医学界新聞

 

【新春鼎談】

新世紀―――日本の医療は
どう変わらなければならないのか

黒川 清氏
(東海大医学部長=司会)
日野原重明氏
(聖路加国際病院理事長)
李 啓充氏
(マサチューセッツ総合病院)

 医療不信に包まれた世紀末を抜けて新世紀へ,私たちはここに新たな歴史を拓けるのだろうか。妥協のない言葉を医療界へ発し続ける日野原重明,黒川清,李啓充の3氏に,日本の医療はどう変わるべきなのか,新世紀の初頭に語っていただいた。


日本のあり方が問われた前世紀末

黒川 明けましておめでとうございます。いよいよ21世紀を迎えましたが,多くの課題を抱えながらの新世紀への船出です。日本の20世紀末は「失われた10年」と呼ばれ,経済に限らず,社会全体がさまざまな意味で停滞し,これまでの日本のあり方そのものが問われるようになりました。
 その背景には,2つの大きな要因があると思います。まず,交通手段の発達です。年間1600万人の日本人が外国に行き,数百万の外国人が日本に来る。一般の人が外の世界に直接触れるようになった。すると,病気になった時に受ける医療の質が国の内外でかなり異なるということがわかってきたのです。第2には,情報手段の発達です。昔はニュース映画でしか海外のことは見られなかったものですが,いまやテレビでいつでも海外の事情を知ることができる。例えばドラマ番組「ER」などが放映されれば,米国の救急医療は日本とはかなり違うということが知られるようになります。
 さらに1994年以降,インターネットの爆発的な普及により,どこでも誰でも世界中の情報にアクセスできる社会になった。つまり,情報がグローバルにシェアできるようになった。医療のあり方についても,海外との比較が,医師ではなく,一般市民によって可能になってきたのです。
日野原 私がつくづく考えるのは,ヒポクラテスの時代以降,なぜ「メディスン」が期待されるように成長しないのかということです。医学は一見,非常に進んだように見えますが,そこには「クリティック(批判,批評)」がない。絵画でも音楽でも,他のすべてのカルチャー,アートでは,それを実践する画家や作曲家,演奏家以外の人間によるクリティックというものを産み出してきた。ところが「メディスン」という,アート・オブ・サイエンスは,同業者以外には自らの姿をさらさず,情報を外に出さなかったために,それを見る目をもった人が医療者以外には存在しない。まるでわがままで守られてきてしまったのです。これは日本だけではなく,外国でも長い間そういう時代がありました。
 医療の内部においても,互いを批判し合うことが避けられてきました。しかし,20世紀に入って米国では,「ピアレビュー」いう形で同輩同士がお互いの仕事の内容をチェックしあう「システム」をつくり,カルチャーとして定着させてきました。例えば,病棟で実際の患者さんの症例を検討する際にも,常に互いに批判し合う。そしてその中で学ぶ。医療事故の対応にしても,JCAHO(医療施設評価合同委員会)が「警鐘的事例」という制度を始め,ニアミスを含めた事故から学ぶということを徹底させ,さらにその情報を共有しています。ところが,日本ではいまも「ピアレビュー」ということがまったく欠如していて,同じ医療の中でも,お互いのやっていることは,例えば出身大学が違うと知らんぷりをしてしまう……。
日野原 同じ循環器の専門でも,外科医がやっているところへ内科医が入ってくると「私の専門畑のことを何を言うか」と言う。同じ循環器でも心臓外科と内科とは,互いにあまりものが言えない。したがってかばい合う。医療事故を起こしてもお互いに外に出ないよう隠してしまう。
 また,皆グループをつくる。たむろして,昼ご飯も,宴会も,旅行もいつも一緒,小さな世界の中のさらに小さな世界ですね。

自己変革できぬ日本の医療

黒川 これは日本固有の問題でもあります。ルース・ベネディクトの『菊と刀』(社会思想社)や,池上英子の『名誉と順応』(NTT出版)など読むと,日本人の精神構造が徳川時代にできあがっていることがわかります。この約300年にも及ぶ時代に,「生まれたところから外に出れない」というカルチャーができあがってしまった。加えて,上下を重んじる縦社会ですから「ピアレビュー」などできるはずがありません。
 しかし,このような固有の文化はどこにでもある。ドイツやフランスにも固有のカルチャー,そして歴史の縛りゆえに変えられない部分がたくさんあるのです。ところが,米国だけは例外です。そもそもがフロンティア精神あふれる移民の国であり,また,300年の歴史しかない多民族国家であるがゆえに,歴史の縛りを受けずに,異文化間に共通の価値をつくろうとする。したがって,医療や法曹,ビジネスや金融,科学研究など,あらゆる分野で常に時代を先取りしようというスピリットがあり,それが多民族国家であるゆえに,普遍的な価値を備えようと努力する素地があるのです。
 つまり,交通と情報技術の発達を背景に世界が共有の価値を求めると,多民族国家である米国の価値観にどうしても近づいてしまう。そこにいかに追いつこうかと,日本も他国もがんばっていますが,それぞれ固有の歴史とメンタリティに縛られて,自己変革できないという状況だと思います。
日野原 米国は何においても,まず「システム」をつくります。そして「システム」に則ってすっかり作戦を変えるという大胆なる冒険をやる。しかし,新しい戦略を立てても,おかしいと思えばすぐに退却をして,戦略を組み立て直すというフレキシビリティもそこにはあります。日本は逆にどこを見ても「システム」がないのです。

21世紀という危険な時代

日野原 私は21世紀というのは非常に危険な時代になると思っています。いまの家庭の崩壊ぶりには,危機の予兆を感じます。一昨年,ボストンに行く途中の飛行機で隣になった米国商社の米国人ビジネスマンは,「日本で働くと休暇がとれない。でも,『18になる娘の誕生日に帰りたい』と上司に頼んだら,4-5日の休暇が取れた」と言う。それだけのために帰ると言うのですよ。現在,離婚率などは米国のほうが高いでしょう。しかし,家族を大切にする姿勢や躾けに対する考えはしっかり残っています。そして子どもが大学生になると,矢を離したように束縛しなくなる。そこからは彼ら自身がやるんだということです。日本はいつまでも,綱がくじらを釣るように親がついてるでしょう。だから自立しない。自立心がないから医学生にも勢いがない。
黒川 個人主義というものがないという日本特有の問題もありますね。それは徳川の鎖国の間にできてしまったことです。雪印,三菱自動車,ブリジストン,そごう,神奈川県警,新潟県警……,すべてそうでしょう。外に対して自分たちの責任を果たす前に,内輪(村社会)の論理で隠してしまう。つまり,日本人のメンタリティは共通しているんですね。しかし,これからのグローバリゼーションの時代に,特にプロと言われる,世界的に共通の価値観をつくるような人たち……,医療や科学,金融などにおいては日本式ではやっていけないということは,考えなくてはなりません。
 黒川先生が個人主義という言葉をお使いになられましたが,夏目漱石は学習院の大学生たちを前にした有名な「私の個人主義」という講演の中で,「あなた方は将来権力・金力をふるう立場にあるんだから,ちゃんと人格や徳義心というものを修養しないといけない」とエリートの心構えを説いています。しかし,皮肉なことですが,日本の社会がエリートの人格や徳義心を前提としてその仕組みをつくってきたことに,実はさまざまな問題の根があると思うのです。
 日本と対照的に米国では,権力を握った人間はそれを濫用したくなるもの,権力の濫用を防ぐ仕組みを社会に用意しないといけないということで,「checks and balances(権力の抑制と均衡)」という原則が社会の隅々に行き渡り,医療もその例外ではありません。医師は患者に対して非常に強い立場に立ちうる存在ですから,医師や医療の質について社会がチェックする仕組みがあるのです。
 ところが,日本は基本的に医師の人格や徳義心を信頼するという原則で制度をつくっていますので,能力に欠ける医師や,患者をアビューズしたりする医師を排除することが難しくなっています。医療だけでなく,政治や警察や教育の問題にしても,これまでエリートの人格や徳義心に頼って社会の仕組みをつくってきたのに,肝心のエリートの質が悪くなってしまってその仕組みが機能しなくなってきていると言えるのではないでしょうか。
 私は,最近出版した本(『アメリカ医療の光と影』〔医学書院刊〕)の中で,「医療のグローバル・スタンダードはトランスペアレンシー(透明性)とアカウンタビリティ(説明責任)だ」というジョージ・アナス氏(医療倫理・法学者)の言葉を紹介させていただきました。実は,医療に限らず,日本の社会全般にはこの2つが見事に欠落しているんですね。例えば,最近の政治や警察のスキャンダルを見ていても,日本の社会は透明性や説明責任と縁のないところで長いことやってきたということがよくわかります。
 黒川先生が米国社会の特殊性ということをおっしゃいましたが,世界中からいろいろな民族が集まってきてどうしたかというと,司馬遼太郎さんの言葉を借りれば,「アーティフィシャル(人工的)」な国家をつくった。歴史が,長い社会では伝統や慣習などが社会の構成員の間で暗黙に了解されているのですが,そういったバックグラウンドがない米国では,ルールをいつも明瞭に紙に書き,それを守らない者は罰するという社会をつくったのです。しかし,ルールが悪ければすぐに変える。例えば,禁酒法のようなルールはすぐに書き換えたわけですね。
 ところが日本の場合,例えばカルテ開示の問題についても,「ルールにする必要はない」と言う人がいるわけですね。明瞭なルールのもとで皆で公平にルールを守ってやっていくという発想がない。「医療は特別だから,よけいなルールをつくってもらう必要はない」と,医療を治外法権化する言い方は,内輪でしか通用しません。

システムなく芽が伸びぬ社会

日野原 21世紀に私が非常に心配しているのは,教育にも研究にも「システム」がないということ。また,研究の畑がないということです。日本の若い人はすばらしい種子を持っていても,その種子が砂地に落ちる,いばらの淵に落ちる。だから伸びない。利根川進さんは,免疫について新しいセオリーを導かれましたが,彼は京大理学部を出て渡辺格教授(当時京大ウイルス研教授,現慶大名誉教授)のところに行った。すると渡辺先生は,「1年でぼくは退官する。医系の君の面倒をみることはできないから,紹介する米国の研究所に行きたまえ」と言って道を開いたそうです。彼は日本には畑がないということをよく知っていたから。
 本当は畑を与えればクリエイティブな発想があるのに,お金を持つのは教授で,自分が30年,40年前から続けているリサーチを,「君,これやりたまえ」って下請けでしょう。こんな国はないですよ。これまで400人近いノーベル生理学・医学賞受賞者が出ているのに,日本のエリートが行くはずの医学部の卒業生が1人もいないというのは不思議な話ではないですか。私は米国でよく聞かれます。「米国に来ている日本の研究者はすばらしいけれども,なぜ日本から(ノーベル生理学・医学賞の受賞者が)出ないのだろうか」と。
 では,一方で臨床医学はどうか。日本では臨床医学の教育システムばかりか,精神もまだ根づいていませんよ。米国では,教員がティーチングによって「エクスタシー」を感じている。ジョン・ウィリス・ハースト(『The Heart』の編著者として知られる心臓病学の大家。教育にも情熱を傾け,『Dr.ハーストの医学教育論』〔医学書院〕などの著作がある)も「エクスタシー」ということを言っていますが,教えることによって,ものすごくよい気持ちになる。自分のティーチングによって,伸びている若者を見ると,自分のスピリットがそこで生きているんだと感じて興奮するのです。
 私が1951年にエモリー大のビーソン教授のところに行った時の話ですが,「レジデントの眼底所見はあまりあてにはならない。東洋には高血圧が多いから,今日の回診では,ぜひ(日野原)先生に指導してもらいたい」と言われて驚いたことがあります。米国に行くと,「今朝の回診を代わりにやってくれ」とか,「朝のリポートミーティングに私は遅れるから,チェアマンの席に座ってレジデントのリポートを受けてくれ」と,当然のように言われる。そして,レジデントたちは私に敬意を持って全部リポートをする。来た人にご馳走するのではなくて機会を与えるのです。
 それに,彼らは決して「知らない」と言うことを恐れない。私も若かったから恰好をつけて難しい言葉でビーソン教授に質問したら,「I just don't know」とさらりと言うのですよ。日本だったらなにか屁理屈でも言うところですが,「それはチーフレジデントが僕よりも知っているから聞いてください」とか,「『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン』の先月号にあるから,君,読んで僕に聞かせてくれ」というように,単に「知らない」というのではなく,「どこかでそれをやりなさい」というふうに。これは米国に行って学んだことの1つです。人前で大胆に「知らない」と言うこと,屁理屈は言わないということ。
黒川 上下の人間関係ではなくて,パートナーなんですよ。ホリゾンタルな人間関係なんですよ。うちの学生を米国や英国に行かせると必ず,「学生が知らないからといって怒られることはまったくない」,「皆で育てようとするので,すごく乗せられて,勉強する気になる」,「先生が全然違う」と皆,異口同音に言ってきます。日本だと,「お前,そんなことも知らないのか」と言われてしまい,怯えている。
 私は研究職の人間ですが,米国に留学して来られる日本のドクターたちを見ていてつくづく思うのは,ディスカッションとかディベートのルールに慣れていないということですね。例えば,米国の研究カンファランスでは必ず発表者を質問攻めにしますが,これはカンファランスというのはお互いにポジティブなインプットを加えあう場,相手を高め合う場である,という認識があるからです。ところが,日本から来たばかりの先生が質問攻めにあうと,「自分が攻撃されている」というように受け取って,言い訳がましく(ディフェンシブに)なったり,感情的(パーソナル)になったりする傾向があります。これはただ英語という言語の壁があるからではなく,ディスカッションが下手な人と言うのは,きっと日本語でもディスカッションが下手なのではないかと思います。
 また,私が10年前にマサチューセッツ総合病院に加わったばかりの頃に,ちょうど湾岸戦争がありました。湾岸戦争をめぐって,ユダヤ系の研究者とアラブ系の研究者が掴みかからんばかりの勢いで口論するのですが,いざ研究カンファランスが始まると何事もなかったかのように,にこにこと科学の論議に集中する様子を見た時は「これがプロフェッショナルというものだ」と感心しました。
日野原 エモリー大学の病院は,アトランタ州ジョージアの下町にある汚いところでね。米国に行って,こんなに教授室が粗末なところもあるのかと思っていたけれど,ヌーンカンファレンスに行くと,毎日身長が伸びる感じですよ。39歳で第2の青春期かと。本当に伸びるのだから,背が。
黒川 本当にそれはありますよ。「システム」とおっしゃったけれど,常にそのシステムを評価・修正し,誰が来ても一定の水準以上に育てる。
日野原 そう,誰が来てもね。
黒川 だから,日本人でも中国人でも何人でも,そのシステムに入れば,例えば内科の臨床研修の3年後には必ず一定のレベルに達する。米国中どこでもそうですからすごいですよ。米国の医学部は4年制のカレッジを出た人が入りますが,医学部ではいろいろなバックグラウンドを持った人を採り,さまざまな人材を混ぜる。しかも,卒業してからの臨床研修も,全国コンピュータマッチングによって必ず混ぜる。異なる文化や価値観を持つ人々が混在する中でプロを育てないと,社会に対してアカンタブルではなくなってしまいますから。

「明治維新」に学べ

日野原 明治初期には,北海道の果てに,そこには汽車も何もないようなところに,「とにかく教育だ」ということを掲げ,若い政治家たちがたくさんの小学校をつくった。札幌の農学校には新渡戸稲造さんのような人がいたでしょう。あれだけの革命的なことをやったのに後が続かないということはね……。21世紀には,明治維新と同じことをさらに思い切ってやらなければならない。
黒川 明治政府は小学校を全国に250つくったんです。皆に読み書きそろばんをさせるぞと。そして帝国大学ができたのは明治19年(1886年)です。それまでに,明治政府は,植民地化されようという時にとにかく教育が大事だというので,国の予算の30%を教育に使っているんですね。いまの政府がそんなことすると思います?外国からもたくさんの先生を呼んできました。ベルツ先生,スクリバ先生……そんな安い給料で来るわけないでしょう。明治40年間で260人の外国の先生を呼んできているのです。その人件費に国の全予算の10%を使っているのだから,すごいことですよ。人材の育成,教育にこんなにお金を使った国なんてありません。
日野原 一昨年,京大100周年の記念講演で私は,「われわれはどこから来たのか,われわれは何者か,われわれはどこへ行くのか」というゴーギャンの絵画を見せ,「京大はどこから来て,どうあり,どこへいくか」ということを問いかけました。京大は約100年前の明治32年(1899年)に東大に次いで発足した時に,解剖学教授と内科教授をそれぞれ3名にするということが法律で決められた。100年後の今でも,内科の教授は3名であるという医科大学はいくらでもあるじゃないですか。農学や工学,理学は,竹の子のように講座が増えているけれども,人間を治療をする医学は,100年前といまと変わらないというのは,誰がそうしたのか。少数の教授による「自分たちだけでよい」という少数者の超越意識がこうしたことを招いたのです。
 臨床も研究もできて,そして教育もできるという,医学部教官の神話というのがいけなかったと思います。米国でも医学部教官は三拍子揃ってないといけないと言われてきたのですが,米国内科学会が指針を出していまして,「そんなものはできるはずがない,1人の人間が3つすべてをできるはずがないじゃないか」と,はっきり言っています。例えばマサチューセッツ総合病院では,内科部長の下に副部長を3人置いて,それぞれリサーチ,教育,臨床サービスを担当させています。1人の人間が3つすべてに秀でることなど不可能だということを明瞭に認識したうえで組織の体制をつくっているのです。ところが,日本の医学部ではいまだに教授がトップに立って,臨床と教育とリサーチと……。
黒川 やっているふりをしている。それは利権の構造だからですよ。「長」になったらそれを手放したくないのですね。

早く目を覚ませ

日野原 最近,さまざまな教育的試みが医学教育でも多少はなされるようになってきました。しかし,いつになったら本当に目が覚めるのかと思う時があります。私は1968年にクリニカル・プロフェッサーを数多くつくらなければならないと文部省に提言しました。「日本の医科大学のファカルティ(教官)は米国の10分の1の数であり,これでは太刀打ちできない」と。そして一昨年また,21世紀医学・医療懇談会の時にもう一度同じことを発言したら,「臨床教授」以外に,「臨床助教授」,「臨床講師」をつくるなんて話になってきた。それでは駄目です。「教授」でないといけません。そしてその人は,科学研究費の申請を大学の名においてできるようにすべきです。最近ようやく民間の人が大学を援助するようになってきているのですが……。
 ここにきて「臨床教授制」という形だけはようやくつくりました。しかし,ここまで来るのに四半世紀かかった。35年前には,私は医学部の教授選考規約を変えないといけないと言ったのですが,これはまだできない。50年かかるという気がします。
黒川 しかし,世の中がこれだけ早く変わってきて,パブリックな価値観によって日本の医療が評価にさらされている。日本の中だけの話ではなく,世界中が日本を見てるわけです。その時に日本の研究のシステム,研究者,大学教員,金融,すべて笑いものになっているじゃないですか。それを知っているのに,皆認めないでごまかしている。
 先生がおっしゃった,今まで50年かかってもなかなか変わらなかったことが,今後50年また変わらなかったら,世界から相手にされなくなりますよ。例えば,いま学位制度なんてあるのは日本とドイツだけですよ。ドイツのシステムを明治に採用したから仕方がないのですが,ドイツも,医学博士制度では,教授の権限が強くて若い人が横に動けないからこれからやめると決めているのです。既得権のある教授たちが反対はしていますが。ところが,日本ではそれがおかしいという話すら出てこないところにこの国のおかしさがあります。
日野原 医者の本当のことを医者は書いてこなかった。書くとあたり障りがあるから。日本だけではなく,300年あまり前の英国の医療はどうかということも,その医療の実態を書いた医学者がいないのです。自分のことは書かない。こんな世界だから,医者以外の人を入れないと医療は変わらないのです。米国でプライマリ・ケア医の制度ができたのは専門医ばかりが多くなって住民が困るという「ミリス・レポート」が出たことによります。それを取りまとめた委員会は,10人中6人ほどがノンメディカルの人で,プライマリ・ケア教育について突っ込んだ議論がなされ,「医学教育の中でプライマリ・ケア教育に重点をおけ」という提言がなされました。
 一方,日本の専門医制度は恰好だけできていますが,本当に中身がない。日本医師会も19年にわたる各学会による学会認定医制度協議会の答申を取り上げることをためらっている。専門医制度の話は,また初めに戻っている感すらあるのです。それで私ははじめて激論をやって,「医療を受ける人が制度創設の議論に入れないから,医者の都合ばかりが優先されてしまう」と批判したのです。日本の医療は内部からの改造は無理で,外からの殴り込みが来て,それを受け入れざるを得ないような革命を起こさなければならない状況だと思います。

21世紀に医学・医療をどう変えるか

人を混ぜ,外を見せる

黒川 さて,では21世紀,世界からも見られている,皆も世界のことを知っている。例えばEBMにしてもインターネットなどの普及により,患者さんでも有用な医療情報にアクセスできるわけです。そんな時代に,21世紀の日本の医療はどう変わるべきでしょうか。実は,これは医療だけの話ではなく,先ほどから話にのぼっているように官僚もそうだし,銀行もそうだし,すべて変わらなくてはならないわけですが,ここは少し焦点を絞って,新しい時代を担う医師を育てるのにはどうしたらよいかという,少し明るい話をしたいと思います。
日野原 よい医療はプロフェッションです。「プロフェス」というのは皆の前で証を立てるということです。「私は医療のために私の身を捧げたい,そして皆のために研究をしたい」ということ。そういう気持ちを持つためには,高校,中学の間は塾だけ,そして何も知らない学生が,医師や看護職の大学に入るというのは本当におかしい。医学部に入学する前の4年間はアート(教養)を大学で学ぶようにすべきです。その上で,医者になりたいというモチベーションが本当にある人には,偏差値だけではなく,多角的にそれを評価して医学部に入学させるシステムを導入すべきです。そのような形で医学部を現行の6年コースから4年課程にしてしまうと,3分の1の学生が減る計算になり,私学では経営が困難になるかもしれませんが,国立では実験しようと思えばできるはずです。
黒川 医学部を米国の医学部(メディカル・スクール)のように4年制大学を出た人を入れるグラデュエート・スクールにするということですね。そのほうが私もよいと思います。そして,その医学部は自分の大学の卒業生以外の人を基本的に採るようにすることです。米国は同じ大学の卒業生は2割ぐらいしか入れないようにして,人材を混ぜます。それを制度化すれば日本でもかなり状況は改善されると思います。
 そして,出身大学の医局で研修することを禁止しなければいけません。
黒川 卒後においては米国のようにコンピュータによるマッチングで研修先を決めればよいのです。大学附属病院へは同じ大学から定員の2割ぐらいしか入れないようにする。あっという間によくなりますよ。施設間の教育が相互に比べられるようになってしまいますからね。そして,2年目の卒後研修では無医村に行くようにする。1人あたり4か月。すると無医村には常に2-3人の研修医がいることになるんです。無医村は日本からなくなってしまいます。そうしたらパブリックにもアピールできる。そのために研修のお金を出してくださいと言えば出すと思います。
 その後は,医局制度はすぐにはなくならないから,「3年目はどこにいくか約束していてもよい」ということにしておく,しかし,1回外を見ればかなり考えが変わりますよ。他でどういう教育をしているか皆わかってしまうから。米国のすごさはこれですよ。強制的にシステムで混ぜている。
日野原 だから,米国で少なくとも数年トレーニングを受けた若い教官が日本に帰ってきて,教授の代わりに回診させたら,学生は目を光らせますよ。どうしてこんなふうに成長してきたんだろうと。どういうシステムなのかと。だから,米国に留学はできなくても,黒川先生がやっておられるように,米国から指導者を招いてその雰囲気にエキスポーズさせることが大切ですね。
黒川 5年生を3-6か月,米国や英国にクラークシップに行かせる。若い先生を1週間行かせる。欧米の先生にもたくさん来てもらって回診してもらう。つまり,外のものをいろいろ見せることにより,それぞれがやりたいこと,めざしたいことの選択肢を増やすことが必要だと思っています。

第2の明治維新を起こすべき時

日野原 また,米国では医学教育のカリキュラムが,解剖学をはじめすっかり変わってきています。1年の時から外来に出て先輩の病歴聴取を見ながら,その患者さんは心筋梗塞でどうだという話になったら,午後になると,アンギオグラフィを持って解剖学の教室で心臓のモデルを見る。さらに今度はそれをナースの学生に教えるのです。学生にも早い時期に「教える」という機会を与えるのです。日本だと,上の人でないと教えないけれども。そして医学生にナースを教えさせると,知らないことが教えている自分によくわかるのです。
 いま妻が米国で臨床研修をしていますが,研修医,ドクター,教官,それからナースと,互いに教え合うと言います。例えば,救急のコースでも,研修医とナースが同じ試験を受けるのです。そこにはプロフェッショナルとして横の関係があります。
黒川 日本は縦社会ですからね。そのカルチャーをどう変えていくか。いままでのエスタブリッシュメントは無理だから,早く次の世代にそういうのを見せたいなと私は考えています。そうでないとすぐに10年経ってしまいます。いま20歳の子は30歳になってしまう。やはり教育が大切です。
日野原 いま,日本の政治は困難な状況ですが,「教育に最大の精力を注ぐことで団結をする」という政治家たちがいたら,私はそこに結集する人々はいると思います。それを明示して選挙をし,実践する。「教育が国を創るんだ」,「これは第2の明治維新だ」と言いながらね。いまは情報が世界から集まる時代ですから,明治時代よりは問題解決はしやすい状態でしょう。しばらく経済的困難があっても,よき子どもが成長し,本当に世界を愛し,そして立つような,そんな社会をつくるために目を覚ます政治家がどうして出ないのでしょうか。
黒川 日本のような資源のない国には人しかいないんです。だから,教育がいちばん大事なんです。いまからでもやらないといけません。英国のトニー・ブレアが首相になった時に,「3つの大事な政策を言ってくれ」と言われ,こう答えたそうです。「1に教育,2に教育,3も言えというなら3も教育だ」と。これがリーダーの見識というものです。「円周率は小数点以下を切り捨てて『3』にする」なんて馬鹿なことを言っている場合ではないのです。
日野原 21世紀が始まるというのは1つの区切り,1つのチャンスだと思いたい。ここで革命的に,明治維新以上の改革をしないとすべてが駄目になるという危機感を持って私たちは進まなければなりません。
黒川 ありがとうございました。


  
日野原重明氏
1911年生まれ。37年京大医学部卒,42年同大学院修了。51年米国エモリー大に1年間留学。その後,聖路加国際病院内科医長,同院長,聖路加看護大学長などを歴任し,現職。著書に『死をどう生きたか』(中公新書)など多数。
 黒川 清氏
1936年生まれ。62年東大医学部卒,67年同大学院修了。69年に渡米,南カリフォルニア大準教授,UCLA内科教授などを経て,83年東大第4内科助教授,89年同大第1内科教授。96年より現職。日本学術会議副会長。著書に『医を語る』(共著,西村書店)など多数。
 李 啓充氏
1954年生まれ。80年京大医学部卒,天理よろづ相談所病院で臨床研修の後,京大大学院を経て,90年よりマサチューセッツ総合病院(ハーバード大医学部)で骨代謝研究に従事する。現在ハーバード大助教授。著書に『アメリカ医療の光と影』(医学書院)などがある。