医学界新聞

【特別編集・対談】

看護と医療過誤防止

基本となるのはインフォームドコンセント

李 啓充
(マサチューセッツ総合病院/
 ハーバード大学医学部助教授)
川島みどり
(健和会臨床看護学研究所長)


「リスクマネジメント」の持つ意味

マネジドケアの光と影

川島 「医療過誤」の問題がNHKのTV特集で取りあげられ,本年7月に放映されました。その場に李先生と一緒に私も同席させていただきましたが,長時間の収録であったためかカットされた部分も多く,私としては意を尽くせなかったという思いが強く残りました。しかし,医療事故・過誤の問題は,医療界ばかりではなく,確かに社会的な問題ともなっています。
 『ライフサポート』(スザンヌ・ゴードン著,勝原裕美子,他訳,日本看護協会出版会)という本は,アメリカにあるベス・イスラエル病院の3人のCNS(クリニカル・ナース・スペシャリスト)のすばらしいケアを10年間追い続けた労作です。その本の中で,これまで織りあげてきたケアのタペストリーが,この10年の間にアメリカの市場原理に支配されてだんだんほつれていく,結果として無資格者が増えてきたという現実が述べられています。
 一方,アメリカでは1995年頃から医療過誤の問題が大変増えてきています。その背景は,李先生が「週刊医学界新聞」に連載されました「アメリカ医療の光と影」で,「マネジドケア」や「アメリカの医療」をテーマとした中に書かれていますが,『ライフサポート』と共通する部分があるように思います。今日は,アメリカ医療の現実を通して,そこにある経済的な圧力,もしそこに光と影があるとしたら,その影の部分をお聞きしたいと思いますし,そこから発生する医療過誤の問題にも触れたお話ができればと考えています。
 マネジドケアについては,影と影しかないのですけれども(笑)。アメリカの医療経済は非常に厳しい状況にあるのですが,例えば,営利病院がそれまで非営利であった病院を買収して経営の効率化を図る場合,最初に手がけるのが人員整理で,真っ先にターゲットとなるのが看護職です。働く人数が少なくなるわけですから,当然労務超過につながります。そして,雑用的な業務をこなすという名目で,これはどこの病院でも増えてきていると思うのですが,看護補助員という形で,無資格でより給料のかからない人が導入されます。
 その反面,これは考え方によっては光のほうになるかもしれませんが,看護職が管理職に就くということも非常に増えてきています。例えば,ボストンのハーバード系列病院であるマウント・オーバン病院では,最高経営者(CEO)が看護職出身の方です。看護職出身の方が管理職に就くという全般的な傾向がありますが,病院の運営,あるいは経営の中に看護職の視点というものが活かされてきているという意味で,「光」と言えるだろうと思います。
川島 そのことを,パートナーである医師はどう評価されていらっしゃるのでしょうか。看護職にとっては,それはとてもよいことに思いますけれども。
 マウント・オーバン病院のCEOになった方の話がある新聞に載っていたのですけれど,特に医師が反感を抱いているという記載はありませんでした。また,その記事の中でこのCEOが「自分は医師に対しては同輩としてものを言う。医師のほうが偉いという態度を取らないことが肝心だ」とおっしゃっておられました。

リスクマネジメントは訴訟対策

川島 私が看護の勉強を始めたのは第2次世界大戦の終戦直後からです。あの時はアメリカの占領下にありましたから,GHQの指導のもとに勉強したわけなのですが,それ以来日本の看護は,ずっとアメリカの看護論ですとか考え方,体制というものに影響されてきて,それもアメリカのよい面だけが強調されてきました。
 例えば看護体制1つとってみましても,日本では機能別の看護体制が主流でしたが,1960年代のはじめに「チームナーシング」という看護システムが導入され,日本の看護界はそれが看護婦不足での患者中心の患者体制であるとして飛びつきました。ですが,日本の場合はアメリカとは比較にならないほど少ない看護要員でしたから,「チームナーシングまがい」という体制を組んだわけです。そして,それが定着しないうちに,今度は「プライマリナーシング」に飛びつく,そういった繰り返しがされてきました。
 今回のテーマである医療過誤のことに関しても,「リスクマネジメント」という言葉が言われ始めると,看護界全体が「リスクマネジメント,リスクマネジメント」という雰囲気があるのですが,私としては,やはりあれは保険会社がなるべく支払いを少なくするための手段,あるいは病院が患者さんから訴えられたり,損害賠償を請求された際の支払いを減らすためのリスクマネジメントではないかと,とても不純な動機を直感的に,それこそ最初に察知してしまったものですから……。
 それは川島先生の言う通りです。実は,アメリカ病院協会のリスクマネジメントの定義は,「病院の資産を保全するための方策」とされています。ですから,リスクマネジメントの本来の意味というのは,医療過誤対策ではなく医療過誤「訴訟」対策なのです。訴訟を起こしてほしくない,訴訟が起こっても賠償金をできるだけ取られたくない,というのが一番の目的で,もともと病院にとってのリスクのマネジメントなんですね。患者さんのリスクという意味ではありません。ですが,日本ではその点がちょっと誤解して使われているようです。
 大きな病院になりますと,リスクマネジメントの責任者が弁護士で,クオリティ・インプルーブメント(質の改善)部門の責任者が看護職など臨床の人間,と分けたりしています。
川島 病院の訴訟対策として生まれたリスクマネジメントだったのが,日本では「患者さんを守る立場」というどこか純粋な看護職としての思いから,「リスクマネジメント」という言葉に正面から飛びついてしまったけれど,それでいいのだろうかという思いが,私にはありました。それともう1点,アメリカでリスクマネジメントを勉強してきた第一人者だと自認する方を中心とした学習会が開かれたのですが,その方は「90人を救うためには10人を犠牲にしてもよい,というのがリスクマネジメントの考え方だ」と話されました。私は,「看護における安全性」という視点から,ずっと30年間この事故防止に取り組んできましたが,99%安全でも1%の危険性があるのなら,そこで事故が起きた場合の当該者にとっては100%の危険率となります。その意味でも,絶対ということはありえないかもしれないけれど,なるべく完璧を期する安全対策をしなければいけない,と考え続けてきたものですから,とてもちぐはぐな印象を受けました。
 90人のために10人を犠牲にするという考えは間違っています。1人でも犠牲者が出たらそれは負けなわけですから。で,負けた後の敗戦処理として何ができるかと言えば,それは次の犠牲者を同じ理由で出さないということですよね。そのための貴重な教訓にしなければいけません。不幸な教訓から学べるだけのことを学ぶということが,できうる最善のことではないかと思います。
 また,私自身はリスクマネジメントという言葉で医療過誤防止を語ることも好きではありません。ベテランズ・アドミニストレーション・ホスピタル(復員軍人病院)では,リスクマネジメントという呼び方をやめています。ペーシャント・セーフティ・インプルーブメント・プログラム(患者安全性改善プログラム)と,目的を誤解されないようにはっきりと呼び名を変えています。

明確にすべき責任所在

川島 ところで,先生はどうして医療過誤防止をずっと強調されてきたのですか。
 個人的に非常に手痛い体験をしたということが理由になっているのですが,私の個人的体験については,『アメリカ医療の光と影-医療過誤防止からマネジドケアまで』(医学書院,2000年10月刊)で触れましたので,興味のある方は本のほうをお読みいただきたいと存じます。
 個人的な体験の直後に,「週刊医学界新聞」の連載で「ダナ・ファーバー事件」を書いたわけです。口幅ったい言い方ですが,医療過誤防止について書くことには,使命感のようなものを感じています。ただ,私の場合,非常に幸運だったのは,主治医が一切隠し立てをされなかっことです。こういう失敗が起こってしまったけれど,後はどうして失地を挽回するか,そのための作戦を医療側と患者側が共同で立てることができました。
 実はこれがインフォームドコンセントの原則なんですね。すべての情報を開示して,治療のゴールを共有し,患者と医療者が共同で治療プランを作成する。その通りのことが行なえたわけです。結果として失地は挽回できなかったのですが,主治医とは最後まで良好な信頼関係を保つことができました。
 「患者が医者を訴えるのは,その医者が嫌いだからだ」というのはジョージ・アナス氏(ボストン大公衆衛生大学院教授兼部長・医療法)の言葉ですが,患者と医療者の間に信頼関係がないことが訴訟が起こることの最大の原因になっていると言ってよいと思います。先ほど,リスクマネジメントは「訴訟対策」だと申しましたが,ハーバード関連病院の医療過誤保険を扱っている「リスクマネジメント基金」という団体は,「訴訟を防ぐ最も有効な方法は,普段から患者と良好な関係を維持することに尽きる」として,被保険者の医師たちに「日常診療マナー」の手引きを配っています。
 また,医療過誤が起こった際の原因調査・再発防止構築法の実際については,例えば,JCAHO(米・医療施設評価合同委員会)から警鐘的事例や根本原因分析のマニュアル本が出版されていますし,取り寄せて,勉強しようと思えば簡単です。

「インフォームドコンセント」の持つ意味

患者の同意がなければ敗訴に

川島 先ほどインフォームドコンセントに触れましたけれど,日本でインフォームドコンセントと言いますと,とにかく「説明と承諾」とされて,医師も説明したらそれがインフォームドコンセント。患者さんは承諾しなくても,説明したらそれでよしとされている現実がまだあります。患者さんがその説明を理解していなくとも,「わかりました」と言えばそれでOKなんですね。医療の過程を共有するということは,相手の知識レベルに合わせて説明をしなければいけないわけですし,医療者側にすればものすごい忍耐力が必要となるでしょう。そのあたりのことをもう少し具体的に話していただければと思います。
 まず,インフォームドコンセントは決して形式とか書式ではないのだということです。マサチューセッツ総合病院のインフォームドコンセントの取り決めを読んでみますと,「インフォームドコンセントというのは,患者さんと一緒に治療プランを作成するプロセスである」とあります。それと,インフォームドコンセントというのは医療の根本原則であり,医療のありとあらゆる場がその原則で動かないといけないわけです。例えば患者さんを診察する場合,鼠径リンパ節が腫れているかどうかを診る時に,黙って触るような医師がいたとすれば,それはインフォームドコンセントが根本的にわかっていないのです。「脚のつけ根のリンパ節が腫れているかどうか調べたいので,下着の中に手を入れますけれどもよろしいですか」と尋ねて,「どうぞ」と言われて初めて診察する。これがインフォームドコンセント。病気の説明だけではなく,個々のすべての医療行為にこの基本がないといけないわけです。
 これは難しいことではありません。相手の立場に立って思いやることにつきます。「患者というのは非常に弱い立場にある。人前で裸にさせられたり,他の人には絶対に言わないようなことを言わせられたり,痛い思いもする。それはなぜかと言えば,自分の病気を治してほしいからいろいろなことを我慢している。そういう弱い立場の患者に対して,思いやることを忘れてしまっている医療者がいるというのは非常に残念」と,ジョージ・アナス氏が言っています。このことが,実は,医療過誤にもつながっていると思います。「おれは偉いんだ」という態度で医師がもし患者に接していたら,インフォームドコンセントはそもそも成立しません。患者にいろいろな診療行為がなされる時に,常に患者と一緒に確認するということをするならば,なされるべき手術の術式も,患者さんが本人であることも自動的に確認されます。
川島 うがった見方をすると,日本でインフォームドコンセントがあまり進歩というか普及してこなかった背景には,国民皆保険があって,お任せ医療でお金を払わなくていいからということがあったのではないか。ところがアメリカの場合,医療費がとても高くて,1本採血してもらう場合でもお金がかかるために,「なんのために採血をするんだ」という患者さんに対して,「納得するまで説明しなければいけないんだ」と聞いたことがあるのですが,そのようななことはありませんか。
 そういったことも確かにあると思いますが,むしろ私は,医療訴訟に負け続けている間に,そういうことが定着してきたのだと思っています。「どうして患者さんともっとよく話をしておかなかったのだ」と裁判所から叱られるわけですね。
川島 負け続けたのは,医療側ですね。
 そうです。例えば,つい最近有名になった判決は,拘束に関するものでした。患者は喘息の発作が重く,呼吸器をつなげないと死んでしまう。そこで,患者の命を救うためにはやむをえないという理由から,主治医が若い女性患者を拘束した。ところが,女性はレスピレーターにはつながないでほしいと言い張っていたのです。女性の父親も実は医師でして,「娘がそんなに嫌がるならやめてください」ということを言っていた。ところが,そういった患者と家族の意思を無視して,拘束を加えてレスピレーターにつないだ,ということで問題になったわけです。その後患者は,拘束されたことがトラウマとなって,治療を拒否したためにやがて喘息で亡くなってしまった。こういった経緯で,その時に拘束した医師が訴えられ,「患者の同意を得ていない」という理由で医師側が敗訴しました。
川島 先日,私も病院で親戚の者を亡くしました。白血病で入院していたのですが,日本尊厳死協会にも入り,「救命は一切しないで。ただし苦痛だけは軽減してほしい」と意思表示をしていたにもかかわらず挿管されてしまいました。
 それで,私も家族代表で何回か主治医と話をしていたのですが,先生がおっしゃるには,「血液のほうがよくなってきているから,もう少しがんばりましょう」ということで押し通されてしまった。結局それを覆すことができなくて,本人はまだしゃべりたいことがいっぱいあったはずなのですが,10日間ぐらい苦しい状況が続き,亡くなってしまいました。
 末期の蘇生・延命処置はしないというDNR(Do not resuscitate)については,アメリカでは完全に定着しています。ご家族のケースがアメリカで起きたとしたら,患者との間のDNRの取り決めを患者の意向を無視して覆したわけですから,完全なルール違反となります。インフォームドコンセントの原則に従いますと,たとえ患者が賢くない選択をしたとしても,それを医療側がひっくり返すことはできません。

誰もが医療情報を入手できる時代

 医療過誤の問題でもそうですが,私がいつも思うのは,医療者はどうしてもっと患者さんや家族に手伝ってもらわないのか,ということです。あまりに患者さんやその家族をばかにした話が多すぎるように思うんですね。例えば,横浜市大の患者取り違え事件ですが,大学側の再発防止策を読みますと,「病棟から手術室まで主治医が連れて行く」となっていて,「家族に付いてきてもらって担当麻酔医・看護婦への引継に立ち会ってもらう」という発想がないのですね。事故報告書には,「患者中心の医療」をしないといけないのだと何度も書かれているのですが,医師や看護婦の確認・引継手順の細かな取り決めに終始していて,「患者(を間違えないこと)中心の医療」しかめざしていません。患者や家族に手伝ってもらうという簡単なことをしようとしていない。
川島 そうですね。素人だからわからないだろうという感じなのでしょうね。
 それは大間違いで,今やインターネットの時代ですから,誰でも簡単に情報を入手できます。まして,自分の病気となりましたら必死で調べるでしょうから,不勉強な医師にとっては,大変な時代がくると思いますね。「素人は勉強するな」などという言い方は通用せず,実際にアメリカ病院では,患者学習センターがあるのが当たり前になってきています。
川島 日本の病院でも患者学習センターを設置しようとしている動きがあります。どのようなところなのでしょうか。
 患者さんがご自身で病気や疾患などを勉強できるように,代表的な教科書や参考書が置いてあり,情報検索のためのコンピュータもずらっと並んでいます。看護職のスタッフもいて,手伝いもしますが,ご自由にどうぞ,という感じですね。それから,疾患ごとに患者さん向けのパンフレットが置いてあり,積極的に患者さんが学習することを奨励しています。
川島 そうしますと,患者さんのレベルもどんどん高くなっていき,勉強をしない医師よりもずっと多くの情報を手にすることができるわけですから,知識の差もなくなってくる。その場合,患者さんと医師,看護職の関係というのは,今後どう変わっていくのでしょうね。
 一緒に勉強しあえばよいのではないでしょうか(笑)。一番強調したいのは,「なぜ医師はもっと患者とよく話さないのか」ということですね。

看護職は何をする人?

川島 インフォームドコンセントは確かに医療過誤防止にすごく役立つと思うのですけれど,患者さんに情報を提供する時に,その過程における危険性を含めて説明されますよね。日本の場合は,「医師がその権限をお持ちですけれど,では看護職の場合は」とよく質問されます。看護職が,本当に知っていることを話してもよいという文化が日本にはないように思います。
 だからどうしても看護職は,「主治医に聞いてください」となりますし,先生に黙って看護職の知っていることを話そうものなら大変なことが起きます。私が勤務した病院ではそのようなことはありませんでしたが,親戚の者が入院していた町の小さな病院は,血圧を測定していたので「いくつですか」と尋ねても,「先生に怒られますから」と教えてもらえませんでした。
 それはひどいですね。
川島 そこで,「私は看護職です。自分で測るから血圧計を貸してちょうだい」と断わって測ったのですが,今度は医師が診察室に私を呼びつけて,「あなたは越権行為をしました」と言われました。で,ちゃんと名刺もさしあげて,こういう者ですと名乗ったら,「研究なんかしてるから,看護のことを知らないんだろう」と言われ,さらに「看護婦が勝手に血圧を測るなんていうのは越権行為だぞ。しかもよその病院にきて何事だ!」って怒られたんです。そこで,「死ぬか生きるかの患者で,看護婦さんに聞いてもデータを教えてくださらないから,血圧計を借りたのです」と反論をしたのですが……。
 でも,血圧の値を患者に告げることを禁止している理由がわからないですね。
川島 だいぶ前から,日野原重明先生(聖路加国際病院)は市民(患者)が自分で血圧は測りなさいとおっしゃっていました。病状について,ある程度データがあって,それは誰が見ても同じなのですから,求められれば看護職から説明しても構わないように思えるのですが,一切看護職は言ってはならないという強い圧力がありましたね。アメリカの場合はどうなのでしょうか。
 高度な専門性を要する説明をする際には医師が動くことになると思いますけれども,例えば,プライマリケアでは,ナースプラクティショナーが診断・患者への説明・治療など,すべて医師とは独立に行ないますから……。
 今医師たちが非常に気にしているのは,「ノンフィジシャンズ・プラクティショナー」という職域です。医師以外の医療者ということで,例えば,ナースプラクティショナーということで開業して,プライマリケアを行ない,外来の患者さんを診て薬も処方する。それから,助産婦さんが分娩から産後のケアまでを行なうために,産科の医師はもういらない。麻酔のナースプラクティショナーは麻酔医に代わる仕事をこなすという状況があります。そのような背景があるために,最近メディケアが,麻酔の場合,医師の監督がいるという条件を外すという話も聞いています。それに対して米国麻酔科学会が必死になって反対している。つまり,自分たちのマーケットが奪われるということにつながるためです。

医療過誤防止のために

在院日数短縮の圧力

川島 1960年代のはじめ,モンテフィオーレ病院医療センターの敷地内に,看護リハビリテーションセンターとしての「ローブセンター」が設立されました。初代の所長はリディア・ホールで,自己の理論を実践的に応用して成果をあげた点からも注目すべき方ですが,日本では看護過程という概念を最初に述べた方として知られています。このセンターでは,急性期から在宅へ移行する患者さんの専門的ケアにより再入院率を低め,1977年から80年代の前半にかけて,在院日数の短縮による医療費の削減に効果をもたらしたという研究をされています。私は,30年後の現在でも,わが国の看護モデルとして活用できると思っています。
 その2代目の所長がジェーン・ローズ・アルファーノという方で,1980年代に来日されています。私は看護をする上で,患者さん自身が健康に向かう療養生活で,「よしわかった,こうしよう」と決めるためのアドバイス技術は大変難しいと思っていたのですけれども,ローブセンターでは非指示的アプローチを厳守した看護展開により絶対指示をしない,とその時に聞きました。指図をしないで,患者さん自身が「わかった」と言うまで,繰り返し患者さんの言葉を反復する,ということでした。「あなたは,あなたの考え方を私に確認したいの?誰かの答えを聞きたいのね」と聞いて,「そうだ」と答えたら,「そう,あなたはやはり私の答えを聞きたいんだ」と言いながらも答えることはしないで,繰り返し患者さんの話を聞く。そして,患者さん自身が「やはり私はこうしようと思うの」といった時に,患者さんをすごく褒めるのだそうです。
 その話を聞いた看護職らが,「そんなことできない!」と言ったんですね。なぜかと言えば,「話を聞くためには時間がかかるし,人手もない中で,そんな流暢なことはできない」ということでした。
 現在,在院日数短縮の取り組みも医療界では大きな問題ですが,そこでは看護の技術そのものも歪められてしまうのかなという危惧がとても強くあります。
 在院日数短縮への圧力ですが,私は10年間日本を離れていたせいか,今はどこに行ってもその話を聞きますのでびっくりしています。アメリカで在院日数短縮の圧力が始まったのは,DRG/PPS(診断群別定額支払い方式)が取り入れられてからです。それと同時に,急性期ケアから次のレベルに移すという体制,スキルド・ケア・ナーシングホームですとか,リハビリテーション専門病院,それから在宅という形で,病院で急性期のケアをした後の医療の場が遅れはあったにしても整えられていったわけです。私が今不思議でならないのは,日本の患者さんは,病院を出された後,一体どこに行ってるんだろうということです。
川島 急性期病院から在宅への中間施設ができてきました。例えば老人保健施設ですけれど,しかしながらここも本来の中間施設の役割を果たしてないように思えます。急性期の延長としての施設であって,病院と同じ機能を果たしているにすぎない,在宅へ移行するというプロセスを必ずしも引き受けてはいないのですね。
 これは聞いた話ですけれど,ベッド稼働率100%を誇る中部地方のある病院で,夜中に緊急入院を必要とする患者さんが来たらどうするのかというと,すでに病室にいる患者さんに「入院の必要な人が出たから退院してください」と夜中に言うのだそうです。この病院ではこういう立派な経営努力をしていると褒めたたえられたそうです。でも,よく考えてください。夜中に追い出された患者さんは,本当に入院している必要があったのかと。そういうことを経営努力というセンスがわからないですね,私には。
川島 それはつまり,ある病院が在院日数を短縮すると,そのツケは次の病院へ移り,患者さんは病院間を移動するだけであって,治療にはなっていない。が,各々の病院には初期の入院医療管理料が入るということで,結局のところ医療費は全然削減になっていないのですね。
 そのことに関連して最近アメリカで流行っているのがディジーズ・マネジメント(疾病管理)という手法です。ディジーズ・マネジメントに対して旧来の医療費抑制の手法はコンポーネント・マネジメント(要素管理)と呼ばれます。要素管理の手法で,入院とか外来薬とか要素別に医療費を削減しようとしても,全体でみると医療費の削減効果はないではないか,という反省から,疾病管理の考えが出てきたのです。例えばDRG/PPSで入院医療費を削減した。その結果,何が起こったか。アメリカでは在宅の医療費がものすごく増えたんですね。一方,ニューハンプシャー州の例ですが,低所得者用の医療保険でうつ病の治療費を減らしたいということから,抗うつ薬の処方額に上限を設けた。そうしたら入院が増えたんですね。
 疾病管理の考えでは,それぞれの病気についてその自然経過をきちんと理解したうえで合理的な管理をするということをめざします。例えば,気管支喘息の場合は,疾病管理の考えでやりますとすぐ結果が出ます。担当の看護婦が電話やインターネットで患者のピークフローの値をモニターしながら毎日こまめに指導しますと必ず発作の回数は減りますから,救急外来受診や入院などの医療費はすぐに節約できることになります。現在,喘息の疾病管理は8割以上のHMOで採用されていますし,病院として積極的に行なうところも増えています。高血圧,うっ血性心不全など他の疾患でも応用は可能です。ただ,今いろいろ行なわれている疾病管理には大きな問題がたくさんあることも事実です。しかし,これだけインターネットが普及している現在,このような手法の一部を地域医療に組み込まない手はないのではないでしょうか。在院日数を減らすことばかりが強調されていますが,もっと簡単にできるところから医療費は削れると思います。
川島 日本のある老人病院の話ですが,どのような経過をたどってその病院に入院されたのかがわからない患者さんが入院していまして,病院側も把握していない。そこで私たちが患者さんに直接うかがいましたところ,5つ6つの病院を転々とし,まさに死に場所を求めてきた方たちだったのですね。その病院のケアレベルも最低で,私だったら1日も入院していられないと思った施設でした。これは介護保険制度が始まる前の1昨年暮れの話です。介護保険が導入されてどうなったのかも気になるところですが,介護保険にもまだ解決されない問題がたくさんあります。それは今回話題にはしませんけれど,今の市場原理の悪い影響が介護保険にはモロに,医療機関以上に表れてきているように思います。

賢い患者になるために,質のよい医師を育成するために

川島 今までお話をうかがっていますと,看護教育や医学教育そのものがこれから大きく変わる必要があるのではないかと思えるのですが,今までは知識加重,知識偏重教育でしたが,まず入試からでしょうか。
 入試ですか(笑)。入試から話し出すときりがないのですが……。まずインフォームドコンセントの意味をわかっている人を育てていかないといけないですね。そのためには,「インフォームドコンセント,インフォームドコンセント」と,研修医たちに念仏のように唱えさせてもいいくらいです。本当に驚くのですが,患者と一切口をきかずに回診する教授がいるんですね。なんのために回診をしているのかと思いますけれど。
川島 それと,患者さんたちも賢くならなければいけない。インフォームドコンセントを知らないといけませんね。
 それはもう子どもの時から教えないといけない。医療に何を期待してよいのか,医療はどういう義務を持っているのかという賢い患者学というものを子どもの時代から教えるべきだと私は思います。自分が病気になった時,家族が病気になった時,医師に質問することは当然のことであり,自分が納得できない治療は受ける必要がないんだということを徹底して教育すべきだと思います。
 それと対の関係にあるのが,質のよい医師をつくることです。現実に質の悪い医師がいるわけで,よく医療過誤で被害を受けた方から,そういった質の悪い医師をどう排除したらよいのか質問されます。質の悪い医師をもぐら叩きみたいにつぶしていっても,後から後から出てくるわけですから,根本的には質のよい医師を増やすしかないわけです。そうすれば,質の悪い医師はおのずと淘汰されるはずです。そのためには医学部教育の改革,卒後研修・生涯教育の義務化ということをやらないといけません。医療は,お客さまからお金をいただいてサービスを提供する義務を負っているのですから,良質のサービスが提供されることを保証する体制があってしかるべきだと思います。よい資質の医師を育てるためには,そのロールモデルが必要です。
 アメリカ科学アカデミーの医学研究所が最近出した医療過誤についての報告書が話題になっていますが,そこに「医学研究所の目標は10年間かけて医療の質をあげること」とはっきり書いてあります。そして医療の質は3段階であげていくとしています。その第1段階は「安全性を確保する」で,第2段階が「医学的な知識のレベルと,実際に行なわれている臨床のレベルとをマッチさせる」,第3段階が「個別の患者さんの状態に適合した医療を提供することをめざす」としています。第1段階は医療過誤の防止,第2段階は良質の診療ガイドラインを普及させることによる医療レベルの底上げ,第3段階がEBMの普及といってよいかと思います。

医療過誤と人員

川島 話が戻りますが,先ほど李先生は,アメリカの看護職も忙しいとおっしゃったのですが,このところ日本でも看護のミスが頻発しています。その要因として考えられるのが人員の問題。諸外国に比べると日本は3分の1の看護要員しかいません。質を高めることは無論のことすごく重要なのですが,質を担保する必要人員というのも必要ですよね。
 人員は増やしてしかるべきだと思います。今の状態で安全が保障できないという危機感をみんなが抱いているとしたら,それは増やすしかないですよね。
川島 その安全確保のためには,人件費というものが発生します。
 それはお金をかけないといけないのではないでしょうか。「医療の質」を語る時によく言われるのは,「ストラクチャー,プロセス,アウトカム」ですが,まずはストラクチャーが整っていないわけですね。看護婦数を充足させるという第1段階のストラクチャーも整っていないところで,事故防止のマニュアルだけ積み上げて,プロセスだけをやれやれと言われてもできるはずがない。ストラクチャーを整える金はない,と言うのでしたら「安全は保障できません」って言うしかないと思いますけれどね。
川島 本当にそうですね。結局人件費で考えますと経験年数は無視される傾向にある。つまり,経営という視点からみれば若い人をたくさん雇えば安くあがるわけです。しかし,熟練した経験というのは,少人数でも息の合ったチームでやればかなりの量をカバーすることもできます。忙しくても乗り越えられることもありますから。
 日本の医療費というのは,世界の先進国の中でも本当に最低にランクされていますね。医療制度改革の達成目標として,コストの抑制,アクセスの確保,クオリティの保証の3つがあるとすると,3つ全部を同時に達成することは無理があります。オレゴン州のメディケイドを管理している部局では,コスト,アクセス,クオリティのうち2つだけならとってもよいと書いた額が壁に飾られているといいます。コストを抑えて,アクセスも確保し,クオリティも向上させるなどできるわけがないのです。アクセスを確保して,クオリティもあげたいのであれば,その分,コストをあげるしかない。もちろん,無駄を削ぎ落とすことは必要ですけれどもね。インフォームドコンセントを普及させたら,医療費が大幅に減る可能性もあると思います。
川島 先ほどのインフォームドコンセントをお経のように唱えるというのはいいですね。このあいだ亡くなった武谷三男先生(理論物理学者,『特権と人権』,『安全性の考えから』などの著書がある)から,私は30年前にこんな質問を受けました。
 それは,「看護婦さん,あなたたちは専門職,専門職というけれど,医師に拒否できることは何ですか」という問いでした。その時私は耳鼻科の外来で働いていたのですが,そのことにとても悩んでいた時期でしたので,その質問にドキッとしたんですね。それからずっと30年間,一貫して医師に拒否できることってあるのかなと思ってきました。何年か前に「安楽死問題」として話題になりました東海大学病院での塩化カリウムの事件の際に,看護職は医師の指示を拒否しているのですね。そのように明らかに患者さんを害する指示が出された場合には拒否できる。しかしあの時は医師が自ら注射をしたために防げなかったわけですけれど。そういう,医師に拒否できる場面というのは非常に限りがあるというか少ないですね。
 ヴァージニア・ヘンダーソンは「たとえ99回の警告がむだであっても,その看護婦の判断力に疑問が持たれても,最後の1回が患者の命を救う可能性がある」,だからきちんと言いなさい,ということを昔から書いているのですけれど,やはり言えないですね。私たちは形だけ医師と対等だというのではなく,実力をつけていく必要があると思います。その上で,「この人に任せておけば安心」という関係が築くことができれば,医療過誤の防止にもつながるのではないでしょうか。

(了)