医学界新聞

 

連載 MGHのクリニカル・クラークシップ

第3回

シマウマはどこだ?

田中まゆみ(ボストン大学公衆衛生大学院)


2359号よりつづく

朝の回診
病棟廊下のラウンディングテーブルのまわりに集まって,症例提示,昨晩の容態,今朝の容態,検査値の報告のあと,診察(教官・シニアレジデント,今晩の当直医,学生),問題点の整理と本日の検査・治療計画のディスカッションを1人ひとりの患者について行なう。看護婦の他に薬剤師とケースマネジャーも一緒に回診する

 毎日,12時半から1時半までは内科カンファレンスルームでランチセミナーが開かれる。内科研修医と内科ローテート中の学生は全員出席を義務づけられており,無料ランチ(註1)が出る。中にはランチだけ頂戴して姿を消すちゃっかり者もいる。このセミナーは教育カリキュラムの一部なので,この時間帯には緊急時以外はポケットベルで呼び出さないようにと各病棟の看護婦にも通達してあるそうだ。(それでも,講義中ビーパーが鳴れば即出て行かざるをえない。何しろ内科病棟には医師は1人もいないか,いたとしてもそれは教官=教授なのだから!)
 その日は腎臓専門開業医による「血尿」の講義だった。Dr. Wは,MGH(マサチューセッツ総合病院)提携の開業医の中でも屈指の盛業ぶりとの評判にたがわず,持参のラップトップコンピュータからスクリーンに美しいスライド画像を繰り出しながら,聴衆の気をそらさぬ見事なハイテク授業をユーモアたっぷりに繰り広げた。スライドといっても,あたかも板書のように1行ずつ画面に加えられていく動的画像で,スライド上をきょろきょろする必要がなく,非常に頭に入りやすい。
 「はい,来院時尿沈査でした。次の検査に移りましょう。MGHで血尿の患者さんが真っ先に受ける検査はもちろんANCA(註2)ですが(場内爆笑)本当に一番多い血尿の原因は,はい,何でしょう?」(答は前立腺疾患)
 血尿ときたらANCA,血痰で来てもANCA,という研修医たちをからかって,開業医の面目躍如というところだろうか。彼の実践的講義は大成功に終わった。
 医師の4分の3が専門医という逆ピラミッド構造のアメリカの,しかもMGHだから,さぞかし超専門的議論が飛び交いめずらしい病気があふれかえっているだろうと私は内心期待していた。しかし,私はその期待がいかに青臭いものであるかを思い知らされることになった。Dr. Wの揶揄を聞いた時,彼は学生や研修医のそういう志向をあおっているアカデミックな教授,助教授に対してもあてつけているのだろうと私は思ったのだが,実際には教官はすべて「基本重視」という一点において立場を同じくしていたのだ。

“Common things are common”

 由来は知らないが,アメリカには「蹄の音を聞いてシマウマが来たと思う」という諺(?)がある(註3)。教育回診において,教官たちが最も頻繁に口にしたのは「ほう,シマウマかね?」という,いたずらっぽい反問であった。そして必ず,“Common things are common(一番多いのはありふれた病気なんだよ)”というせりふが続くのだった。消化器の大物教官が「さあ,では失神発作で見落としてはならない病気を並べてみよう。ところで,最新版のハリソンの失神の項は実によくまとめてあるよ,ぜひ読んでみてごらん」と嬉しそうにありふれた症例にとりかかるのを,学生たちは拍子抜けしたような表情で見つめるという具合だった。どんなに狭い専門領域の大家であっても,一般内科の病棟で指導している間は内科領域すべてをカバーする。1か月の間に指導教官の専門に関連する病気が1例もなくて蘊蓄を傾ける機会がまったくないこともめずらしくなく,インターンの1人は彼の指導教官がアカデミズムでどんな大物であるかを後で知ってのけぞる始末だった。
 医学生はめずらしい病気が大好きである。高血圧には興味はそそられないが,褐色細胞腫ははるかにおもしろく,MENII型となれば申し分ない。
 ところが,基礎医学知識ではちきれそうな頭脳を持て余しながらクラークシップに入ると,あとからあとから救急外来にやってくるのは一見ありふれた病人ばかり。ルチーンに追われる研修医の重労働を見れば,めずらしい病気だけを診て最先端の医学研究に従事する「専門家」がますますまぶしく見える。早くああなりたい,と願うのも無理もない。このような教育体験が「よい医師」を育てうるか,という反省がニューパスウェイの始まりであった。

教官の再教育

 ニューパスウェイの掲げた目標の1つは「人間性重視」であったが,このためにはまず教官を教育し直す必要があった。一般内科の臨床教育は,細分化した専門医への単なる踏み台では決してなく,プライマリケア(予防医学を含む)としてそれ自体完結した専門性を持つことが再確認された。ニューパスウェイ実施に先立ち準備のためのワークショップが数年間にわたって開催されたが,そこではニューメキシコ大学やカナダのマクマスター大学などの先駆的医学教育専門家が彼らの実践を紹介し,ハーバードの教官たちに感銘を与えた。そして「患者-医師関係」研究を専門とするプライマリケア医が教育専任教授として招かれ,1・2年生への「臨床入門」とそれに続く外来診療教育を受け持つとともに,クラークシップの教官(教授・助教授・開業医を問わず教官全員)への再教育にもあたった。
 学生に従来の「型にはめる基本訓練」を叩き込む前に「患者と医師の出会い」というドラマを持ち込んで,「1人ひとりが違う人間である患者とどう相対してつきあっていくか」という視点から問診・診察技法をとらえ直す。患者を1人の人間として診るなら,当然,ありふれた病気こそが大切になる(数が圧倒的に多いのだから)。社会的インパクトも,最新の治療法よりも予防医学(1次予防としての予防注射や食生活・運動指導,2次予防としての血糖値自己管理指導や降圧剤・アスピリン等基本的な薬剤の投与),入院治療より外来治療の方がはるかに大きいのである。
 病気を抱えた患者が,よりよい生活を送れるようにする,患者本位の医療のためには,医学教育のアプローチを変えねばならないことに誰でもすぐ気づくであろう。治療効果をあげるためには,医学知識もさることながら,医師のマナーや思いやり,患者の立場に立った治療法の選択,長期にわたるフォローが重要なのである。意外なことに,開業医の教官からだけでなく超専門化しているはずの教授,助教授たちからも,この再訓練は非常な好評をもって迎えられた。
 まず,「医師としての知識・技量とベッドサイドマナーは反比例する(ヤブ医者ほど患者にニコニコして機嫌をとろうとする。自信があるなら患者に媚びへつらうことはない)」という俗信がいかに不幸な呪縛であったかを思い知らされた。名著『患者の権利』の中で,ジョージ・アナスは,患者が「冷たい性格異常の腕のいい医師」か「暖かい思いやりのあるヘッポコ医師」かのどちらかを選ばなければならない必要はどこにもない,と言い切っている(註4)。「傲岸な良医」はあり得ない。患者に対する敬意・思いやりはすべての医師の基本的態度であるべきなのである。いかに優秀でも,「なんだ糖尿病か」「また高血圧か」「緊急内視鏡?勘弁してよ」というふうにしか患者を診ることのできない医師(こういう医師は患者に日々不必要な辛い思いを強いているわけだが,自身も早晩痛い目に会うことになる)を作ってしまったとしたら,それは教育の失敗なのだ。

ニューパスウェイの勝利

 かくしてニューパスウェイは,アカデミックな教授を,マナー重視,一般的な疾患重視の教育に奉仕させることに成功したのだった。頻度の高い疾患をいかに印象的に教えるかに各教官は工夫を凝らす。患者の話に焦点を当てたり,ほかの類似症例と比較したり,遺伝子工学のトピックスを紹介したり,血液標本を皆で見たり……,一見ありふれた症例が,1時間の教育回診の間に魔法のように豊かな教育的症例に変身するのを筆者は何度も経験した。
 近年MGHでも内科レジデントのほぼ半数がプライマリケア志望を表明するようになっている。この変化の背景には,専門家過剰が医療費高騰を招いているという世論の批判や,管理医療の台頭により専門医失業時代が来るという危機感もあるが,ハーバードでは,そのような姑息な時代の流行への迎合ではなく,教官や学生たちのより高い次元での意識改革をいち早く促していたわけだ。あくまでも患者医師関係の見直しから生じた必然であり,コストや収入といった目先の功利に振り回されているのではない,「順序が逆」とハーバードとしては言いたいであろう。

(註1)MGHではこの無料ランチは製薬会社が持ち回りでスポンサーとなっており,食事を置いたテーブルの傍らにMRが立ってボールペンやパンフレットを配る。どこでも見られる悪習なんだなあと思っていたら,ブリガム&ウィメンズ(BWH)ではすがすがしい話を聞くことができた。ある篤志家が内科教授に寄付を申し出たところ,その教授は,製薬会社がランチセミナーのスポンサーになることの弊害を説明し,より公正な医学教育のためにランチ代を寄付してくれないかと頼んだそうである。以来,BWHでは内科ランチセミナーから製薬会社が姿を消した。
(註2)アンカと読む。Antineutrophilcytoplasmic antibodiesの略。
(註3)“You hear hoofbeats outside your window, the first thing you think of is a zebra!”蹄の音を聞けば普通なら馬と考えるのにわざわざ可能性の低いシマウマを想定する愚を言う。めずらしい病気に飛びつきたがる性癖をからかう諺で,アメリカの医師の間で頻繁に使われる。例えば高血圧患者を見てすぐ褐色細胞腫を疑ったり,腎不全患者を見てすぐアミロイドーシスを疑ったりする学生をからかうのに使う。これに対して言い返す諺が,「シマウマを見たことがなければシマウマを見てもシマウマとわからない」(めずらしい病気は知っていればこそ想起できるのだ)。
(註4)George J.Annas. “The Right of Patients”(Southern Illinois University Press)