医学界新聞

 

新春随想
2・0・0・0

平成における「世話」の字の義

南 裕子
(日本看護協会長)


 明治時代に著された「学問のすすめ」の中で,福沢諭吉は「世話の字の義」を定義して,「世話の字に二つの意味あり,一は保護の義なり,一は命令の義なり」とし,この「保護と差図(命令)」の両方を備えてはじめて,「真によき世話」と述べている。保護と差図に両方共通しているのは,世話する相手のことを親身に思って,相手の「利益と面目」を失わせないように,心の丈を尽くすことだとしている。そのうえで,保護ばかりでも,または差図(指示)ばかりでも,世話とは言えず,その両方がバランスよく保たれていないといけないと説いた。さらに,世話は単に日常的な身の回りの世話にとどまらず,国の政治や経済についても言えること,また,保護と差図の両方とも必要であるということの例外は,「仁恵の私徳」が提供される時である,とまで指摘している。
 この定義を,初めて日野原重明先生(聖路加看護大名誉学長)に教えていただいた時には,目から鱗が落ちる思いとはこのことか,と感動した。「世話」という言葉は,最近ではあまり使われなくなり,むしろ介護という言葉に取って代わられているようであるが,改めて福沢諭吉のこの定義を読むと,「世話」という言葉の意味の深さが感じられる。
 現代語では「保護」は「保護,支持,抑制,代理行為」などと言われることであり,「差図」は「指示,制限」などの用語が使われるのではないだろうか。看護では,この2つの側面をたえず意識しながらケアが行なわれるが,どちらかというと前者を強調する気持ちが強く,実際には後者をすることが多くても,「患者のため」「やむを得ず」という言い訳で自らを落ち着かせる傾向があると思われる。
 しかし「世話」には,2つ相まって必要である以上,むしろ「差図」の意味を学問的にも政策的にもさらに吟味してみる必要があるだろう。この側面に目をつむりながら実行するのであれば,世話される者も世話する者も苦しいことになるからである。

成熟社会の形成に向けて

 今年は,いよいよ介護保険制度が開始される。世話が国の政治や経済に通じるという福沢の主張が,日常生活の世話について適応されることになったわけである。
 ただ,平成の世話(介護)では,明治時代と異なって,ケアを受ける人の自律を重視するということが新しい。すなわち,ケアの専門家が,専門的知識と技術をもとにケアの必要性を査定し,ケア計画を立てて,よかれと思って行なうケアだけでは不十分であろう。ケアを受ける人が,自分で行なうセルフケアと他者に求めるケアとを選択できる権利を保証する必要があるだろう。同じようなレベルの要介護状態の人でも,同じようなケアが必要とは限らないからである。ただし,個別性を重んじて,弾力的な判断でケアが提供できることは,ケアを受ける人と十分におつきあいしながら相手の複雑な状況を判断できる高度な能力を,必要とする。
 福沢が指摘しているように,政治や経済の効率性の論議だけでケアの意味の深さを推し量ることがあってはならない。何人かの人が指摘しているように,「世話することに価値が置かれる社会づくり」の時代のドアが今,開かれようとしている。ケアを受ける人が主役となり,かつ家族が介護地獄の苦悩から解放されて,家族だからこその情が行き交う世話の現場となるように,そして,それを社会全体で支えることのできるような成熟社会を形成できるように,専門職団体として,また個人として力を尽くしたいものである。