医学界新聞

 

ハーバードレクチャーノート

連載 最終回 マクロ医学

浦島充佳(ハーバード大学公衆衛生大学院・東京慈恵会医科大学)


ハーバード大学の紋章には“VERITAS”と刻まれています。これはラテン語で“真実”を意味します。学問は「真実の追究」なのです
 2000年春,ハーバード大学公衆衛生大学院において「21世紀の疫学」と題したシンポジウムが催されました。あまりにも大きなタイトルであり,一般論で終わってしまった感がありましたが,私なりの拡大解釈を加えて解説したいと思います。

マクロvsミクロ

 「マクロvsミクロ」という言葉は,経済学において好んで用いられます。経済構成単位を個々にとらえるのがミクロ経済学であり,全体としての動きをとらえるのがマクロ経済学です。例えば,個人消費,ある店の売上,ある会社の利潤はミクロでとらえることができ,国民総生産,失業率,倒産件数,株式市場,為替などはマクロと言えます。ですから,ミクロとマクロの違いは個々にみるか全体としてみるかの違いに過ぎません。これと同様に医学の世界においてもミクロ医学とマクロ医学を定義することができるのではないでしょうか?

マクロ医学vsミクロ医学

 医療を考えた時,多くの医師は患者の訴えに耳を傾け,診察し,診断を考え,治療を施します。これはまさにミクロ医学と言えます。一方,喫煙すると肺癌が増えるとか,近年日本国内における感染症死亡が増えているとか,特定の地域で特定の疾患が増えている,臨床試験により治療法を比較するといったとらえ方はマクロ医学に相当します。個々の患者診療だけでは決して全体像がみえてきません。人はすべて違います。ある人に起こったことが他の人に起こるとは限らないのです。だからと言って,ミクロ医学を否定するわけではなく,ミクロ医学とマクロ医学はお互いに補い合います。そして両者は,「人々の健康を維持し,病気を治す」という最終目的を共有します。ただ目的に達する切り口が,「全体から入るのか」「個人から入るのか」の点が違うだけなのです。

分子生物学から地球まで

 ミクロとマクロをそのように考えた時に,ある一連の生化学的反応をミクロととらえれば細胞はマクロであり,細胞個々の機能をミクロとしてとらえれば,臓器全体の機能はマクロです。さらには臓器に対して個体の機能はマクロであり,病気を個人でなく全体でとらえればマクロです。そしてマクロ的思考は地域,国内,世界,地球へと広がります。あるレベルのものが見方によってミクロにもマクロにもなり得るのです。ただ注目していただきたい点は,「個の機能はお互いに影響し合うために,集団の中で異なった機能を発揮し得る点」です。
 人すべての遺伝子およびその産物の機能が1つひとつ解き明かされる日も近いことでしょう。しかし,外界からストレスが加わったとき,病気になった時,歳をとった時,「これらの遺伝子が全体としてどのような動きを示すか」といった形でとらえることも非常に重要です。同じ遺伝子多型を有していても他の遺伝子や環境因子とも相互に作用し,異なる病型や症状を示すからです。また,薬剤の作用機序がわかっても,人間に投与した際にどのような反応が起こるかは別問題です。病気の発生は遺伝,環境,行動・習慣,時間,偶然などきわめて多くの要素に左右されます。個々の要素を検討しても納得できる解答は得られず,すべての要素を一度に解析しないと病因を解明することはできません。なぜなら個々の要素は相互作用を持つからです。これらを検討できる点にマクロ医学の必要性と面白さを見出すことができます。
 そして21世紀,分子生物学から地球環境のことまで異なる次元の学問が連結します。分子生物学は民族の類似性,薬物に対する反応性,疾病頻度の相違などを説明するのに用いられることでしょう。数学は感染症モデリングや地球気候変動のシミュレーションに応用されはじめました。近年DNAチップの開発により数万の遺伝子を一度に解析できるようになり,遺伝子―遺伝子相互作用および遺伝子―環境相互作用の研究が進むことでしょう。細胞工学の進歩は臓器移植に応用され,遺伝子診断はデザインされた民族を育てるかもしれません。
 一方,薬物の不適切な使用が耐性菌を生み,人間の活動によってもたらされた気候温暖化はエルニーニョ現象などの水循環の異常を引き起こし,さらには新興感染症を惹起しました。地球環境変化の根底には世界人口の加速度的増加があります。社会ストレスと病気は密接な関係にあり,例えば自殺は失業率とパラレルです。つまり,健康と病気を中心に社会,政治,環境の諸々の因子がリンクしているのです。21世紀,医学は,人々の健康を守るために,政治や社会,そして地球環境に対しても処方箋を出す必要が出てくるのではないでしょうか。

予防は治療に勝る

 そしてミクロ医学が個人の病気を治すこと,あるいは1つの病気を解明して治すことを第1の目的とするのに対して,マクロ医学は個人の病気の治癒でなく全体の健康維持と幸福を目的とします。ですから,予防や予測にシフトする傾向にあります。基本的に医師は病気の人しか診察しません。警察は事件が発生しなくては動きません。政治家は社会問題になってやっと法律を改正します。しかし,何かが起こってから処理をするのでは遅すぎますし,とても効率が悪いのです。私は子どもの癌の患者さんを数多く診療してきました。病棟で診療しながら私は「何とか子どもの癌の発生を減らすことができないか」と考え,その解決法をマクロ医学に求めたのでした。未熟児にしても,小さく生まれたばかりに脳や肺に障害を残し得ます。もしも早産の原因の1つが社会的ストレスであれば,これを除去するほうが対策としては有効なのです。
 世界は,今まで癌の研究と臨床に莫大な費用を投入し続けてきました。しかし,癌死亡率抑制に最も貢献したものは喫煙などの予防医学なのです。また,痘瘡やポリオの患者さんに最善の治療を施すより,ワクチンにより発症を予防することのほうが,ごく一部の人に副作用を認めつつも,多くの人を幸福にすることができます。医療人として目の前にいる患者さんの幸福を考えることは当たり前ですが,全体の利益にも配慮しなくてはなりません。これがマクロ医学の根底に流れる哲学です。そして,今までの歴史的医学の流れを振り返った時,マクロ医学的アプローチこそが多くの医学的困難を乗り越えるのに役立ち,結果的に多くの人々を救ってきたことを理解できます。科学は社会に還元されてはじめて価値を持つものである点を忘れてはいけません。医療人の自己満足に終わってはならないのです。マクロ医学は根本的に公衆衛生学と重複します。
 しかし,日本における公衆衛生学は医学の中の,1つの学問としてしかとらえられていません。そこで,私は「公衆衛生学は狭義の医学の1つではなく,むしろ医学と対等かつ相補的な学問である」ことを強調したいと思います。そして,公衆衛生学の従来のイメージとコントラストをつけるために,「マクロ医学」という新しい言葉をハーバード・レクチャー・ノートの最終回において敢えて提唱したいと思います。
(連載おわり)

本連載前号で使用した「ジミー・ファンド」関連の写真はすべてダナ・ファーバー癌研究所の厚意により提供を受けたものです。同研究所に謝意を表します。

(週刊医学界新聞編集室)

●新連載予告
 来年2月から週刊医学界新聞(通常号)の紙面をお借りしてマクロ医学研究の方法論について実例をあげながらわかりやすく解説する予定です。読者の皆さんが現在直面している医療の現場を違った角度から眺めることができるようにすることを目的としています。
 主眼はあくまで「何をどのように」であり,知識を伝えるものではありません。読者個人個人でそのバックグラウンドは異なり,読む目的と応用も違うはずです。しかし,医学をマクロ的に眺めることにより,医学のおもしろさを個人的経験を通じて再発見していただくのが私の動機であり,企画の意図でもあります。また,新連載が間接的にでも人々の健康維持に役立ち,病気で悩む人が1人でも減ることを願います。
(浦島充佳)