医学界新聞

 

 〔連載〕ChatBooth

 自分の名前で呼ばれるってうれしい

 加納佳代子


 もう長女は23歳になるのだが,はじめての子どもだったので自分たちのことをどう呼んでもらおうかと考えた時がある。私のことを「かよちゃん」と教えると,「かおちゃん」と呼ぶようになった。夫のことを「あきおくん」と教えると,「あちおくん」と呼ぶようになった。
 私は産休明けから病院の託児所に子どもを預けて働いた。夜勤も託児所でみてもらっていたためか,娘にとっては小さな貸家の「わが家」とプレハブの「託児所」はどちらも「自分の家」であった。その託児所の人を,私は名字で呼んできたせいだろう,娘も野平さんという職員の方を「のりらさん」,宍倉さんは「ちちくらさん」と呼んでいた。また,仕事が終わらないと,婦長が託児所に迎えに行ってくれた。皆から「婦長さん」と呼ばれるその人は,娘にとって「ふちょう」という名の1人の大人であった。
 ある日,娘は私に言った。「かおちゃんって,おかあさんなんだってね」。
 えっ,知らなかったの?
 娘は,世の中には「おかあさん」という名の人が多いのだな,と思っていたらしい。その上,「のりらさん」も「ちちくらさん」も,「おばちゃん」というもう1つの名前を持っているらしい。そして「かおちゃん」にも「かのうさん」という名だけでなく,「おかあさん」というもう1つの名前があると知った。それからだんだん,なんとなく,他の子どもと同じように「おかあさん」「おとうさん」と呼ぶようになってしまった。最近では時々,「カヨコさん」と呼ばれる。
 部長さん,婦長さん,主任さん,看護婦さん,助手さん,学生さん,そして患者さんというように,私たち看護職は1人ひとりの名前をあえて言わない文化を作っているようである。以前婦長をしていた病院には私を「加納さん」と呼ぶ医師もいたし,私を婦長と知っていても「加納さん」と呼ぶ患者がいた。それはとても心地よいものであった。
 私が勤務する現在の病院は,精神科でありそのほとんどが療養病棟である。この2月から1年間,ナースキャップをはずしてもよいし,私服を着てもよい,ただし,TPOに合わせて,治療的環境にとって,療養環境にとって,その時何を着るのが最もふさわしいか自分で判断して選んでください。1年後にどうするのか決めましょう。それまではすべてが試みですと。大方の看護婦がナースキャップをはずした。私服を着ている者もいる。その光景を見て,ある医師がこう言った。
「キャップをはずし,私服を着ると,看護婦1人ひとりが今までとは違ってみえる。いかに今まで『看護婦さん』という集団で見ていたのか気づかされた」と。
 看護部長室で仕事をしていると,「トントン」というノック音と同時にドアが開き,入院患者のY青年が顔を出した。
「加納さんいますか」
「はい,何でしょうか」
「職業訓練部の文集ができたので持ってきました。今度の文集,加納さんに原稿を書いてもらいたいので,お願いします」
「何を書いたらいいのですか」
「うーん,なんでもいいんですけど,加納さんの子どもの頃の話なんていいですね」
 病棟の新年会で急にあいさつを頼まれた時に,
「この病棟では,私のことを『加納さん』と名前で呼んでくれる人がいるのでとてもうれしいです」と言った。それ以来,私に気を使ってか,皆が「加納さん」と呼んでくれる。自分の名前で呼ばれるってうれしい。