医学界新聞

 

連載  戦禍の地-その(6)  

いまアジアでは-看護職がみたアジア

近藤麻理(高知医大・看護学科)

E-mail:mariks@med.kochi-ms.ac.jp    


2393号よりつづく

日本で治療を受けた少年-その(1)

七夕の日に

 1999年7月7日に,コソボ自治州からネジール・シニック君という,当時3歳の男児が「網膜芽細胞腫の術後治療」を目的として日本に到着しました。その後,金沢大学附属病院において,医療従事者等による献身的な治療や看護が12月10日に家族3人そろってプリズレンの自宅に帰国するまで続けられました。もちろん,その背景には数え切れないほどの日本人の善意の寄付金や援助がありました。この春4歳になったネジール君は,復興に活気づくコソボ自治州で元気に(とてもやんちゃに)生きています。
 ネジール君がなぜ日本に行くことになったのか。期限切れのパスポートで家族3人どうして出国できたのか。コソボ帰国後の継続治療・観察はどうするのか。結局,1人だけしか助けられないのか。この4点について,皆さんと一緒に検討していきたいと思います。

プレッシャーの日々

 場所は,アルバニアからの帰還難民が通過するコソボ自治州プリズレン市内。私たちが調査に入った翌日の1999年6月19日昼食後,AMDA現地スタッフの近所に住むネジール君の両親より,「難病の3歳の子どもを日本人医師に診てもらいたい」との要請がありました。日本人の医師は小児科医で,特に小児の難病治療の専門家でした。ネジール君の家族は,NATO空爆中も息を潜めてプリズレンの自宅に隠れていたため,正式な「難民」として認定されておらず,国際機関を通して国外での治療渡航の望みは薄いものでした。ネジール君は,空爆が開始される前にベオグラード(新ユーゴスラビア首都)で右目の摘出手術を受け,その後数回におよぶ化学療法を必要とし病院に行くことが決まっていました。しかし,コソボ自治州からセルビア共和国側への入境が事実上拒否されたために,治療の継続が不可能となっていたのです。両親は,毎日コソボに入ってくる国際機関や人道援助団体に通いつめ,子どもの病気のことを必死になって訴えていたのです。
 診療をした医師からも,「1日でも早く継続治療を受けさせないと状況は悪化する」と伝えられました。英語力の乏しい新米の調整員である私は,1人の子どもの命を預かってしまったという重圧を感じ,本当のところ押しつぶされそうになっていました。
 その日,AMDA本部への報告にネジール君の日本,あるいは他国での治療が必要であることを書き加えました。3つの受け入れ先が「可能性あり」とのことで動き始めました。日本では岡山本部が,そしてベオグラードについては在ベオグラード日本大使館員の方々が,プリズレンを維持するドイツ軍とドイツ政府関係者,国際機関やNGOには私が情報収集と交渉を進めることになりました。それからの毎日は,コソボ自治州での本来の目的である調査と並行してのネジール君の交渉ごとで,眠る暇もないほどでした。

100回に1度の確率の中で

 重大な時に限って何か起きるもので,唯一の通信手段であるインマルサット電話(衛星電話)が故障し,本部との連絡が一時途切れてしまいました。6月26日には,13時間の山越えを再度決行しアルバニアに戻りました。そこで初めて本部から「日本での受入先が決まったので,渡航手続きを進めるように」との指示を受けたのです。パスポートの期限切れの人がどうやって日本に入れるのかは,現場で考えなくてはなりません。結局,アルバニア国を管轄している在ウィーン日本大使館に連絡をとり,その後ベオグラードとソフィアとも連絡を取りながら書類を整えていきました。紛争後の特殊な状況に加え,衛星電話のつながりにくさなどもあり,相互連絡は関係者の根気と努力を試されている気さえしました。例えば,100回ダイヤルして1回つながる程度の確率です。どれほどのストレスがかかるか,みなさん,1度お試しください。
 渡航手続きに必要な書類は,(1)日本大使館指定の査証申請書(1人につき2通,写真2枚),(2)入国理由書(形式自由・英訳添付),(3)身分証明書(両親は期限切れのパスポートと子どもは出生証明書を代わりとした・英訳添付),(4)代理申請依頼書(形式自由・英訳添付)でした。そして,在ブルガリア日本大使館が一番便利で安全な場所にあるということで,首都ソフィアにある大使館で申請を行なうことになったのです。家族3人の出国地はマケドニアの首都スコピエでした。7月1日から6日(出発日)までという短期間で,問題が次から次へと浮上したにもかかわらず,それを異例の速さで解決していきました。例えば,本人の名前で飛行機を予約したけれど,実はパスポートの名前と通称が違っていた。夫婦で苗字が異なるため,夫婦である証明を何でするのか。証明書類の文字がセルビア語とアルバニア語表記と異なるため,査証の名前と文字をどうするか,などです。

「結果がすべて」を原点として

 ネジール君がなぜ日本に来ることになったのか,この質問にはいくつもの答えが用意できます。でもあえて言うならば,ネジール君にはあらゆる幸運な偶然が重なったことと,関係者すべての情熱が不可能を可能にしたのだということでしょう。そして何より小児科医の言葉が,私をつき動かしたことは間違いありません。
 彼は,ネジール君の交渉に疲れ果てへとへとになっていた私に,「医療は結果だ。結果がすべてだ」と一喝。表現は極端だったかもしれませんが,自己満足に陥りやすい見せかけの努力ではなく,信念を持ち,それを貫き通してはじめてよい結果が出ることを教えてくれたのです。人の命を自分が背負ってしまう厳しさと恐ろしさ,そして責任を思い知らされました。私にとってこの体験は,その後のすべての活動を考えていく原点となったのです。

 今回は,ネジール君の日本受け入れまでの経緯と渡航査証について述べました。次回は,残る「コソボ帰国後の継続治療・観察」の問題と,「結局1人だけしか助けられないのか」について報告したいと思います。皆さんが,もしこのような子どもと出会っていたら,どのように考え,どう行動していたでしょうか。ぜひご意見をお聞かせください。上記の私のメールアドレスまでご連絡いただければ幸いです。