第2391号 2000年6月12日


《特別編集》

座談会

「聴くこと・語ること」

鷲田 清一
(大阪大学文学部
・教授)
中木 高夫
(司会/
名古屋大学医学部・教授)
 藤崎 郁
(聖路加看護大学
・大学院博士課程)
野口 裕二
(東京学芸大学
教育学部・教授)


中木 医学も看護も,患者さんに初めて会った時には,患者さんが話すことを「聴く」というところから始まります。医療の場合には,まず問診をして,その内容からある程度見当をつけて診療を進めます。看護の場合は,看護過程というプロセスの最初のステップであるアセスメントとして,その患者さんがどういう患者さんであるかをみていこうとするところから始めます。患者さんが話すことを聴くというのは,このように以前から私たちの仕事の中に取り込まれてきているわけですが,その「聴く」ということが含んでいる意味については,それほど深く考えたことはなかったのではないかと思います。
 今日,こうした顔ぶれで座談会を行なうことになったのは2冊の本からです。1冊は鷲田清一先生の『「聴く」ことの力』(TBSブリタニカ,1999)です。副題に「臨床哲学試論」とあり,自分がいままで仕事上やってきた「聴く」ことと何か関係があるのではないかという気がして手にとりました。もう1冊は野口裕二先生の『ナラティヴ・セラピーの世界』(共編,日本評論社,1999)で,この本もタイトルを見た瞬間に私が惹かれた1冊です。
 ただ,どちらの本も,私にはしんどいところがあります。それは何かと言いますと,医師という職業に就いている者は,だいたい何でも一言,ワンセンテンスで用を足そうとする癖があるものです。ところが,文系の人はそれを100行ぐらいにわたって書き起こすことができる(笑)。
野口 僕らの仕事はウィスキーの水割りのようなもの(笑)。
中木 いやいや,そこがずっと理系にいる者のコンプレックスになっています。
 それともう1つ,看護というものが文系,理系どちらに属すのかがよくわからないところがあります。そこで最近大学院で勉強しはじめて,スポンジみたいにたくさんのことを吸収しようとしている藤崎さんに加わっていただき,看護の視点を入れて,お2人の言う「語る」「聴く」ということを語っていただくと,きっとおもしろいことになるのではないかと思ったわけです。
 それでは,「聴く」ことは,聴く対象がないと成立しませんので,「語る」側から,まず野口先生に口火を切っていただこうと思います。

「ナラティヴ・セラピー」の世界

ナラティヴ・セラピーとの出会い

野口 ナラティヴ・セラピーを勉強していまして,「語る」ということがとてもすごい意味を持っているのだということにまず驚かされました。単に自分の心の中にあるものを誰かに情報として伝えるのではなくて,人は自分を語りながら自分を作っていくということが,ナラティヴ・セラピーの考え方の基本にあります。
 そう言われてみると,いま僕がここでこうして語っているのもそうなのですが,「語る,という行為を通していままで自分を作ってきたのだ」と腑に落ちるところがずいぶんあるんですね。それは狭い意味のセラピーに限らず,一般的に人間というものが,語るという行為を通して自己を作っていて,語り直すことによって自己は変わりうるというようなことがあるわけです。このセラピーは,10年くらい前に家族療法の分野から出てきたものです。
 私は,もともと社会学を勉強していたのですが,最初に就職したのが精神医学研究所で,そこでアルコール依存症の患者さんたちとのグループワークをしていました。当時は,システム論的な家族療法がとても魅力的に思えました。というのは,発想がとても社会学的で,切れ味がよかったからです。
 その後大学に移り,「臨床社会学」という授業を始めまして,そこで家族療法の最近の動向を追いかけてみると,システム論とはずいぶん異なる考え方が出てきていることに気がつきました。それがこの「ナラティヴ・セラピー」だったわけで,あまりに衝撃的だったのでついつい翻訳(『ナラティヴ・セラピー-社会構成主義の実践』:共訳,金剛出版,1997)をしたり,編著を出してしまったというわけです。
中木 「語ること」ということとナラティヴは,同じと考えてよいのですか。
野口 ナラティヴは,「語り」と「物語」のどちらにも訳せますし,それを連続して含んでいる概念だと思います。「ナラティヴ・セラピー」とカタカナで表現したのは,「物語療法」と言ってしまうと半分しか言えてないですし,「語り療法」でも的を射ていないと思えるからです。「物語」と「語り」の,連続的で相互浸透的なニュアンスをうまく伝えるためには,「ナラティヴ」といういい方でなければならないと,あえてカタカナのままにしたのです。

ナラティヴ・セラピーの実際

中木 ナラティヴだけではなくて,セラピーまでがタイトルに入っているのは,具体的にはどういうことなのでしょう?
野口 すごく簡単にいうと,「自己とは語りである」あるいは「自己とは物語である」という理解から出発します。その理解に基づけば,語ることは心の内部にある情報を単に伝えるのではなくて,語りながら自己を確認し,自己を構成しているということになります。そして,それまでの自己から新たな自己に,なんらかの形で変えるのがサイコセラピーだとすれば,その時には,その人のナラティヴがどう変わっていけばいいのかがメインになるはずです。ただしその時に重要なのは,セラピストがあらかじめ「この人はこういう物語に変わればいい」という正解を知っているわけではないということです。そこがこれまでのセラピーと最も違うところです。
 「これまでのセラピー」というのはあえて乱暴に言えば,セラピストは「正しい物語」を知っていて,それに照らして,その人の誤った,あるいはとても不自由な物語を,正しい方向に変えてあげましょうと誘導するものでした。
 それに対して,ナラティヴ・セラピーはセラピストも正解を知らないわけです。そうなると,セラピストとクライアントが対話を重ねながら新しい物語,新しいナラティヴを構成し,共同制作していく以外に道はないわけです。そしてその共同制作の作品が,「よりよい物語」である保証もないわけです。それで不都合があるのだとすれば,とにかくそれを変えることです。方法としては,語りながら変わっていくのを見ていくしかないわけです。そのうちにどこかで,「これでいい」と思える物語にたどり着けばそこでいったん終わりますし,それがまた不都合になってくれば,また語り直すことが必要になります。言ってみれば,永遠に開かれた正解のないプロセスであるという発想です。
中木 具体的には,クライアントとナラティヴセラピストとが対面し,語ってもらうわけですね。
野口 そうですね。セラピーに来ているわけですから,「どうしたんですか?」という質問から始まるわけですが,そういうちょっとした質問に対してクライアントが語り出します。それを繰り返しながら,新しい1つの物語の形となるわけです。でも,その新しい物語がどんなものになるかはやってみなければわからない,というスタンスです。
 例えばアルコール依存症の患者さんは,「なぜアル中になったか」という自己物語を持っています。「こういうつらいことがあって」,あるいは「こんな偶然が作用して,私は気がついたらいつの間にかアル中になってしまいました」というものです。そして,その後苦労して病院に通ったりしても,なかなか回復できないために,離婚したり,仕事を失ったりという人生の物語になるわけです。ただし,これは病院に通っていてもまだ先が見えない,希望がないというところで終わっている物語です。
 ところがアルコール依存症から回復した人の体験談ですと,例えば「そういう時代が私にもあった。死ぬ一歩手前のある時に,誰かの一言がとても気になって,あるセルフヘルプ・グループに通い始めた。最初はつまらなかったけれども,繰り返し行くうちに,気がついたら何年間か酒をやめていた。そういう私が皆さんの前でいまこうやって話しをしている」という形の物語になります。
 この「回復者の物語」というのは,繰り返しになりますが,「いろいろな紆余曲折を経て,私はいま皆さんの前でこうしてお話しをしています」というところで終わっている物語です。
 物語のおもしろいところは,まだ死ぬか生きるかの境をさまよっているような時に語れば,それは悲惨な結末の物語になりますが,回復した後に語れば,「そういう自分があったからこそいまの自分がある」という物語になる。まさに語ることによって物語の形が変わるわけです。ですから,人前で発表する機会がたまたま与えられたことによって,自分の過去を編集しながら語ることによってその人の自己が変容していくのだと思います。

「読むこと」と「語ること」

他人に語ることの効果

鷲田 野口さんの本を読ませていただきました。自分が,これまで考えてきた問題が取り扱われていて,しかも内容がすごく詰まっていておもしろかったです。そのことを思い出しながら野口さんのお話をうかがっていて,おたずねしたいことがいくつか思い浮かびました。
 昔から,特に精神科でそうですが,心の中にさまざまな重い苦しみを持っておられる方に,「自分はなぜこう苦しんでいるのか」を語ってもらって,その根っこにあるこだわりや原因,あるいはそれを引き起こすきっかけになった事件に気づくこと,つまり自分で自分の陥っている状態を知ることによって,問題を解消したり,乗り越えるきっかけをつかむということがあると思います。ちょっと難しい言い方で「自己知」と言いますが,カウンセリングや精神治療でも,自分で自分を対象化して知ることが治癒のきっかけになるとよく言われます。
 野口さんの話されたナラティヴ・セラピーでは,自分を語ることで,従来のストーリーではない別のストーリーに移行する,まとめ直す,問題から解放されるきっかけになるのだとわかります。しかし,哲学をやっていますと,本を読みながら「自分の悩みとはこういうことだったのか。ああ,これで目が醒めた」というように1人でやるわけです。哲学をやっている人間に限らず,人は悩みがこうじたりすると本を読みますよね。本を読むことで気づくということがあると思います。
 ナラティヴ・セラピーでは,ことさらに「誰かに語る」,つまり他人に語ることで効果があるということです。自分で自分に言い聞かせるというような語りではなく,人に語る中で自分のまとめ方を変えていくわけですね。その,他人に語ることがどういう意味を持っているのか,それをどう考えたらいいのでしょう。
藤崎 私自身は,本を読んで自分で考えていくことと,語りながら新しい自分を作っていくこととは,根本的に違うことのような気がします。本を読むというのは,何か答えやヒントのようなものを探してくる,あるいは捜し求める作業で,ある意味積極的な行為だと思いますが,一方で,語るということはもっとその都度その瞬間の可能性をはらんだ行為ではないでしょうか。語りながら思わず出た言葉から,「私はこんなことを考えていたのだ」ということを確認することもあるし,聞き手の反応をみる中で,自分の意見や気持ちが何となく修正され,語られながら変わっていったりもする。つまり,自分が聞き手との関係から作りあげていく,そんな主体的な作業だという気がします。

抜け出せない物語から抜けるには

野口 すごく大事なポイントに,いきなり入りました(笑)。自分で自分を反省したり,本を読んで内省的に自分の物語が変わっていくということは,確かにあり得ることだと思います。ところが,それではどうしても変わらない,ある種の凝り固まった物語から抜け出せないという状態もあるわけです。本を読んで,書いてあることは理屈ではわかる。でも,それを読んだからといって決して楽になれないという人がいます。そこが,セラピーが必要とされる所以だと思うんです。
 例えば,「ポジティブ・シンキングしなさい」という言い方があります。それができれば話は簡単ですが,しかしそれができないから困っているわけです。だから,その人に「しなさい」という言い方をしても,ほとんど意味がない。本に書いてあることについても,理屈ではそうかもしれない。
 でも,「私の物語はもっと強固でぜんぜん変わらない」という場合がある。そこにくさびを打つというか,ヒビを入れていくには,何かもう1つ工夫が必要なのだと思います。その時に対話,あるいはもう少し構造的なセッティングとして専門的なサイコセラピーの必要性があるのだろうと,私は思っています。
鷲田 誰でもよくあることですが,「言ってスッとした」という場合がありますね。それこそ,「語ること」がカタルシスになる場合です。一方にそれがあるけれども,他方で本当に苦しい時や大変な時にはよほどのことがなければ大事なことを口に出さないということもあります。むしろ触れないでほしい,思い出したくもないということもあるでしょう。
 ナラティヴ・セラピーの1つの意味を考えるとしたら,やはり最も言いたくないこと,触れてほしくないことをあえて言葉にすることによって,より深い自分,これまでとは違う自分とのかかわりが持てるということだと想像します。僕は哲学をやっているせいかもしれませんが,話を聴いてもらうよりは本を読んで,自分が苦しんでいるとしたら本の中にはもっと苦しんでいる人がいて――ポジティブ・シンキングのように「こうしろ,ああしろ」といわれるとたまりませんが――,同じ苦しみを自分よりも突っ込んだ形で書いてあるものに出会うと,「自分のとらえ方はまだ甘いなあ」というような形で乗り越えられたりすることがあります。

Why me question

鷲田 ナラティヴ・セラピーでは聴く側は白紙状態で,出てくる話に対して「うん」と応えたり,あるいは積極的に「こうじゃない?」とかいう中で,患者さん1人が物語を作るのではなく,そういう中から,患者さんも思いもよらなかった物語を手に入れる。つまり自分を作り直す,語り直すことができるわけですね。その時におもしろいのは,実は聴くほうの人も語りの中に入ることで絶えず変わっていく経験をするということです。
 セラピーをする方というのは,語られたものに対してどう反応していくのですか?
野口 前提として,ある凝り固まった物語から脱出できずに,それに抑圧されているということがあります。それは,ちょっとやそっと揺さぶっても動かないもので,それをどう破壊して新しい物語にしていくかという話なんですね。
 クライアントは,自分がいまどんなに苦しいか,どうしてこうなったのかに関してある種の物語を持っています。しかし,それがあまり一貫したものではなく,破綻した物語の場合もあるし,典型的な不幸の物語という場合もあります。
 それから,臨床人類学者のクラインマンが言っていることですが,特に重い慢性疾患の場合には必ず,「なぜほかならぬ私がこんなことに?」という質問(Why me question)に普遍的に直面せざるを得ないわけです。バイオロジカルな原理はわかっても,「なぜ私が?」ということで,このへんは哲学や宗教が扱ってきた問題でもあると思います。
 その時にまず,そのWhy me questionに対して物語の形で自分なりの回答を与えるのだと思うんです。「なぜならば,これこれこういうわけで」と。それは人によっていろいろですが,何らかの物語の形式をとることによって,そこに回答を与えようとしている。そして,その与えられた回答の中でまた身動きが取れなくなって,どうしたらいいのかわからなくなっちゃってる,ということがあるわけです。自分なりに作りあげてきた物語が,自分を抑圧する鎧のようなものになってしまい,それで余計に苦しんでいるというイメージがまずあります。
 それをどう剥ぎ取るかという時に,「そんなの迷信だよ」といっても意味がありません。まさにその人の語る物語の中にこちらも入り込んでいきながら,好奇心を持って対話を重ねることによって新しい物語は作られていくのだと思います。
 その時に,上から見下ろして「あなたの物語はこういう意味で不合理です」と言ったり,「あなたの物語は歪んでいますから,こう変えましょう」というと逃げる人が多い。もちろん,「なるほどそうだ」と思える人もいるかもしれないけれども,「私はそんなことが知りたくてここに来たんじゃない」という場合も多い。

看護とナラティヴ・セラピー

鷲田 ということは,ストーリーができるというよりも,クライアントの人が自分で新しいストーリーをたぐり寄せるきっかけを与えるわけですね。そのための材料を,ぎゅっときつく縛られた物語からバラバラにして,断片化したものをもう一度別の話に作りあげるというよりも,むしろ患者さん自身が自己治癒,という言葉がいいかどうかわかりませんが,自分で苦しみながら新しい物語の中へ自分をまとめていくということになりますか?
野口 その両方だと思います。最初の質問に戻れば,語ることによっていままでは不確かなつながりだったものが,ある必然的なつながりを持つかのように語られてしまったりすることがあります。それがまさに物語ができていくということになります。
 それともう1つ大事なのは,そうやってある人に語ったという行為は,その語った出来事がその人の新しい物語の1頁を作るわけです。これが大きなことだと思います。内省したことというのは,書き留めておけば別でしょうけれども,どうも不確かで,はっきりしなくなってしまうことがありますが,「ある人とある時間ある対話をした,そこでいろんなことを語った自分」というのは,まぎれもない新たな1頁として加わります。すると,それを語る前の自分とは違う自分になっているわけです。
中木 僕らでもありますよね。「ああ,俺はこんなことが言いたかったんだ」と気づくことって。
藤崎 いまの議論では,もともとクライアントというのは,何か凝り固まった物語,縛りになる物語を持っていて,ナラティヴ・セラピーはそれを再構成する作業だということですよね。確かにセラピーの場に出てこられるクライアントはそうかもしれません。でも一方で,私たちナースが相手にする患者さんは,必ずしも凝り固まった物語を持っているとは限りませんし,自分なりの物語をすでに作りあげておられる方はそれほど多くないという感触があります。そこがナラティヴ・セラピーと看護での「聴く」という実践の違いでしょうか。
 先日,乳癌のために乳房切除をした何人かの患者さんにインタビューをする機会があったのですが,かなり意図的に話を聴いても,こちらが期待するようなそんな劇的な物語を持っていないんですね。多くの場合は,乳癌や手術といった本人にとって辛かったことにはできるだけふたをして,日々の生活に戻ろうとしている。それで折り合いがついている場合はいいのですが,折り合いがつかないほどいまの身体の状態がしんどいとか,生活に支障が出てくるといった場合に,問題がさまざまな形で噴出してくる可能性があると思うのです。それを未然に防ぐためにも,看護でのナラティヴ・セラピーの応用が可能ではないかと,お話をうかがいながら思いました。
 つまり,普通の看護の場では,凝り固まった物語をほどいて再構成するというよりも,患者さん自身もまだ自分の物語がぼうっとしていて明確なストーリーになっていない段階での援助が中心ということになります。その固まっていない物語の断片を繰り返し話しながらつなぎあわせていって,患者さんが「私の病気って,こういう意味だったんだなあ」と自分で腑に落ちるような語りを作りあげていく過程につきあう,それが看護における「聴く」ことの1つのあり方ではないかなと思います。
 そのためには,それこそ「よい聴き手」にならなければいけないわけだけど,看護実践全体を考えた時,ナースは耳を傾けてただだまってそばにいてあげればよいのかというとそうではありません。ナースは,患者さんの身体的な変化にいつも目を配り,さまざまな状況を判断しながらケアをしています。つまり,「じっとだまって聴く」という非常にノンディレクティブな態度と,判断して介入するというある意味操作的な態度とを縦横無尽に往復し,使い分けなければならないわけです。そこに看護の難しさ,両方を1度に求められる辛さがあるように思います。

『「聴く」ことの力』(TBSブリタニカ)
本書は今年度の「桑原武夫賞」を受賞
『ナラティヴ・セラピーの世界』(日本評論社)『ナラティヴ・セラピー-社会構成主義の実践』(金剛出版)

「聴く」ということの世界

セルフケアと聴くということ

中木 鷲田先生が『「聴く」ことの力』と「聴く」にカッコをつけた意味は?
鷲田 これは偶然なんです。編集者の方が間違ってつけただけで……(笑)。
中木 そうでしたか(笑)。それでは,この「聴く」というところを少し掘り下げてみたいのですが。
鷲田 私が「聴く」ということを考えた時には,看護のことだけを考えていたわけではなくて,ケア全般のことを考えていました。夫婦,親子,先生と子ども,お医者さんと患者さん,看護婦さんと患者さんの,どの関係でもよいのですが,程度はいろいろあるにしても,人が自分で自分をケアしきれない状態になった時のことです。その前提には,もちろん「生きること自体がセルフケアだ」という考えがあります。髪をくしけずったり,お風呂に入ったり,ご飯を食べたり,レコードが聴きたければレコード屋さんに行って買ってくる。これらのことは自分で自分をケアしているともいえるわけです。そういうセルフケアができない人,例えば子どもは完全にはセルフケアができませんし,入院している患者さんもセルフケアがしきれていない。老人もまた体力的にセルフケアができないわけです。そうなった時に,他人がそれに対してさらにケアをしていく,セルフケアのケアをしていくという場面で僕らにできることは何だろうか,と考えたわけです。
 その場合に,最も大切なことは,セルフケアができていないということをどう受け止めてあげたらよいのかですが,そのことを「聴く」というように考えたのです。
 いま藤崎さんのお話をうかがっていて思ったのですが,看護におけるケアというのは本当にバラエティに富んでいますね。私は哲学をやっている人間の趣味で,看護のことを考える時にはけっこう苦しい問題が好きで,そういう例ばかりをあげるのですが,それは病気の種類,トラブルの種類にもよるし,1人ひとりのタイプにもよって違います。
 例えば本当に神経を病んでいる方やもっと重度の精神障害がある方,事故に遭って脚を失うとか,会社に戻れなくなるというような患者さんの場合,先ほどの野口先生の「なぜ私が?」症候群で苦しみを抱え込まれることもあります。一方で元気な方もいるわけで,「いつまでここにいなきゃいけないんだ」ということでストレスを抱えている方もいます。というように,ケアの形はケースによってそれぞれぜんぜん違うと思います。
 「聴く」ということを,常に根底になければいけないと強く主張するならば,ある意味では「この人にいま本当に何がふさわしいのか」ということを考えることだとは思いますが,実際にケアをする場合にはどやしつけることや,お尻を叩くことも必要でしょう。でも,看護の場で「聴く」ということは,一般的に語るのは難しい主題かなと思っています。
 でも,何か聞いてもらうことで背負ってる荷物が軽くなるという経験があります。それにはいろいろな契機があるのですが,語り直しの意味ですね。

「聴く」ことの深さ

鷲田 「聴く」というのは,ちょうどそれを裏返していえば,その人が苦しくて口にすることができないこと,忘れたいと思っていることを,言葉がこぼれ落ちてくるまでじっと待つことですよね。相手が黙っていると,つい「どうしたの?」とか「不満があるなら言ってごらん」と話しかけますが,それをしないで,患者さん自身が話を自分でまとめるきっかけを作るわけです。
 もう1つの意味は,大声で泣き喚くことを裏返した意味で,「聴く」というのはただ話を受け止めるだけではなくて,「そうだね,それで?」というように,何らかのリアクションをするもので,そういう時の声や喋り方,言葉のキメみたいなもの,「あの人には何でも話せそうな気がする」とか,「あの声を聞くとホッとする」とか,「聴く」ことの持っているもう1つの意味があると思うんです。
中木 非言語的なものととらえていいですよね。
鷲田 ええ。聴くことには,そういう面もあるということです。聴くことの半分は,話そのものなのですが,そのもう1つの面も重要だと思うんです。「語る」「聴く」と言った時に,語られることと,語りそのものの持つキメみたいなものと,その両面から考えていく必要があるのかなと思ったりしますね。
中木 先生が,あえて「聴く」と書かれたのは,何か意味がありますか?
鷲田 これは,ナラティヴ・セラピーの裏返しの言い方だと思います。むしろもっと励まさないといけないとか,力づけてあげないといけないのだけれど,それに比べたら「聴く」というのは楽だな,人の言っていることをただ聴いていればいいと,すごくネガティブにとらえられます。でも,実は「聴く」ということ自体は,励ますよりももっと深い力を持っているのではないかと思ったのです。
 例えば子どもですが,お母さんというのは子どもがぐずったり,黙り込んだりしていると,いろいろな形で声をかけるものです。そうではなくて,黙ってその時間を一緒に過ごして,子どもの沈黙自体を聴いてあげることも必要で,子どもはむしろもっと深く立ち直ることもあり得ると思うんです。特に,何らかの形で心あるいは身体にトラブルを抱えた人にも「聴く」ということは,一見非常にネガティブにみえて,実はポジティブな力になるのではないかと思っています。先ほど野口さんに「何かきっかけを与えるのですか?」と質問したのは,きっかけを与えるということは,本当に「聴く」ことの大切さから出てくるものだと思ったものですから。

うまく聴けないナースのタイプ

野口 それは同時に,「聴く」ことの難しさということですよね。こんなに難しいことはないという気がします。特に大学にいると,人の論文をいっぱい読んで,要点だけを押さえるというトレーニングばかりをしてきています。学生から何か言われると,「君の言いたいことはこういうことで,ここに問題があるね」とまとめてしまう。それはまさに合理的な情報処理のトレーニングです。だけど,看護婦さんがそれをやってはまずいだろうということはありますね(笑)。
藤崎 私は,「積極的に聴く」ことのトレーニングを「模擬患者」をつかって行なっています。事前に病気や患者さんの性格,家族背景も含めてどのような経過があるかを設定しておき,ナース役になった人がその人の問題は何かということを6-7分間のコミュニケーションの中で明確化していくというもので,看護の中では「問題の明確化」と言われるプロセスのトレーニングです。
 いま,ナースが明確化すると言いましたが,特に心理的・社会的問題の場合,実際には患者さんの問題は患者さん自身が気づくことでしか明確化できません。ナースはそれを手助けするだけです。そのためには,ナースの思い込みや押しつけではだめで,患者さんが自分の物語を自分の言葉で語るというプロセスが必要となることがセッションの中のやり取りをみているとよくわかります。
 うまく聴けないナースのタイプには2通りあるようです。1つは「答えを求められている」と思い込んでいるタイプ。患者さんが,例えば「私はもう治らないですかねぇ」と言ったら「治らない病気ではありません。こうすれば治るし,こうしていけば何日後にはこうなります」というように,常に脅迫的に答えを出そうとします。
野口 それが専門家だと思っているわけですね。
藤崎 そうですね。ナースの側から情報がたたみかけるように来ますので,患者さんの口は逆に貝のように閉じてしまいます。あとで模擬患者からフィードバックをもらうのですが,多くの場合がその情報は患者さんの耳には入っていません。
 患者さんに口を開いてもらう最もよい方法は共感です。患者さんから「もう治らないですかねぇ」と言われた時に「もう治らないかもしれないと思うくらい,つらいんですね」と,患者さんのその時の心にぴったりと沿った共感を示すことができたら,患者さんが次の言葉を自ら発します。
 2つ目は,この「しんどいですね」「つらいですね」という共感まではできるのだけど,その次の「沈黙に耐えられない」というタイプです。共感の次にはある程度の沈黙が必要です。患者さんが,自分の頭の中を整理し,心を決めて足を一歩踏み出そうとする時の助走です。でもナースはそれに耐えられないんですね。
鷲田 余計に喋るのですね?
藤崎 「大丈夫ですよ!」と言ってみたり,「がんばってください」と励ましたり,時には「私も病気したことがあるんです」と言い出す人もいます。そうすると,せっかく開きかけた口がパタンという具合に閉じてしまいます。

聴くということの効果

藤崎 先ほども言いましたように,患者さん自身がはじめから答えを知っているわけではなく,手探りの状況なのですから,患者さんの考えがまとまってきたり,次のステップに踏み出すための逡巡につきあうという姿勢が看護の「聴く」には求められているように感じますね。
 しかし,漫然と患者さんといっしょに迷っていたのでは単に友だちに話しを聴いてもらっているのと同じです。ナースであれば,患者さん自身の中でその苦しみが例えばセクシュアリティの問題なのか,ボディイメージに関連しているものなのかを考えながら聴くことがとても大切なだと思います。それこそが心理的・社会的な面での看護のアセスメント,もっと言えば看護診断ではないでしょうか。
 もちろん,患者さん自身が自分なりのストーリーを実感し,納得して初めて問題が浮かび上がるわけですが,患者さん自身の問題を患者さんと一緒になって明らかにしていく過程では,ナースはもっと意図的に語られる場を提供,あるいは設定し,語りを促進する技を磨くべきだと思います。これは意図的に語りを創作したり,ゆがめたり,操作するというものとは別のことです。そのためにも,薄っぺらい形だけの共感ではなく,本当の意味で心の底からの「関心」というものが求められていると,トレーニングを通して実感します。
中木 話しを聞く上で,「それで?それで?」という姿勢ですね。
野口 その人に対する好奇心であって,その人がどういう世界を生きている人なのだろう,と。
中木 何かしてあげたい,何か役に立ちたいというところからくる「それで?それで?」でしょうか?
野口 そのあたりが混ざっているとは思うのですが,最もわかりやすい例は恋人同士の会話ではないでしょうか。あまりわかりやすくないかなぁ(笑)。
 情報を手短に要約して処理するような聴き方,語り方もありますが,その対極にある語り方,聴き方というのが,本当にうまくいっている時の恋人同士じゃないかと思うんです(笑)。別に,その人に何かアドバイスしてあげようとか,何かを教えてあげようとかは思わずに,「この人はどう思って生きてるんだろう?この人の気持ちが知りたい」という感じがありますよね。
藤崎 その人本位ですね。
野口 そう。その人を知りたい,その人の世界を知りたいのだということです。
中木 それがぴったりくる感じがしますね。
野口 それだと思うんです。
鷲田 恋愛を美化している?(笑)
野口 いや,これはとてもはかないものなので,そう長続きはしません(笑)。ただ,そうだとすると,ケアリング・プロフェッションというのはしんどいなあと思うんです。患者さんにいちいち恋愛しなければいけないことになるわけです。恋愛に近いような深い関心を持つということが,本当に可能なのだろうか。もちろんできる時もあるし,とてもそこまでできないこともある。現実には,たくさんの患者さんを抱えていて,時間もない中で,それをやれというのはかなり無理な注文のような気がします。いつもというのではなく,ここぞ,という時ですかね。
中木 僕も,元医者(笑)。いまはパートの医者をやっていますが,ふだんの医師の仕事としては,やはり病気を見つけて治すことで,医師が「聴く」という場合は問診を指します。ただ,そこから外れたところに問題がありそうな患者さんというのがいるわけです。でも,患者さんが待っている状況では聴けませんから,別のセッションを作らなければなりません。「次回は,何曜日のいちばん最後に来てください。ゆっくりお話を聴きましょう」というようなやり方ですね。
 3分間話を聴いたら,すごい量の話が聴けますから,そのくらいのことは気づけるわけです。だから,「3分診療」というのは決して悪くないですよ(笑)。
 そうやって時間を取った時には,症状に直結しないところに問題がありそうだということで話を聴くわけですから,その時には「それで?それで?」と,その人の世界を掘り下げていくという感じはありますね。そうすることで何かが見えてきて,「そうか,そうか」と語っていく中で,病気と直結している部分については「これはちょっと違うんだな」ということがみえてくるわけです。そして,そういう中で患者さんは自分を見つけて症状が治まってしまうということもあるわけです。例えば,下痢が主訴で来た人の下痢が,その症状と違うことを語ることで止まってしまうということが,経験としてありますね。

モダンかポスト・モダンなのか

職業を超えないとできない矛盾

鷲田 お話をうかがっていて,お医者さんと看護婦さん,それぞれに思ったことがあります。看護婦さんは一概に言えないかもしれませんが,ケアをする人と考えた場合には,学校の先生とすごく似ているように思います。つまり,職業であることは明らかであるのに,職業人であることを否定しないといいケアができないという,非常に矛盾を含んだ仕事だということです。看護婦対患者として語っている間は,本当の意味で「聴く」ということができないわけです。看護婦さんにしろ,学校の先生にしろ,「僕は君という人に関心があるのだ」,あるいは「君のいまの状態がすごく気になるんだ」というスタンスにならないと,相手は絶対に喋らないですよね。でも,その人に関心を持つということは,職業であることを超えないとできないという矛盾があって,そこにしんどさを抱え込むという特殊なあり方だと思います。
 それからお医者さんの場合ですが,とてもおもしろかったのは,大きな総合病院ですと機能が分化され,重病の人が多いのでしょうからちょっと違うかもしれませんが,普通の町医者という形態は,これからますます地域医療の層が厚くなっていく中で,看護婦さんとの役割がかなりオーバーラップしていくだろうということです。私がかかっているお医者さんは,仕事の具合も聴かれるし,息子はどうしているかと訊かれるし,先生がほとんど看護婦さんの役もしていらっしゃる。
 大病院の先生は問診の時に「しんどいか?」とか「つらいか?」とは聴きませんよね。「どこがどう痛いですか?」「どんな症状ですか?」という質問ですよね。町のお医者さんだと,「そら,しんどいなぁ」と言ってくださる。自分の背景にまで関心を持ってくださるということで,ものすごく喋りやすいということがあります。そこが大きな病院のお医者さんといちばん違いますね。
 そういうところの看護婦さんは,薬を出す,お金の計算をする,保険の計算をするということまで役割がありますし,先代の先生の時からいる70歳くらいの看護婦さんがおられて,若先生に薬の指示まですることもあり,僕らも何でもその人に聴いてしまうというところがあったりします(笑)。
 これからの地域医療を考えていった場合には,従来の医師・ナースの役割が,そう簡単には分けられない,いい意味での融合がみられたり,分担の関係が出てくるのではないかと思います。
中木 ミニ・ドクターという発想ですが,それは看護の世界から消してしまったほうがよいのではないかと思うんです。

病院は工場?

中木 例えば急性期の病院の在院期間はどんどん短くなりますので,そこはまさに工場,身体を治す工場と考えることができます。そして,その修理された身体に伴ってくる心の問題,社会的な問題というものは,5日や6日ではなんともしようがないわけです。その時に必要とされるのはナースの力ですね。ですから,次の段階へ譲り渡していくようなシステムを作っていかなければ仕方がないのかなと思います。
藤崎 先にも述べましたが,看護はなぜ難しいのかと考えた時に,実証主義的ないままでの科学のあり方,モダンといわれたものの知識を使って身体のことを診ている医師と一緒に,患者さんの身体のことも十分把握しなければいけないし,なおかつナラティヴ・セラピーのような,ポスト・モダンと言われているそれとは別のあり方も,同じ場面でやっていかなければならない職業だからなのだと思います。そのどちらが欠けても,看護はできなくなりますね。
中木 それは看護だけではなくて,例えばいまの開業医のような人も必要としていますから,医師とナースの境界線は,場合によって変わりますよね。
野口 中木先生が,「病院はまさに工場である」という言い方をされましたけれども,急性疾患に関してはその表現はすごくあたっていると思うのですが,慢性疾患に関しては,工場ではもうほとんどやることがないですね。
 そうすると,問題は慢性疾患がいまこれだけ増えているにもかかわらず,そのケアの理論というものが,ほとんど提供されていないところだと思います。慢性疾患に関しては,そういう工場的な発想ではないケアが求められていて,そこでおそらくナラティヴとか「聴く」ということがとても重要な概念になってきて,その場にいる看護婦さん,あるいは医師も含めて医療者たちは,従来のバイオメディカル・モデルではないモデルをきちんと作っていかなければいけないと思うんです。
中木 医師の世界では,身体の治療はがんばって体系づけてやってきたわけだけど,慢性の患者さんの抱えているものについては本当に無力です。「ポスト・モダン」と言われているものは,過去の反省に立って出てきたものですから,それを医学,医療の中に取り込んでいくことは大事だと思います。
 だけど,ポスト・モダンと言うと安直に流れる傾向がありますよね。それはちょっと違うのではないかと思います。やはり,ある種きちんとした方法論を打ち立てていかなければいけないだろうと思っています。自分ができるわけではないのですが(笑)。

「臨床哲学」とは

鷲田 いまの指摘は,ナラティヴ・セラピーの理論的な問題にグサッと突き刺さるというか,語ることで自分をまとめ直すという問題にかかわってくると思います。野口さんのまとめ方で,問題が非常にクリアになったと思うのですが,慢性疾患という病気はただちに治療することよりも,大事なことは病気と言われているものとどうつきあっていくか,それを抱えながらどう生きていくかという問題だと思います。
 「なぜこの私が?」という問題を野口さんは,ほとんど哲学の問題に近いとおっしゃったけれども,実際そうなんですね。事故や病気というものは,突然予測しないところで起こるわけですから,まったく偶然のものです。
 私が聞いた例ですが,肺癌病棟で一番怒っている人は,タバコを1度も吸ったこともない人でした。「なんで私がこんなところにいなければいけないのだ!」と言うのですね(笑)。これは,答えのない問いです。神様しかご存知ない,いわば不条理ですから,その根拠は何もないんです。でも,問わずにいられない問いというものを抱え込んでしまうわけです。
 そして,事故や病気というものは,抱え込んでしまうと,それ以降の生活はそれによって深く規定されてしまうわけですから,まったく偶然のことがそれ以降の生活に決定的な意味を持ち,それから離れて人生を考えられないわけです。それを人々は,昔から「運命」と呼んできたわけです。そして「なぜ私が?」というのは,運命への問いなのです。それには答えがありません。
 僕は,哲学に臨床をつけたわけですが,僕らは直接ケアにかかわるというよりも,教育や看護の現場で起こっている問題に,哲学的思考がどのようにかかわれるのかを考えていますので,何か応用しようということではありません。現場で起きている問題を看護婦さんや先生方が自分たちの言葉でとらえる時に,その思考にかかわっていきたいわけです。その時に唯一,これだったら哲学もかかわれるなと思ったのは,答えのない問い。なぜこの偶然が自分にとって決定的な意味を持つのか,なぜこの私が?という問いをどう考えたらいいのかということで,これは哲学者がみんな自分の中にひっかかりを持って考え続けてきたわけです。
藤崎 そういう問いが発生するような場を,先生は「臨床」とお呼びになっているととらえてよろしいですか。
鷲田 それも1つです。そういう問いは,ある意味で最も煮詰まった問いですが,そうではなくて,例えば「私はこの人に何がしてあげられるんだろうか?」とか,「本当にこの患者さんにとって,生きることは死ぬことよりもいいのだろうか?」とか,横でお医者さんが治療方針を出された時に,「この人にとって本当はこれ以上生きることは意味がないのではないだろうか?でも,そんなことを考えてしまう私は不遜なのではないだろうか?」という問題をいっぱい抱えていらっしゃるわけで,その思考にかかわっていきたいということです。
藤崎 それが臨床哲学なのですか。
鷲田 そうなんです。
中木 その「臨床」というのは,英語でいうとクリニカルという言葉ですか?
鷲田 人によっては,「現場哲学」という名前をつけろというアドバイスをくださったりするのですが,クリニカルというのはベッドサイドという意味ですから,社会のベッドサイドという一種メタフォリカルな使い方をしています。
中木 まさに「床に臨む」意味ですね。

物語論とポスト・モダン

鷲田 それで本題に戻ると,「ポスト・モダン」というのはある意味,誤解されていた面もあるのですが,私たちが現実だと思っているものが,実は制度的に,あるいはあるパラダイムの下で作られていたのだというように,ある意味で脱魔術化するような論法をずっと繰り返してきています。
 だから物語論というのも,「大きな物語」という考え方があるのですが,あれも誤解されています。物語を否定したのではなくて,「大きな物語」を否定しているだけで,むしろ「『小さな物語』のざわめきの中に帰っていこう」というところがあるんですね。
 でも,そうすると今度は,「大きな物語」を全部,「これは物語なんだよ」「あれは観念の制度なんだよ」と否定していった時に起こってくる問題が,さっきの「語り直し」の問題です。結局,何らかの形で物語として構築しなければならない。
 そうすると,「この物語は,こちらの物語よりもよい」「こっちはよりいけない物語だ」という,その基準を僕らはどう引き受けていったらよいのかということが,ナラティヴ・セラピーをされる時にあると思うのです。
 最初におっしゃったように,それが本当によい方向か,悪い方向かすらわからないという,そこに非常に微妙な問題をはらんでいて,本当にアナーキーでよいのか。あるいは,「人間にとっては,こう語るより,こう語るほうがよりよい物語である」と言える根拠みたいなものがあるのかという,その微妙なところで,外側からの揶揄もあるのではないでしょうか。
野口 『ナラティヴ・セラピーの世界』という本に書いたのはまさにそのことで,リオタールを引用して,「大きな物語」の衰退と「小さな物語」の復権という,彼の「予言」がそのとおりになったと私は思っています。つまり,ナラティヴ・セラピーというのは,「大きな物語」を喪失したあとの「小さな物語」を主題とするセラピーだと思うのです。個々人の,それぞれの物語が,大きな歴史物語に回収されずに復権した。まさにその点でポスト・モダンの,リオタールの「予言」どおりのことが実際に起きたのだろうという解釈がまず1つあります。
 それから,先ほど鷲田先生がおっしゃったように,結局物語の形でしか,私たちは物事を把握できない。これはおっしゃるとおりだと思います。つまり,ポスト・モダンの物語とは何かというと,「大きな物語」が終わったという物語なのです。これはよく言われることですが,私たちはいまや「大きな物語」には信憑性を感じられないという,そういう物語を生きる段階にいるのだと思います。そして,そこには生きられないから,もはやどのような「大きな物語」にも食指が動かないので,残っているのは個別の「小さな物語」しかなくなってきた。その中で,そこを大切にするということが,いま復権してきているという言い方もできると思います。

医療ではどう活かすのか

「大きな物語」と「小さな物語」

野口 それからもう1つ,これがすごく大事な問題で,先ほどの慢性疾患の話から言えば,病とともに生きようとしていろいろな重い問いを抱えながらも答えが出ないという時に,本当は誰も答えはわからないわけです。それを「あなた,こっちだよ」と言うほうが,倫理的に許せないことだと思います。本当にわからないのだから,わからないままを生きるしかない。行った先にあるのがより不幸な物語なのか幸福な物語なのか,とにかく行ってみるしかないというスタンスしかないだろう,というのが,「大きな物語」の信憑性をいったん相対化したあとの生き方だし,生き方にかかわる問題だからこそ答えがないんですね。生き方の問題は,誰かに簡単に答えを出してほしくないですし,押しつけてほしくない。これが,いまの私たちが信ずるべき倫理なのかなと思います。
中木 僕が想定していたのは,急性期の身体を修復する工場は,そういうものとしてあるのは仕方がない。しかし慢性期になると,そこでこぼれるものが山ほどあって,そこはいままでの医師やナースたちが,うまく取り扱えてこなかった。そこに「小さな物語」と言われているようなポスト・モダンのものを導入していったら,少し活路が開けると受け取ったのですが。そうではないのですか?
野口 バイオロジカルなものを1つの「大きな物語」と言ってしまえば,確かにそう言えますね。いわゆる近代医学という1つの「大きな物語」ですね。
藤崎 いや,確かに急性期は「大きな物語」でいける部分もあるかもしれないけれど,私は,慢性の場と同じように急性の場も「小さな物語」が物語られるべきだし,同じくらい発生していると思うんですね。
中木 あるとは思うけど,比重から言えば慢性期と急性期ではえらく違う。「それどころじゃない」というところもある。それよりも,いまの医療の抱える現状では,慢性期でこぼれているところのほうがはるかに目立つ。そこで,慢性期を取り扱うのに期待されているのが,家庭医なり開業医なりの先生だし,在宅で働くナースだというところで,この「語る」「聴く」ということを自分たちの軸として持つとよいという気がします。
 もちろん,そうすっきり割り切っていいかどうかは問題だと思いますが,あるところで割り切らないと,医師やナースはスーパーマンではありませんから,ある種の棲み分けというのが,社会のしくみの中では必要なのかなという気がします。
鷲田 最後が微妙なところなのですが,結局ケアの問題を考える時に最も足をすくわれやすいのは,ケアがさっき言ったような真心とか誠実さという「大きな物語」として,科学の真理の世界から落ちこぼれたものを救うもの,補完するものとして学校現場では「心の教育」,医療や災害現場では「心のケア」という表し方をしているわけです。それ自体が「大きな物語」に化してしまう危険性がすごくあります。
 だから,ナラティヴ・セラピーのラジカルさというのは,個別性あるいは多様性の現場で,それをジャンプしないで,その特異性の場で仕事をしつづけるという,その意味でポスト・モダンなのかなと,僕は思ったりするんですね。
野口 すぐに「心のケア」とか「心の教育」が技法化し,マニュアル化して,体系化されてしまうんですね。そういう動き自体に反発しているわけです。「そうされちゃあ,元も子もないんだ」ということです。
鷲田 とてもよくわかります。

よい聴き方とは

野口 このナラティヴの概念を導入すると,患者さんの人生物語というものを意識するのと同時に,ケアの専門家としてのケア物語というのが基本的に対等な形で出会わざるを得ない。つまり,自分はどこか高みの見物のように見下ろしながら何かを操作したり,介入したりすることではなくなるはずです。ナラティヴの概念を大事にするのであれば,人はナラティヴを生きる存在なわけですから,専門家もまたナラティヴを生きるほかない。そうすると,「専門家としての私の物語」というのがあるはずです。「ケアの専門家としていままでやってきた私は,いまこのケアを,私のケア物語のどういう頁に,どういうエピソードとして書き加えようとしているのか」という問いを,常に問わざるを得なくなるだろうと思うんです。答えが見えないのですから。
藤崎 ケアをする者される者という構図の中で,医師やナースは,ともすれば自分の物語を患者の物語にすり替えてしまう危険性があるということに,常に自覚的でなければいけないということですね。
野口 確かにそれもあるけれど,「気をつけなきゃいけない」という意味ではなく,意識せざるを得ないというか,相手の生き方,物語が変わるのと同じように,私の物語も変わってしまう。それが「対等だ」ということだと思うんです。
 物語的真実と歴史的真実という言葉を使うと,歴史的というのがある種客観的な「大きな物語」によって正当化される,あるパラダイムの真実なんですね。そして,物語的真実というのは非常に個別的で,でもその場のリアリティを非常にうまくつかんでいる。だとすれば,ケアの場面でより重要なのは物語的真実なんですね。だから,それは客観性や普遍性には回収されないぞ,という思いが必要です。
中木 本の内容を変に他の患者さんに応用したりということは,駄目ですよね。
野口 あ,それは絶対に駄目です。
中木 そうなりそうな気がしてね。だから,「新たな2人」という関係を常に意識しつづけるということで,それはすごく賢くないとできないのではという気がします。
野口 ついマニュアル化したくなるんですね。でも,そうなったら本当に元も子もないので,もしも「ナラティヴを生かすためのマニュアル」みたいなものが出てきてしまったら最悪ですね。
鷲田 一番「聴く」ことが下手だった者がマニュアルどおりのレッスンをするということですよね。

マニュアル化できない技術

鷲田 僕が,「これはいい聴き方だな」と思った例を,『「聴く」ということ』の中に2例出しましたが,それはマニュアルになったとたんに最悪のものになるんですね。
 その1つは,宇野千代さんの人生相談ですが,彼女の回答の8割近くは反復なんですね。ですが,あれを毎週やっていたらただのクリーシェになってしまって,何の意味もなくなる。それから,これも別に批判の意味で言うのではないのですが,東海大の村田久行さん(健康科学部社会福祉学科・教授)が「傾聴」の講習会をしておられますが,僕も教わって「すごいな」と思ったのは,患者さんが何も言ってくれない時,ここで言葉を出してしまったら聴けないという時に,彼はこう教えてくれたんです。「で,いま何を考えてました?」というんですって。そうすると,何か言ってくださる。そのタイミングは,やはり経験を積んだ人にしかできないことだと思います。それを学ぶ側が「あ,沈黙がきた。『いま何考えてました?』」と聴いたら,これは患者さんの個別性と一番遠ざかってしまうことになります。
 だから,僕はこんな本を書いてしまったのですが,講演にためらいを憶えるのは,「聴く」ということについて一般理論を構築したら,自分が主張したいことと最も反対のほうにいってしまう,という戸惑いがあるからなんです。授業でも,「『聴く』とはこういうことだ」と言い出したとたんに,なんか空しくなってくる苦しさがあるんですね。
中木 マニュアルというのは,だから悪だというのではなくて,あれが自在に使いこなせないとマニュアルじゃないんでしょうね。
野口 臨機応変に,と言いますか。
藤崎 でも,マニュアルは,作ったとたんに,誰にいつ使われるかわからないところがありますよね。
中木 いちいちマニュアルと首っ引きというのは最低でしょう。
野口 技法でなく,スタンスとしか言いようがないですね。スタンスさえ合っていれば,後の技法はどうでもいいことという気もします。
中木 技術が身につくのに,最も高いレベルは自動化ですよね。自然にサーッと出てきて使いこなせるということで。
鷲田 技術もテクニックという意味ではなく,メチエみたいなもの。つまり,経験を積んで身体で覚えて,呼吸でわかって,それこそ自在ですよね。ベテランの看護婦さんで,ただただ頭の下がる人がいますよね。どんな人からも尊敬される看護婦さんは,メチエとして「身体知」みたいなものが出てくる。「コツ」と言いますか。
藤崎 ナースの「身体知」というか,特に「聴く」ことに関する身体性の問題は,とても興味深いと思っています。でも,「長くやっていること=エキスパート」というものでもないんですよね。

それぞれのスタンスの大切さ

中木 医療の職にある人たちは,当然病気を持った患者さんをケアしていく中で,患者さんの実態に迫りたいと思っているわけです。その迫る1つの手段として,手法というと叱られるかもしれないけれど,ナラティヴ・セラピーや臨床哲学ということをやっている人たちがいて,それは非常に医療に近いところにあるという気がしました。
 そういうところで,患者さんに語ることを,医師やナースが聴くということを,自分たちの実践の中に取り込んでいけないかというのが,今回の企画の趣旨だったわけです。
 ただ,実際に語ってもらうことについては,ナラティヴ・セラピーの時には,クライアントが自分の問題を抱えてきているからやりやすいということがあったかと思うのですが,医療の中でそれをどうしていったらいいのかというのに,何かヒントをいただけたらありがたいと思います。
 僕は,学生たちに,患者さんの実態にもっと迫るには,その人の歴史=ライフ・ヒストリーを語ってもらえと言っていて,それはわりと見つけやすい手法なのかと思います。でも,何かの小説に,それを看護婦さんに聞かれてうっとうしい,ということが出てきたので(笑)。
野口 いま,比較的この考え方が試しやすいなという代表格は,ターミナルケアだと思います。そこでは,やはり語ること,聴くことというのがとても大事というか,それをしないと「ケア」にはならないだろうと思うんですね。
 科によって,いろんなバリエーションがあり得るのですが,やはりそのスタンスさえ持っていれば,「この患者さんはいま何か語りたいだろうな」とその場で判断するしかないわけで,マニュアルで判別しようがないわけです。これは臨床の勘みたいなものですね。
藤崎 ……。
中木 藤崎さん,いま何考えてました?
藤崎 いや,医師はどうするつもりなんだろうって……(笑)。

患者が選ぶ時代に

藤崎 ナースは,なんとか患者さんに寄り添いたい,患者さんの現実に近づきたい,それがいいナースなんだということが,コンセンサスとしてあると思うんです。これは一般の人にもナースにもあると思いますが,医師はどこまでやるつもりなのか,それともそれはもうやらないつもりなのかということが,一緒に働いているナースにももう1つ見えてこない。もう引き受けないつもりで,「そこは自分たち医師の領域ではない」と思っているのか,それとも先ほど先生がおっしゃったように,家庭医療や地域医療に比重が移ってきた中で,しょうがなしにそちらに目を向けるようになってきたのか。それとも,医療者たるもの,医師であろうとナースであろうと,そこにはかかわっていくべきだということなのか。そのへんがよくわからないなあ,と考えていました。
中木 確かに難しい。
藤崎 それぞれだとは思いますが,実際にどこまでできているかは別にして,少なくともナースは,みんなそれこそが看護だということで,その辺の肝は据わってますよ(笑)。
中木 医師はどうでしょうね。医学部の中では「引き受けなきゃいかん」と言われ続けてきて,しかし実際に臨床の場に入ると,それどころではないわけです。自分の専門領域の研修をするだけで精一杯で,「ちょっとそれを考えるのはやめとこう」という感じでいて,それが癖になってしまっている。しかし,どこかで「昔言われたなぁ」というのを引きずりながら,罪の意識も持ちながら働いている(笑)。だから,そこを指摘されると,すごく腹を立てる先生もおられますね。 編集部 原罪でしょうか。
中木 そうですね,原罪に近いところがあるのではないでしょうか。だけど,家庭医をめざすような人たちは,そこが自分たちの最も大事なところだと思います。そういうことに気づいた人がアメリカで学んできて,そこをやっていかないと,と気づいた。たぶんそういうことだと思います。
藤崎 そうなった時に,ナースと医師と臨床哲学の方と臨床社会学の方とが,どう役割を?
中木 バッティングするのではないですか。でも,そこで患者さんが選んでいくと思います。美容師と理容師がバッティングしている例って,たくさんありますから。
鷲田 それ,いい例ですね(笑)。
藤崎 独自性を主張する時代は終わった,と?
中木 いや,本当に専門家になったらそうではないと思います。医師でも,そこを引きずりながら,例えば「私は眼の専門だ」「人間というのは眼が歩いているようなものだ」と思っている人は,それでいい。そう割り切って,後はそこをうまくやってくれる人と手を組めばいいわけです。だけど,原罪を持って「やらないかん,やらないかん」と思っている人は,手を組むことができない。自分ができないということを認めないですから。
 だから,例えば看護婦さんにもっと手を組んでなんとかやれるような教育体制を組もうとなっていけば,もっとよくなると思います。僕は,そういうことで看護婦さんにがんばってほしいと思っている医者です。
 今日は長い時間ありがとうございました。