医学界新聞

 

新春随想
2・0・0・0

睡眠医学元年

早石 修
〔(財)大阪バイオサイエンス研究所名誉所長〕


 われわれは人生の約3分の1にあたる貴重な時間を暗闇の中で眠って過ごしています。しかしその間に何が起こっているのか,何のために眠っているのか,眠りと目覚めはどのように調節されているのか等々,眠りに関する疑問には未解決の問題が多く,睡眠は現代社会の文字通りブラックボックスです。一方,ストレス社会,高齢化,夜間勤労者の増加などの社会環境の変化に伴い,睡眠障害の患者数は急速に,幾何級数的に増加しており,その結果,勤労意欲の低下,作業能率・学習能率の劣化を招き,ひいては交通事故・医療事故の増加や乳幼児の心身発育異常の原因になっています。
 1988年米国国会に設立された特別委員会の報告書「目覚めようアメリカ」によれば,総人口の約6人に1人が不眠その他の睡眠異常を訴え,65歳以上の男性ではほぼ4人に1人が睡眠時無呼吸症状群の患者であり,1000人に1-0.5人がナルコレプシー(過眠症の一種で昼間しばしば睡眠発作を起こす)に悩んでいると述べています。また同じ報告書で米国における睡眠障害による国家的損失は年額約7兆円,睡眠障害に要した医療費は約2兆円に達し,睡眠の問題は医学,医療上の問題に止まらず,社会的,経済的問題であると指摘しています。
 このような報告に基づいて同委員会は,国会に対し6か条の提案を行ない,その結果1993年には米・国立健康研究所(NIH)に「国立睡眠障害研究センター」が開設され,睡眠および睡眠障害に関する研究,教育,研究費の配分,情報交換等に中心的な役割を演じています。また睡眠関係の研究費も大幅に増額され,1997年度のNIHの研究費(日本の文部省研究費にあたる)の中で睡眠関係の研究費は約90億円が計上されている他,医師や看護職の教科に睡眠学を必修とし,専門医や脳波計測の技師の養成,一般国民に対する啓蒙運動の促進などが着々と実施されています。
 一方,睡眠障害の臨床医学に関する諸問題を開決するためには,基礎的な研究の進歩が必要なことは申すまでもありません。1920年代にH.ベルガー(独)によって脳波が発見されて以来,睡眠の科学的・定量的な計測が可能になり,1950年代にクライトマンら(米)によって眼球運動を伴う睡眠(REM睡眠)が発見されて以来,睡眠研究は飛躍的な進歩を遂げました。さらに最近では生理学,薬理学,および形態学的研究に加えて,生化学,分子生物学,分子遺伝子学の応用によって睡眠医学は急速な変貌を遂げつつあります。

 1999年に開催された世界睡眠学会連合第3回国際総会では,スタンフォード大学とテキサス大学の2つのグループが独立にナルコレプシーの原因遺伝子を同定し,視床下部の神経ペプチドで従来食欲因子と考えられていたオレキシン(ヒポクレチン)の受容体,またはオレキシンであると報告しました。同じ「睡眠と遺伝」のシンポジウムで,大阪バイオ研の研究チームは,ヒトのプロスタグランジンD合成酸素の遺伝子をマウスの遺伝子に組込んだトランスジェニックマウスを作製し,このマウスがある条件下で,正常なマウスに較べて非REM睡眠(除波睡眠)が数倍増加するという実験結果を発表しました。従来,睡眠がきわめて複雑な現象であり,in vitroのよい実験系がないこと,学際的な共同研究であり,多額の研究費や労力を要することが研究の進歩を阻んでいましたが,遺伝子操作を用いた実験によって新しい分野が開拓され始めたと申せましょう。2000年代に向かって睡眠学の一層飛躍的な進歩が期待されるという初夢がみられることでしょう。