医学界新聞

 

新春随想
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養生訓余話

貝原信明
(鳥取大教授・第1外科)


 「先生は先祖代々医者の家系ですか」と尋ねられることがありますが,「そうではありません」と答えることにしています。

貝原益軒の素顔

 貝原益軒は19歳の時に黒田藩主・忠之に仕えますが,出仕後2年足らずして藩主の叱りを受けて閉居を命じられ,21歳で免職になります。浪人となった益軒は,長崎に行き医道の修行をして,26歳の江戸への道中,川崎の宿で髪を剃り,名を柔斎と改めて医者になろうとします。しかし,江戸に入ってからは医学よりも儒学に力を入れるようになり,翌年,藩主の死去にともない浪人を許され再出仕しました。したがって,益軒は医道の修業はしましたが,医者としての仕事はほとんどしていないようです。
 益軒は旅好きで,生涯を通して江戸に12回,京都には24回行っています。60歳を過ぎてからは夫人同伴で京都に遊び,ついでに諸国を巡遊して多くの紀行文を遺しました。66歳にして辞職を願うも許されず,ならばと69歳にして再び夫人同伴で京都に遊び,立ち寄った有馬温泉で南蛮渡来の酒を飲んで重体に陥り,これが後に「養生訓」で焼酎の害を説くことになります。
 その養生訓の中で益軒は,医療において最も肝要なのは「択医」(医者を選ぶこと)と言っています。いったい医者が世間にもてはやされるかどうかは,医道を知らない素人の選択によるのだから,たまたま時宣を得て流行る医者を良医と思ってはいけないと記していますが,現代社会でも意味深な物言いで,相づちを打ちたくなります。
 「医は仁術なり,仁愛の心を本とし,人を救ふをもって志しとすべし,わが身の利養を志しとすべからず」との記述がありますが,順天堂大学で医史学を担当しておられる酒井シズ教授によれば,「医は仁術」という言葉をわが国に広めたのは益軒だそうです。これは元々は中国から来た言葉で,養生訓そのものが古代中国の医書の受け売りといっても過言ではありません。

情ある色事文化もまたよし

 中国の唐代に書かれた医書の1つに「千金方」というのがあります。その中に,健康保持のための適切な男女交接の回数が記されています。これは養生訓の教えとまったく同じですから,養生訓の一部は千金方の盗作。古代中国では房中術は健康保持のための術,すなわち医術で,男は40歳を越えると急に力が衰えるから,その年代になったら房中術の完璧な知識が必要で,極意は射精をしないこと,と大昔は考えたようです。
 ところが,時代変わって益軒没後およそ130年の天保年間に養生訓が再発刊され,これに石見の医生・杉本義篤という人が附録を付けました。その中に房中術の極意を会得する具体的な方法が書いてあります。
 曰く「交接のあはひ,陰陽を和合することうとく,静なるを妙とす。一身の力をきはめて,あらくせはしく陰陽を戦はすべからず。精液をかたく閉て排すべからず。交接の間,常に鼻を以て気を内に入れて,口より少しずつ静に気を吐出すべし。ものいふべからず。大息すべからず」
 なかなかの名文ですが,こうなると医術というよりも現代風房中術,色事の教えに近づいて来るようです。
 さらに時代変わって今やミレニアム。21世紀は知から情への社会変化でしょうから,科学だ経済だとばかり喚かず,妙なる色事文化の香りを漂わせるのもいいなと思います。 (本文は,昨年10月に福岡市で開催されました「第38回全国自治体病院学会」での特別講演の内容と一部重複しています)