医学界新聞

 

 連載

「WHOがん疼痛救済プログラム」とともに歩み続けて

 武田文和
 (埼玉県県民健康センター常務理事・埼玉医科大学客員教授・前埼玉県立がんセンター総長)


〔第16回〕がん患者のQuality of Life (1)
van Dam博士の来日

 がん患者のQuality of Life(QOL)についての話は,オランダのFrits Sam van Dam博士が,初の来日の日時を電報で知らせてきた1983年2月にさかのぼって始まる。連載第5回(本紙1999年3月22日付,2331号)で紹介したが,その前年の1982年10月にイタリア・ミラノで開催されたWHOがん疼痛救済プログラム策定の初の協議会で,「日本に行くからよろしく」と私に言ったvan Dam博士である。
 博士は心理学者で,顕微鏡の発明者Antoni van Leeuwenhoekの名を冠したオランダ国立がんセンターの心理社会学研究部長である。この研究部は,今ではQOLに関するWHO研究協力センターに指定されており,その所長も博士である。ミラノでのWHO協議会には「WHO consultant for quality of life」として出席していた。私は,当時の日本ではあまり耳慣れないこの肩書きから,がん医療の新しい展開がWHOで準備されているのを感じた。結果として,博士のこの時の来日が,日本でのQOLへの関心を高める契機につながった。その頃からの裏話も含めて紹介したい。

突然の国際ワークショップ開催提案

 van Dam博士の電報には宿泊ホテル名がなかったので,私は成田空港に出迎えるほかないと考え,到着当日に空港で待っていた。博士は,私をみつけて喜んでくれたのだが,2週間の滞在予定なのにホテルの予約もしていなかった。旅慣れているのか,のんびり気質なのかと思いながら,急ぎ宿泊先を決めた。ホテルへお連れする間に,改めて来日の目的を尋ねた。彼はWHOからがん患者のQOLへの取り組み状況を視察するよう命じられてきたのだが,明日からの2日間は東京見物にあてたいと言う。
 翌日の東京見物につきあい,明治神宮の境内で休憩した時に,van Dam博士は,突然「WHOと交渉するから,がん患者のQOLの国際ワークショップを東京で開こうではないか。ついては(武田が)現地の準備責任者をしてくれないか」と言い出した。そして,1983年当時の日本では参加者が集まるだろうかと心配する私に,「大きな会にはならないよ。西ヨーロッパでもQOLが主題だと数十人しか集まらない」と博士は鷹揚なものであった。

がん医療へのQOLの導入

 がん患者のQOLに関心が寄せられるようになった経緯をvan Dam博士に尋ねたところ,答えは次のようであった。
 がん医療が高度化,複雑化して,治癒率が向上するとともに延命期間が長くなった患者に,心理面や社会面の問題が浮上するようになった。その解決の支援に,心理学者や社会学者が医療への参加を要請されたが,がん医療の現場で彼らがみたのは,患者のQOLを無視して,治癒に向けたさまざまながん治療法に熱心な医師が治療を進めている姿であった。彼らががん患者のQOLに目を向けるよう,医師に働きかけたことから,がん医療の世界にQOLの考え方が持ち込まれるようになった。
 しかし,QOLに関心のある医師はまだ非常に少なく,「WHOが,がん疼痛救済プログラムに着手しているのだから,痛みやQOLについて東京でのワークショップを情報発信源としよう」と博士は提案したのであった。それを受けて私は,「小さい会ならば私のところで開催は可能。私が国内の準備役を引き受けるから,博士はWHOなど,国外での折衝を進めてくれないか」と逆提案する形で彼に応えた。

河野博臣先生との出会い

 QOLについてのvan Dam博士の視察は,埼玉県立がんセンターの訪問から始まったが,博士が訪問希望を伝えたがん専門病院の中には,「QOLが主題では対応できる医師がいないから」と訪問を謝絶するところもあった。それでも博士は,「他の国でも断られた経験がある」と言って訪問拒否に平然としていた。
 埼玉県立がんセンターでは,院内セミナーでQOLに関する最新情報を講義したが,その際に「痛み治療に成果をあげ,患者のQOLはかなりよくなっているが,さらなる努力を」と職員を激励した。続く有志職員との夕食会の席で,石黒早苗先生(埼玉県立がんセンター精神科医)が,死の臨床研究会代表の河野博臣先生(神戸市・河野胃腸科外科医院長)を訪ねるよう博士に提案した。その提案を受け入れて,van Dam博士はその席から神戸を訪問したいと河野先生に電話し快諾を得た。
 そして,博士は国立がんセンターや愛知県がんセンターなどを視察した後に神戸に向かった。van Dam博士を駅頭で出迎えた河野先生は,博士を自宅に招じ入れ,深夜まで意気投合し語り合った。この時の2人の話し合いの模様は,柳田邦男著『死の医学への日記』(新潮社,1996)に紹介されている。こうしたことから河野先生も東京でのワークショップの準備役として深くかかわることになったのである。
この項続く