第2416号 2000年12月11日


 〔連載〕ChatBooth

 悪口を言う人々

 栗原知女



 生まれて初めてサッカーの試合を観に行った。国立競技場で行なわれた「ナビスコ・カップ」の決勝戦で,鹿島アントラーズ対川崎フロンターレ。私の席は,正面スタンドの最前列だ。すぐ真下が,選手たちの退場口になっている。
 「特等席だ!」と喜んだのもつかの間,すぐ隣から聞こえてくる若い女性の応援の声が,初体験にわくわくする気持ちに冷や水を浴びせてくれた。
 「バーカ! なんでそんな球を取れないんだよ!」
 「鈍い!」
 「遅い!」等々,大声で罵声の限りを尽くす。敵をやじっているわけではなく,これでも味方を応援しているつもりなのである。確かに,試合は彼女のひいきチームの劣勢に終始し,よい場面がほとんどなかったが,それにしても彼女の罵声はひどかった。暗い気持ちにさせられた。
 塾教師をしているカウンセラー仲間から聞いたことがある。最近の子どもたちの雑談ネタはというと,たいてい他人の悪口だそうだ。家で母親が他人の悪口を平気でしゃべっているのを聞いて,それが「習い性」になったのではないかと彼は言う。進学先の相談などで教え子の母親たちと話す機会も多く,そんな折り,しばしば耳にするのは,学校の担任の悪口。
 「教員にも問題があるのかもしれないが,それにしても,目上の人に対する遠慮や敬意がまったくない」と言う。
 悪口を言う人々は,悪口を言うことで感じる優越感によって,自分の存在価値を確かめているのかもしれない。悪口を言う心理とは,どのような心理なのかを考えてみた。相手と自分を比べ,その差異をネガティブにとらえる心理と言うことができるのではないか。ポジティブにとらえれば,ほめ言葉になる。
 学校で,職場で,家庭で,私たち現代人は,誰かと比較されることが多い。時には劣等感で苦い思いを味わうこともある。そんな思いのやり場が,何気ない会話の中に出てくる他人の悪口なのではないだろうか。そう思うと,悪口を言う人の心がいかに傷ついているかを想像できる。
 子どもの時に親から虐待を受けて育った人は,そのつらさがわかっているのに,自分の子どもに対しても虐待してしまう人が多いという。いたましい連鎖である。他人の悪口をいつも言っている人も,同じような連鎖に縛られているのかもしれない。他人と比べないほうが,ラクに生きていけるのに。比べる時に念頭にあるのは「標準」や「普通」という基準である。はなはだあいまいな基準なのに,これが気になって仕方のない人がいかに多いことか。節目ごとに行なわれる乳幼児の健診で,標準よりも自分の子どもの成長が少しでも遅れていると,
 「子育て能力の通知表に1や2をつけられた気がする」と言った母親がいた。こんなことが育児ノイローゼのきっかけになるのかもしれない。
 普通じゃなくたって,標準に届かなかったり,オーバーしていたっていいじゃない。個性の時代と言われて久しいけれども,標準や普通ということを気にしていたら,個性が花開くことは決してない。人間は1人ひとりみな違っている。この違いが,人類を高度に発達させてきたのである。違いをポジティブに認め,悪口よりはほめ言葉を。ほめ言葉が歯の浮かない程度に定着してくれば,この社会はもっと生きやすくなるだろうに。