医学界新聞

 

 〔連載〕ChatBooth

 癒しの島で考えたこと

 栗原知女


 サミット開催で注目の集まる沖縄を訪れた。多くの人がかかるという「沖縄病」に,私も感染してしまったようだ。移住したいと思うほど重症ではないものの,「もっと沖縄のことを知りたい」という熱は高まる一方で,「薬」を買いに書店や沖縄料理店へ通う日々。目を閉じれば,ミントゼリーのように透き通った海が見え,沖縄民謡のリズムが聞こえてくる……けっこう重症だ。
 なぜ,こんなにも心を奪われてしまったのか。言い古された言葉ではあるが,沖縄はまさに「癒しの島」であった。私は沖縄の,人の心のありようそのものに癒しを感じた。土着信仰がいまも生きている。古い集落には,拝む場所が必ずあるという。そこは何の飾りもなく,ただ線香を置く石と,何かを象徴する小石が並んでいるだけ。像も彫刻も,人工的なものは何もない。「自然を壊さず,自然になじみ,自然とともに祈るのです」と,沖縄のある精神科医の方から教わった。
 拝む場所の中でも,特に「御獄(ウタキ)」と呼ばれる聖地は大切にされている。海の彼方からやってくるニライカナイの神や,祖先の霊が下って来る場所だ。やはり苔むした古い石組みがあるだけで,知らない人は気づかずに通り過ぎてしまいそう。門扉の形をした御獄もあるが,その向こう側には何もない。
 あの世の霊と共感し合い,語り合う場所である。あの世とこの世はどこかでつながっていて,その境の扉の開け閉めが,ごく自然にできるということではないか。
 私たち現代人は,あり余るほどのモノに囲まれ,豊かさや便利さが当たり前になってしまった。あの世に楽園を求めなくても,すでにこの世が楽園のようにも見える。このまま何も変わらず,変えようもない。そんな思いがどこか孤絶感につながっていないだろうか。
 個を超え,時空を超えて,私たちを人間として,生き物としてつないでいる何かはきっとある。それは目には見えないが,見ようとすればだんだん見えてくる。科学が解き明かしたDNAは,その答えの1つであろうが,すべてではない。また,そこに隠されたメッセージをどう解釈するかが重要であろう。
 仕事が嫌になり,自分が嫌になることもある。何しろストレスの多い社会だ。だが,現実のありようは,いま,目に見えているこのかたちだけしかないということではない。もっと別の生き方,本当の自分らしい生き方があるはずだ。それは,目を閉じなければ見えてこない。目を閉じ,自分の内側の扉を開くのだ。そして内なる自然と対話する。これこそ祈りの原点だろう。祈りを宗教の専売特許にしてはもったいない。自分を,そして自分がつながっている世界をよりよく変えるために,祈りたい……ああ,立派な病気かもしれない。