医学界新聞

 

〔カラーグラフ〕看護からみた20世紀(3)


看護(近代)教育のこれまで
坪井良子(山梨医科大学)

 看護にとっての20世紀は,まさに近代的看護の誕生に始まった。今日までの1世紀にわたる看護の道程は決して平坦ではなく,厳しい茨の道でもあった。それは一方では女性の歴史そのものであったともいえる。
 わが国の近代的看護婦教育機関の誕生は,19世紀末に有志共立東京病院看護婦教育所,京都看病婦学校,桜井女学校看護婦養成所に始まるが,いずれもナイチンゲール教育を導入する形で設立された。その後相次ぐ戦争や伝染病の流行などによる社会的な要請に応え,看護の量的確保のため速成看護婦養成も発生した。明治期から1915(大正4)年の看護婦規則の制定までの看護婦養成機関は,実に340にものぼった。中でも日清・日露戦争による日赤看護婦の活躍が看護婦の知名度を増し,社会的評価を高めた。看護の高等教育は1927(昭和2)年に聖路加女子専門学校で開始された。現在の基盤としての教育は,第2次世界大戦後GHQによってすべてのシステムが改革された時点からである。
 一方で,看護婦の資質および看護の地位を高めるためには女性の地位向上が必要であった。歴史の皮肉は,敗戦そして占領という状況の中で,GHQが女性の人権を基調として,自由と平等への道として参政権賦与を命じたことにある。このことは女性の社会的地位を向上させ,看護教育にも大きな影響を及ぼした。看護婦学校への入学資格は新制高校卒業となり,戦前の看護婦より高い教育背景となった。そして新制度による看護教育カリキュラムが検討され,看護婦国家試験と免許取得制度が導入された。看護教育カリキュラムの改正は,これまでに3回あった。
 近年,看護教育の高等教育化は急速に進み,看護系大学が増えてきた。そして,1998年には「学校教育法等の一部を改正する法律」が公布され,これによって専修学校専門課程修了者の大学編入学も可能になった。さらに大学院入学資格の弾力化により,大学院ごとの個別審査により大学を卒業した者と同等以上の学力があれば認められることになった。
 20世紀は近代的看護教育のスタートから高等教育化へと確かに進んできている。こうした歴史の重みを正しく認識し,そこに潜む問題を解決するために今後も確かな歩みを継続しなければならない。こうした過去への旅は,また未来を展望するための旅でもある。

日本看護婦協会の発足は1929(昭和4)年(初代会長=萩原タケ)に始まるが,第2次世界大戦後の1946年にGHQの指導により,それまで別個であった産婆,看護婦,保健婦の団体を統一職能団体と組織すべく,日本産婆看護婦保健婦協会を設立させた(初代会長=井上なつゑ。井上は婦人参政権が与えられた新憲法下の第1回参議院選挙で当選する)。翌年の1947年に第1回通常総会を東京女高師(現お茶の水大)講堂・早大大隈講堂で開催(写真左上),2000人を超す看護職が参加した(右端はGHQのオルト少佐)。そして,1951年に「日本看護協会」と改称し,その後さらなる発展を遂げていく

1977年には,アジアで初めてのICN大会(第16回,東京・日本武道館,委員長=千葉大 小林富美栄。メインテーマ:看護の限りない可能性を求めて)を開催。全世界から4000人を超える参加者があった。なお,右下は昨年ロンドンで開催されたICN100周年記念大会オープニングセレモニーの様子
(写真提供:日本看護協会,看護学雑誌)

GHQが遺したもの
田中幸子(北里大学看護学部)

 第2次世界大戦後,オルト少佐を中心とするGHQ看護課は,全国の病院を視察した後,看護婦の再教育,日本看護協会の設立,そして厚生省看護課の設立と,次々に看護改革を実施していった。そして占領末期における保健婦助産婦看護婦法(以下,保助看法)の制定(1948年)は,GHQ看護課による看護改革の総仕上げを意味するものであった。同法は「看護の質の向上」を目的とするもので,この考えは今日も受け継がれている。しかし,その一方で占領期から今日まで引きずっている制度上の問題がある。すなわち2種類の看護婦が制度として存在していることである。
 1951年衆参両院の厚生委員会は,日本医師会や労働組合の意見を汲み取り委員会草案を作成した。この草案についてオルト少佐は納得しなかったが,公衆衛生福祉局長サムス大佐(後に准将)は一部修正を要請し了承したのであった。これがきっかけとなり,一部修正された委員会草案が衆参両院で可決され准看護婦制度が誕生したのである。なお,同改正法により旧看護婦規則下の有資格者は,国家試験を受けずとも看護婦となれた。
 GHQは非軍事化・民主化を目的として国会を国の唯一の立法機関と定めた(議会制民主主義)。皮肉にも,その国会から提出された法案にGHQは「ノー」とは言えなかった。つまり国家で委員会草案が可決され,成立に至ったのも民主化の1つの流れと言える。結果的に,看護界は准看護婦制度の成立を許してしまった。また,労働組合は委員会草案に彼らの意見を盛り込むことはできたが,准看護婦制度が成立することまでは考えていなかったのである。
 同法の改正過程は,看護改革がGHQから離れて日本に手渡される過程でもあったが,GHQにしてみれば,「一度決まったことをなかなか変えられない」,という日本の特殊事情までは把握しきれていなかったのであろう。GHQは戦前では考えられなかった改革を成し遂げた一方,日本に大きな課題をも遺したのである。