医学界新聞

 

ブラジルの保健医療と国際協力

國井 修(東京大学大学院医学系研究科・国際地域保健学)


 1995年3月から2000年2月までの5年間,南米大陸の最東端,ブラジル連邦共和国のペルナンブコ州にて,国際協力事業団(JICA)のプロジェクト方式技術協力である「東北ブラジル公衆衛生プロジェクト」が行なわれた。筆者は,当時勤務していた国立国際医療センターよりプロジェクト終了までの1年2か月間,公衆衛生学専門家として派遣された。以下,ブラジルの保健医療事情とプロジェクトについて紹介したい。

ブラジルという国

 ブラジルは南米大陸の47%,日本の約23倍(世界第5位)の面積を有し,約1億6千万人の人口(世界第5位)を持つ大国である。世界一の流域面積を誇るアマゾン河,世界三大瀑布のイグアスの滝,世界一の動植物種の棲息する大湿原パンタナウ,コナン・ドイルの小説「ロスト・ワールド」の舞台と言われるギアナ高地,透明の海にイルカやウミガメが戯れるフェルナンド・ジ・ノローニャ島など,想像を絶するほどのスケールと美しさを持つ大自然が横たわる。
 また,ブラジルといえばサッカー(ポルトガル語でフチボル)。1930年以来,ワールドカップ決勝トーナメント出場を逃したことがなく,世界最多4度の優勝を誇る。どんな街でも村でもビーチでも,ボールを蹴り合う人々の姿に出くわす。フチボルは貧困から這い上がる唯一の手段として,ファベーラ(スラム街)の子どもたちに夢と希望をも与えている。
 毎年2月か3月に行なわれるカーニバル(ポルトガル語でカルナバウ)もブラジルには欠かせない。ヨーロッパから伝わったカトリックの祭りは,アフリカ系の音楽・舞踏であるサンバ,お祭好きなブラジル人,特にリオッ子(カリオカ)たちの気質,熱帯の灼熱の暑さが融合して,今のブラジル・カルナバウを生んだと言われる。カルナバウといえばリオ,リオといえばカルナバウと言われるほど,4日間,夜を徹して,20万人近くが参加する豪華絢爛たる音楽と踊りのパレードは世界から観客を集め,リオの人口は2倍以上にも膨れ上がるという。しかし,大部分のブラジル人とって,カルナバウとはリオのようなショーを見ることではなく,各地方独自の音楽や踊りに自らが参加して,騒ぎ楽しむものなのである。筆者が参加したレシフェやオーリンダのカルナバウでは,フレボと呼ばれるこの地方独特の音楽と踊りに興じる人々でごった返した。
 ブラジルは1500年に発見され,南米唯一のポルトガル植民地となったが,その植民地政策として,先住民であるインディオや16世紀後半にサトウキビやコーヒー栽培のために連れてこられたアフリカ人との混血が進んだ。また19世紀後半,奴隷制度を廃止したブラジルは,その労働力不足を補うため,ヨーロッパからの移民を受入れ,20世紀初頭には日本人も移民としてブラジルに渡るようになった。現在では「人種のるつぼ」と称されるほど多様な人種・民族が住んでいるのだが,米国のような人種問題が聞かれないのには驚く。これは,長い歴史の中で混血に混血が重ねられ,人種を特定できないこともその理由であるが,多様性を受容し,むしろそれを楽しむラテン人の寛容さと楽天さからくるのかもしれない。
 ただし,上流階級には白人,ファベーラには黒人が多い印象は受ける。これはブラジル人に言わせると人種問題でなく,社会構造の問題である。貧富格差は著しく,所得格差を示すGini係数は世界で最も高い。街中に物乞いが溢れるかと思えば,プール付きの豪奢な別荘を持つ富裕層も少なくない。村に行けば地平線まで続く大農園を所有する大地主がいる一方で,日毎の糧もままならず,飢えに喘ぐ土地なし農民もいる。このような格差は,都市と農村,ブラジルの南部と北部にも存在し,西欧と見間違うような近代的な街の多い南部に比し,いまだに開発が進まぬ北部では,原始的な生活を続ける村も多くある。

保健医療の現状

 1978年から98年までの20年間で,ブラジルの合計特殊出生率(TFR)は4.3から2.3に,乳児死亡率(IMR)は出生1000対79から42に減少し,多産多死から少産少死への人口転換が進展したと言われる。この98年のIMRは世界第98位でフィリピンやベトナムより劣悪であり,1人当たりGDPが世界第35位であることを鑑みると経済レベルに見合った保健水準ではないと思われる。妊産婦死亡率(MMR)についても同様で,1990年の10万対220(1990年)は世界第93位でタイやベトナムより高値を示している。
 しかし,これらの保健水準また医療資源を地域別に見ると,地域格差が著しく,ブラジル国内に先進国と途上国が混在する様相を呈する。IMRは最高と最低の州で約4倍,MMRは5倍以上の格差があり,人口10万人あたり医師数は北部のロンドニア州(39人)と南部リオデジャネイロ州(243人)で6倍,三種混合ワクチン接種率はアラゴアス州(40%)とセアラ州(93%)で2倍以上の格差を示す。全体として,サンパウロやリオデジャネイロなど白人系の多い南部はほぼ先進国並み,アマゾン,ペルナンブコ州などインディオ,黒人系の多い北部・北東部はほぼ途上国並みの保健水準を示している。
 1980年までに,ブラジル全州で心血管障害が死亡原因の第1位となり,疫学転換も行なわれたと言われている。現在の死因別死亡数は,心血管障害が全体の15%強で第1位,次いで脳血管障害,悪性新生物,そして殺人・交通事故による死亡が続く。殺人・交通事故が4位にくるのは頷ける。都市の治安は悪く,知人でも強盗・窃盗・殺人に巻き込まれた者は少なくない。また,各疾患の罹患率・有病率にも地域格差があり,循環器疾患の罹患率は国全体で10万人対150で,最高233(リオデジャネイロ・ド・スル州)と最低45(マラニャオ州)との間には5倍以上の差がある。
 生活習慣病は必ずしも富裕層のみの疾患ではなく,貧しい農村でも増加の一途を辿っている。プロジェクト地域である貧困農村の20歳以上の一般住民を対象に行なった筆者らの調査では,対象者の44%が高血圧(140/90mmHg以上)を示し,その2割強が180/110mmHg以上を示していた。しかも,その7割以上は医療を受けていない。冷蔵庫がないため,保存に使用する塩分の摂取量が多いことなどが原因と考えられるが,その対策はほとんどなされていない。
 その一方で,いわゆる熱帯病もいまだに猛威を奮っている。1996年のマラリア,デング熱の罹患者数はそれぞれ44万人,18万人を超え,リューシマニア症,黄熱病,コレラも少なくない。筆者の住んでいた地域でも知人の多くがデング熱に罹患し,近傍の村ではマンソン住血吸虫の有病率が一般住民の30%以上に達し,リューシュマニアによる鼻中隔欠損患者に出会うことも少なくなかった。最近では,ブラジル全体でHIV罹患者が毎年1万人以上となり,新たな社会問題となっている。このように,ブラジルは感染症の不十分なコントロールの上に生活習慣病が激増するという「疾病転換の二極化(Bipolarization)」を示し,二重負担を強いられている。

保健政策

 これらに対し,ブラジル政府は1988年に制定された新憲法で,「健康は国民の権利であり国の義務である」と明言し,統一保健医療システム(Sistema Unico de Saude,以下SUS)と呼ばれる新体制を設置した。
 これは,(1)地方分権化により基本的な保健医療サービスの権限を州から市に移譲する,(2)保健政策の実施・管理に住民参加を取り入れる,(3)予防接種プログラム,妊産婦検診,家族計画,歯科診療などすべての基本的な保健医療サービスを完備する,(4)全国民を受益者とする,(5)同等のサービスを公平に与える,(6)基本的な保健医療サービスは無償とする,という6つの原則を掲げている。要は,世界の潮流である地方分権化に伴う保健医療改革であるが,(4)と(5)を重視したプライマリ・ヘルスケアの実践のための具体的な戦略を持つという意味で注目すべきものがある。
 特に,全住民を対象とした訪問指導,健康相談および健康教育を目的としたコミュニティ・ヘルスワーカー制度(Programa de Agentes Comunitarios de Saude)および地域医療チーム制度(Programa de Saude da Familia)を導入した。コミュニティ・ヘルスワーカーは,それぞれに割り当てられた家庭を定期・不定期に訪問し,予防接種,母乳栄養,下痢症対策,水と衛生などに関する情報提供・健康教育を行ない,疾病罹患者,妊婦,乳幼児などに関する地域情報を診療所や病院に伝え,2次医療機関に紹介するものである。地域医療チームとは,各チームが医師,看護婦,准看護婦各1名とコミュニティ・ヘルスワーカー4名で構成され,医療機関へのアクセスが困難な住民への巡回診療や訪問看護を行なっている。
 しかし,現実には,すべての地域に完全な形でこのシステムを導入することは困難である。1996年末で保健医療サービスの権限を移譲された市は全国で137のみ,人口のわずか16%の居住地域に過ぎない。コミュニティ・ヘルスワーカーを導入した地域も1996年で53%のみで,地方では基本的な医薬品でさえ不足する診療所も多く,SUSの財源も年々貧窮してきている。

東北ブラジル公衆衛生プロジェクト

 これまでの保健医療協力というと,ポリオ撲滅やマラリア対策など特定の疾病対策が多かったが,最近では母子保健や地域保健サービス強化など,包括的な課題に取り組むものも増えてきた。その中でも本プロジェクトは,現地の公衆衛生問題に日本の専門家が直接取り組むのでなく,現地の組織を強化し,人材を育て,時に調整役に徹して関係諸機関を連携させることにより,問題解決能力とその環境作りを促進するというものである。
 具体的には,公衆衛生センター(Nucleo de Saude Publica)をペルナンブコ連邦大学内に設置し,医学科,看護学科,栄養学科を含む健康科学部のみならず,教育学部・人文科学部など多分野を巻き込み,公衆衛生に関する学生教育・研究・実践活動を展開した。ブラジルでは行政と大学のつながりが強く,双方のポストを自由に行き来するため,本公衆衛生センターは行政と大学と地域との調整役となって,各種保健プログラム作り,地域人材トレーニングなどを実施した。日本からは主に国立国際医療センターと慶應大学医学部から人材が送られ,公衆衛生,寄生虫,看護,社会学などの専門家がこれらの調整役になった。元リーダーであった建野氏が「触媒型プロジェクト」と称したように,外部者であるわれわれが触媒となって,現地の人材や組織の成長,有機的な連携,そして効果的な活動を促していくことを目標とした。
 臨床とは異なり,公衆衛生活動とは短期間で介入を行ない,その結果が出るものではない。プロジェクトの5年間で,50以上の研究・教育・実践活動が展開され,公衆衛生学の大学院が設置され,その結果,モデル地域の乳幼児死亡率,各種疾病罹患率が改善したかに見えたが,現実には日本人専門家や予算などが引いた後,どのように組織が存続し,調整役としての機能が継続し,人材育成と公衆衛生活動が展開していくか,そして,それらが地域の人々の健康にどのように役立つのか,真価はこれから問われる。これまでの歴史を見ると,政権交代によってせっかく作り上げた組織やプログラム,システムが無に帰することもあった。国際協力を行なっていて,そのような場面に出くわすことは少なくなく,これまでの自分たちの苦労は何だったのかと情けなくなることもある。しかし,現実とは,多くの徒労の繰り返しであり,その中から生まれるものはわずかなのかもしれない。少なくとも,それを信じて,われわれは国際協力を行なっているのだが……。

最後に

 プロジェクト終了後,帰国して大学に異動した。自治医科大学の卒業生である筆者は,国内外の第一線の僻地/地域で常に実践者として保健医療問題に取り組みたいと考えてきた。が,現在,教育と研究の必要性も痛感している。途上国で活動するには,日本の医学教育と臨床経験のみでは不十分であり,自分自身,海外の大学院や途上国の現場から学ばねばならなかった。国際協力を志望する若者が増える現在,欧米の大学院で学ぶのもいいが,日本でも人材を育成する場が必要である。また,欧米型の国際援助の歪みと限界が指摘される中,日本的な国際協力のあり方も模索しなければならないと感じている。
 私の教室では,世界の保健医療分野の不公正に挑む「国際保健学」という学問を構築しようとしている。政治・経済のみならず,各国の文化・宗教まで考慮しなければならぬこの分野は,さまざまな専門家と協力し合いながら,実践と理論をうまく噛み合わせ,成功と失敗を冷静に分析し,後世に伝えていかなければならない。今後,医学界にも国際保健学に関心を持たれる方が増えることを期待する。

國井 修氏
 1988年自治医科大学卒業。栃木県栗山村国保診療所にて僻地医療,フルブライト奨学生としてハーバード大学公衆衛生大学院に留学,自治医科大学衛生学助手,国立国際医療センターを経て,現在,東京大学大学院医学系研究科国際地域保健学講師。アジア,アフリカ,南米など50か国以上の保健医療援助,調査研究に従事してきた