医学界新聞

 

ハーバードレクチャーノート

連載 第8回 実話ホット・ゾーン
-院内感染がエボラ出血熱アウトブレークの引き金だった!-

浦島充佳(ハーバード大学公衆衛生大学院)


小説ホット・ゾーン

 リチャード・プレストン著『ホット・ゾーン』は実際にあった話を基に書かれた小説のため,世界の注目を集めました。エボラ出血熱は急性感染症の中で最も致命率が高く(50-90%),恐ろしい病気です。しかし,「蚊などの昆虫によって媒介されるのか?」,「自然宿主は何なのか?」などわかっていないことのほうが多いのです。今回は,CDC(米国疾病管理・予防センター),WHO(世界保健機関)の公表したデータを基に実話エボラ出血熱アウトブレークについて話を進めていきたいと思います。

プロローグ

 ザイール共和国(現コンゴ)は人口約2600万人,200万km2のアフリカで2番目に大きな国です。キンシャサは人口200万の都市でザイール川の下流に位置します。エボラ流行地はザイール北東部赤道付近のブンバと呼ばれる地区でした。この地区の人口はおよそ27万5000人でその半数は15歳以下です。この地区は500-5000人程度の村が数多く集まっており,ジャングルの中にありました。ヤシの油,コーヒー,ココア,ゴムなどの生産が主用産業であり,狩をする男も多く多種多様の動物と接触する機会があります。この地区では赤痢,マラリア,フィラリア,麻疹,アメーバ,肺炎,結核,甲状腺肥大などが主な疾患です。
 1935年,ブンバ地区北100kmの地点にベルギーによってヤンブク教会が建てられ,ここがおよそ6万人の健康管理と医療を行なっていました。そこが唯一十分な薬品等を備えていたため,多くの人々が遠隔地から医療を求めてこの教会へやってきていました。1976年の時点でその病院は120のベッドを有し,1人の医療アシスタントと3人のベルギー人看護婦を含む17人が働いていたということです。産科,新生児科を備え,月6000人から1万2000人の外来患者を診察していました。
 外来では毎朝新しい5本のシリンジと針を開け,これを使い回していました。患者処置の間温水を通す程度で消毒をすることはなく,その日の終わりにシリンジや針を時々煮沸する程度でした。手術用具に関しては煮沸消毒したものを用いていました。

最初の患者

 最初の患者は44歳の男性で学校の先生をしていました。そして1976年8月26日,発熱を主訴として例のヤンブクにある病院の外来を受診し,マラリアの診断を受けています。この男性は6人の仕事仲間と8月10日から22日まで自動車で旅をしています。8月22日ヤンブクの北50kmの路上で焼いたアンテロープと猿の肉を求めていますが,帰宅後その患者と家族はアンテロープのシチューを食べたのみで猿の肉は食べなかったと述べています。その患者は8月26日マラリアと診断されクロロキンの注射を受け,すぐに解熱します。しかし,9月1日に再び発熱。胃腸出血も合併したため9月5日入院し,9月8日に亡くなっています。
 9月に入ってから少なくとも9人が病気にかかり,この9人全員がその病院の外来で注射を受けていました。しかしこの時期外来で注射を受けた人の名前と診断等の記録はありませんでした。そのような状態なので,8月末にこの外来で注射を受けた人を割り出す術もありませんでした。しかし,8月28日,30歳の男性が赤痢と鼻血の診断で入院。この患者さんこそが最初のエボラ出血熱患者であったかもしれませんが,消息不明でした。
 エボラ出血熱を来たした患者全ては,そのヤンブクにある病院で注射を受けており,そこが感染源であることは誰の目にも明らかでした。結局,9月1日から10月24日までの間に318人のエボラ出血熱患者を出し,280人が死亡,すなわち死亡率88%というきわめて高い数値を出してしまったのです。患者数は4週間後にピークに達し,病院は10月3日には閉鎖となっていました。なぜなら発生源であったこともさることながら,17人のスタッフのうち13人が羅患し11人が死亡してしまったからです。その後当然ながら注射により発症したと思われるケースは無くなり,やがて感染症は終息に向かったのでした。

エボラ出血熱の臨床症状

 1-2週間の潜伏期の後,発熱,頭痛,やせ,嘔吐で発症し,多形性の発疹が5-6日目に躯幹を中心に出現します。発熱は39度以上の高熱が続き,頭痛は著しいと下肢に放散する背部痛となります。48時間以内に手足に広がり消えていきます。出血症状と咽頭痛は発病4-7日に合併します。消化管出血が最も多く認められ,下血から歯肉に血がにじむ程度までさまざまですが,重症例では大量の下血と口腔内出血を伴います。咳もありますが気管支や肺の問題というよりは咽頭の違和感からくることが多いようです。

抗血清が1人の患者を救った

 1976年11月2日から1977年1月25日の間に血清抗体価の上昇を認めた病気回復者26人より,201単位の血清が-15度で保存されました。血清抗体価は病気回復以降徐々に低下する傾向にありました。抗体価が256倍にまで上昇していた患者血清4単位をエボラ出血熱の患者とエボラ以外の不明熱の患者に投与したところ,2人とも生き延びました。

1995年の流行

 コンゴの首都より475kmの地点にキクウイットという人口20万人の都市があります。主な産業は農業,狩,漁でした。350床を持つ一般病院と150床を持つ母子保健院がこの地域の大きな医療施設でした。最初の患者は42歳の男性で木炭夫であり,農業も営んでいました。1995年1月6日に発熱と出血症状を伴い,一般病院に入院となっていますが,1月13日に死亡しています。
 その患者の仕事場は村から15km離れたところにありましたが,特別な動物と遭遇したりエボラ出血熱の患者と接触した可能性はないようでした。その後少なくとも自分の家族3人に,さらにこの家族は親戚10人に病気を伝播しています。そして最初の患者から9週間以内に全員が死亡しています。
 2番目の患者以降は村の母子保健院に入院していますが,3月中旬この病院で9人の職員が同じ病気に罹患しています。しかし,この時点ではチフスないし赤痢の診断でエボラ出血熱は疑われていません。そして4月初旬,母子保健院の検査技師がチフスの腸管潜行の疑いで一般病院に入院し腹腔鏡検査を受けています。この患者は数日後に死亡していますが,腹腔鏡に関与した医師,看護婦などの病院スタッフも4月末に次々と同じ症状を呈しながら死亡していきました。
 5月になってキクウイットの人々は特別委員会を結成し,5月4日に患者検体を国の熱帯医学研究所に送り,5月9日にはCDCが「送られた14の検体すべてはエボラによるものである」ことを確認しています。同時にWHO,CDCのスタッフは報告を受けてから24時間で現地に到着し,地元ヘルスワーカーと共同して疫学調査を開始しています。そして病院スタッフにも防護服等を配布し,どのように感染を防ぐかの教育を5月12日に開始したところ,院内感染が減少しやがて流行も下火となり,7月12日の患者を最後に終息しています。
 最終的に310人の患者中250人が死亡(88%)するというきわめて厳しい結果となりました。しかも25%は病院スタッフでした。村でもエボラ出血熱の脅威は知れ渡り,村人も患者との接触を避けるようにしていましたが,死後,死体を洗う風習があり,病院外の人々の感染経路として強く疑われました。

エボラ出血熱の予防

 1995年の疫学調査の際も数万の虫と数千の動物から検体を採取し調べましたが,エボラウイルスは見つかりませんでした。つまり未だにエボラウイルスの自然宿主,媒介(蚊など),伝染経路はわかっていないのです。しかし大きな流行は病院の診断の遅れと,注射の使い回し,手袋,マスク,ガウン等の感染ブロックがなされていないなどが原因と考えられます。明らかな空気感染例は少なく,患者の体液に触れないように注意さえすれば感染を防ぐことができるのです。つまり早期診断と早期拡大予防策を講じることが,犠牲者を最小限にくい止める重要な方法と言えます。もしも誰かが最初の患者さんをエボラ出血熱と診断し隔離していたら,犠牲者は1人で済んでいるはずです。このような伝染病はいかに初期に診断し隔離するかが非常に大切なのです。
 昨年,アフリカの風土病であるウエストナイル熱がニューヨークで,致命率の高いニパウイルスによる脳炎がマレーシアで流行し,人々はパニックに陥りました。日本で恐ろしい伝染病のアウトブレークを防ぐことができるかどうかは第1診察者の知識と勘のよさにかかっています。これは決してフィクションではないのです。