医学界新聞

 

女性初の,そして看護職初めての大会長職

第17回日本集団精神療法学会大会の開催に当たって

武井麻子(日赤看護大教授・第17回日本集団精神療法学会大会長)


 きたる2000年3月17-18日の両日,東京都府中市の安田生命アカデミアで,第17回日本集団精神療法学会が開催されます。

国際的な場での研修システム

 本学会は,発足以前の研究会の時代から数えれば,20年以上にわたる活動の歴史があるわけですが,最近ようやくその実践が広く認知されるようになってきました。そして,昨(1999)年からいよいよグループセラピスト養成のための研修システムが始動することになり,同年9月には国際集団精神療法学会の環太平洋会議が開催されました。
 この会議には,日本だけでなくアメリカ,韓国,台湾,オーストラリアなどからも多くの参加があり,国際色豊かなワークショップが繰り広げられました。これは知的にも実践的にも大きな刺激となりましたが,本学会にとっても大いに力づけられる出来事となりました。
 この会議の中では,学会初の試みとして大会前日のプレコングレスを開催。キャンディデイトとスーパーバイザーのための研修会を設定しました。また,プログラムの中にも研修プログラムを組み込みました。

「語る」ということの意義

 ところで,今年の学会のテーマは「グループで語ることの意味」です。
 最近,社会学や心理学,文化人類学などのさまざまな分野で,「ナラティヴ-語り」という言葉をよく見かけるようになりました。特に,家族療法の中では「ナラティヴ・セラピー」と呼ばれる新しいアプローチが注目されています。これらは,現実というものは客観的に厳然と存在するものではなく,「語り手と聞き手との語りの相互作用の中から生み出されてくる」という考えに基づくものです。
 精神療法も「語り」を基盤とする治療ですが,中でもグループは,メンバー同士の相互作用で次々と語りが紡ぎ出されていきます。語られるのは言葉を通してだけではありません。時には行為やしぐさ,音,沈黙などによって語られることもあります。そして語られた瞬間,その物語が当人にとっても思いも寄らないインパクトを持つことがあります。
 また,1人のメンバーの語りは別のメンバーの連想を促し,新たな語りを生み出すのです。そうして1人のメンバーの物語は,他のメンバーの物語と響き合いながら,新たに書き換えられていきます。
 しかも,ナラティヴの観点から見ると,グループはグループそれ自体が物語を構成するという特異な相があります(もちろん,二者関係にも同じようなことが言えるのでしょうが)。グループは,回数を重ねるごとにさまざまなメンバーの交代や変化などを含み込みながら,1つの連続した物語として発展していきます。1回のグループをとってみても,そこには1つの全体としての物語が存在するのです。
 こうした物語の中で,われわれ専門家はどのように立ち現れるのでしょうか。ナラティヴの主張には,権威ある者としての専門家という立場への批判があります。既成の知識や経験によってわかったつもりになったり,理論の当てはめに終始してしまうような専門家の態度からは新しい物語は生まれないというのです。
 こうした考え方の背景には,医療における患者アドヴォカシーの運動やフェミニズムの考え方とも通底する社会全体の動きがあります。今や学問や理論(似非科学)によって対象化され,普遍的概念や専門用語といったものにからめとられてしまった個人的体験を,再び主体の手に取り戻そうとする動きなのです。

参加者の交流を意図したプログラム

 本大会の初日には,社会学者の野口裕二氏(東京学芸大)が「ナラティヴ・コミュニティとしてのグループ」というタイトルで特別講演を行なう予定です。また,大会を通じて一方的な情報の伝達ではない,参加者相互の交流を意図したテーマ・セッションやワークショップが多数企画されています。さらに海外からは,アメリカのエリック・シュナイダー氏がスーパーバイザーを対象とした「システム・センタード・グループセラピー」のワークショップを行なう予定です。
 今世紀最後の年の大会で,一体どのような物語が紡ぎ出されるのか,初めての女性の,そして初めての看護職の会長として,今,私は大きな期待と責任とを感じています。