用で手が動かないのではなく,体がついていかないのでもなく,初めから頭の中に手を動かす発想が湧かないのである。
 不器用は訓練すればよい。体がついていかないならば,やはり訓練であろう。しかし,発想が湧かない人は,訓練で手が動くようには期待できないと思う。訓練すればよいのか,洗脳しなくてはならないのか,これを見分けるのは大変難しい問題であると思われる。
 思い起こしてみるに,わが大学でもこのような現象が起こりつつあるようだ。入学時に,どちらかを見分ける術を考えざるを得ない。いや,わが大学だけではない。いわゆる高等教育を受けている学生たちに共通して,この現象が起きていると言っても過言ではない。
 鉛筆削りのナイフはなくなった。果物は剥かれて食べるだけになって食後に現れる。夏休みの宿題の工作は,お父さんの工作である。これでは,子どもたちが器用になる機会が与えられていない。そして,お勉強だけをする子供たちの手は,ますます萎縮していくのである。萎縮するうちに,発想もできなくなってしまうらしい。しかし,ピアノを弾いたり,決して全員が不器用になっているのではないことと訓練が必要であることを考えると,何か策が浮かびそうだ。

不自由をさせて教育する

 大学の面接試験で,リンゴとナイフを置いておき,きれいにリンゴを動かして皮の剥けた生徒を合格としたい,という考え方もある。大学の入試に出ることで,「河合塾」がこれを取り上げて皮むきの訓練をするならば,訓練が重要であることと,浪人時代にビタミンCが補給できるだけでも素晴らしいことではなかろうか。多分,発想の湧かない人は,この出題が,何を要求しているのかがわからないのではないかと考えられる。しかし,予備校で,何をするものかを教えるならば,これを繰り返すうちに,忘れていた神経回路が繋がってくるかもしれない。
 これからの大学は,学力が不十分である人の入学を阻止することを要求するのではなく,入ってから訓練することが重視される時代になると思われるので,大変気長な予防策が必要なのかも知れない。ただ,考えられる予防策は,便利になった世の中に,多少不自由をさせて教育することではないかとも思われる。前向きの臨床実験をしたくなるような課題かもしれない。
 どっかで新春からずれたみたいである。


笑いの効果
――脳にどんな影響をもたらすか

中島英雄(中央群馬脳神経外科病院長)


 「笑い」が体によいと言われ始めて久しいが,さて体のどこに,そしてどのようによいのかということになると「ハテ?」ということになってしまう。

病院寄席の思わぬ効果は

 私どもの病院では昭和63年4月に開院以来,月1回「病院寄席」なるものを開いている。しかし,当初は特別な目的はなく,ただ私が子どもの頃からやっている「落語」がやりたくて病院内に常設の寄席を作ってしまったまでのこと。しかし,職員にはあまり評判がよくない。曰く「院長先生の趣味のためにどうしてあんなに大きな部屋を占拠されちゃうんですか? 私たちは休憩室もないのに……」とかなんとかいろいろう五る月さ蠅い。そこで何か大義名分を,と考えていたのが,「笑いは脳のリハビリによい」というあてずっぽうな口実だったわけです。
 しかし,そんなことをあちらこちらで言いふらしているうちに,マスコミの方々から「脳のリハビリによいと言いますけど,具体的にどうよいのですか?」ときた。弱ったね。口から出まかせだったんだから。でも,「ウソでした」とは口が裂けても言えません。そこで患者さんにお願いをして,寄席の前後の脳波を測定させていただきました。どうせ大した結果は出ないだろうとたかをくくっておりましたが……。ま,せいぜい笑えばリラックスをしてα波が増えて,β波が減少するかな程度のことしか期待はしていなかったのですが……。いやいやどうしてどうして,50例も集計してみるとおもしろい結果が出ましたね。私の予想を裏切って,α波と同時にβ波も増えたのであります。
 さて,これはどういうことなんでしょうか。学会発表の際,フロアにおられた先生から「α波が増えてリラックスしたと同時に,脳機能が回復してβ波が増えたのではないでしょうか」。こりゃありがたい,そうだそうだその通りだ,ということにしていただきました。
 さらに最近の分析でもう1つおもしろいことがわかってきました。それは女性のほうがα波の増加率が高いということです。私も高座の上から見ておりますと,男性より女性のほうがよくお笑いになるのでは……と感じておりましたが,これで実証された訳です。「女性のほうがよく笑う」のです。ですから「女性のほうが長生きする」わけです。

脳の血流量にも変化が

 さて,次にSPECTを使って「寄席の前後の脳の血流量の変化」を測定してみました。まだ22例しか集まっておりませんが,笑った後は確実に脳血流量が増加しております。ここで大事なことは,笑わなかった人,笑えなかった人は血流量は低下していたのです。で,私は初めの予想は「笑い」は感覚的なものだから,「右脳」の血流量が増加するものとばかり思っておりましたが,これまた予想は大きく裏切られまして,「左脳」のほうが血流量の増加率が大きかったのです。ウ~ム,唸ったね。何で?とまた,フロアの先生から「落語というのは意外と論理的なものでしょうし,言語を介しての笑いだとすれば,左脳でいいんじゃないんでしょうか」とアドバイスをいただき,再び「ごもっとも」ということにさせていただきました。
 そしてさらには前頭葉,側頭葉,後頭葉,大脳深部(側頭葉内側,おそらく海馬や扁桃体)のどこの血流が一番増えるかと分析したところ,実にこれが左側大脳深部がダントツに増えていたのです。まだ男性と女性ではどうか,というところまではいっておりませんが,私の予想(これがまたよく外れるんですが……)では,男性は左脳で女性は両側とも血流が増えるのかな?と思っております。ハテ,どうなりますやら。
 笑いの起源は,動物が有害なものを口からカッと吐き出す動作だと言われていますが,もしこれが本当なら,脳の深部(古い脳)の血流が増加する,ということもうなずけるような気がいたします。今年はさらにいろいろな笑いについても探求してみたいと思いますが,まずはこれまで。