医学界新聞

 

 連載

「WHOがん疼痛救済プログラム」とともに歩み続けて

 武田文和
 (埼玉県県民健康センター常務理事・埼玉医科大学客員教授・前埼玉県立がんセンター総長)


〔第13回〕がん・痛み・モルヒネ(9)
WHOがん疼痛治療暫定指針の試行(4)

驚くほど良好な英国の末期患者のQOL

 ジュネーブでの第2回WHO会議(前回2361号参照)からの帰路は,ロンドンで成田行きに乗り継ぐことにしていたので,私は,会議の報告書作成責任者Twycross博士が所長であるオックスフォードのSir Sobell Houseを見学したいと申し出た。報告書作成作業のためにジュネーブに残る博士は,オックスフォードに電話して,婦長に連絡をとってくれた。
 1人旅の私は,12月17日に冬の風が冷たいオックスフォード駅からタクシーを拾ってSir Sobell Houseに向かった。行き先を告げると,運転手は「Sir Sobell Houseのホスピス医療は世界でピカイチだよ」と自慢した。当時のSir Sobell Houseは平屋建ての20床のホスピスで,オックスフォード郊外のChurchill病院の構内にあった。到着した私を案内してくれた婦長は,ホスピス内を一巡した後に,「武田先生は所長の親友だから,好きなように振る舞ってください」と私に自由を与えてくれた。
 そこで私は,各病室を訪れて患者さんと話し合うことにしたのだが,患者のQOLがきわめて良好なのに驚いた。すべての患者が諸症状の適切なコントロールのもとに制約のない日常を前向きに送っていた。平均余命がほぼ2週間と聞いて私の驚きはさらに大きくなり,新しく開発した知識を先進的な姿勢のもとで患者中心主義の医療チームが実践している成果と感じ取り,この医療は日本のがん医療に導入すべきと考えた。英国かぶれやホスピスかぶれになったのではなく,自分が進行がん患者になった時に,必要な医療を受けるためには渡英しなくてはならないという日本のがん医療の現実が大問題と思ったのであった。

Sir Sobell Houseの病棟の4床室。ボランティアの足治療師(Chiropodist)に足の爪の手入れをしてもらっている末期がんの老女。奥のベッドの患者さんはロビーで談笑中で留守

末期がん患者の診療マニュアル

 それほどがん患者のQOLには大きな差があったのである。この医療の結晶としてTwycross博士からシアトルで私に渡された「末期癌患者の診療マニュアル(医学書院,1985;同第2版,1991)」を日本の医師と看護婦に活用してもらえるようにすることが手始めと考えた。
 Twycross博士からは,日野原重明先生(聖路加国際病院名誉院長)が和訳すると聞いていたので,私は日野原先生にお会いした折りに私の思うところをお伝えした。そうすると日野原先生は,「君が翻訳して医学書院から出すとよい」とおっしゃってくれた。こうして第1版が1985年に医学書院から出版される運びとなり,多くの医師と看護婦に末期ケアの手引書として活用されるに至った。また,「この本を読んだことが末期ケアを専門に選ぶ契機となった」と伝えてくれる複数の医師に出会うことにもなった。なお本書は,1991年には第2版が出版されている。

WHOの記者会見とマスコミの反響

 ジュネーブの帰路,オックスフォードに立ち寄るなどで数日後に帰国したところ,私の身に何か変わりがあったらしいと留守役の同僚が心配していた。マスコミ各社が留守中の私の所在を問い合わせてきたのだと言う。その理由は帰宅後間もなくの新聞社からの電話でわかった。
 ジュネーブでの会議終了後に,WHO本部スタッフががん疼痛救済プログラムについての初の記者会見を行ないWHOプログラムについて公式発表した際に,埼玉県立がんセンターでがん疼痛治療暫定指針の試行が成功裡に行なわれたと述べていたのである。その模様がAP電で日本のマスコミ各社に伝えられたため,各社が私に接触を求めてきていた。日本発の同じニュースなのにAP電を介して海外から伝えられると,違う印象のニュースになるのも不思議なものである。
 実は,これに先立つ1984年7月に,毎日新聞の牧野賢治記者が取材に訪れていた。医薬ジャーナル誌に私が投稿した暫定指針の試行成績報告を読んでの来訪であった。牧野記者は,7月27日の朝刊家庭欄で,また,それに触発されたのか,読売新聞の吉田信弘記者も後日取材に訪れ,同年の10月24日および31日の2週にわたり,健康・あかるい生活欄に紹介してくれた。いずれも進行がん患者の痛みの治療にモルヒネを中心とした鎮痛薬が有効で,その普及にはWHOが積極的に取り組み,がん患者が痛みから高率に解放されることが可能となったと報じた。しかし,読者からの問い合わせはあまりなかった。
 それからわずか3-6か月後なのに,ジュネーブからのAP電は国内でも海外でも大きな関心を持たれるほど,WHOによる公表は大きな影響力があった。WHO会議終了直後の「Japan Times」(1984年12月19日付)が,「がんの痛みは不必要なもの・WHO会議が勧告へ」と報じ,私のことにも触れた。一方国内では,12月18日の読売新聞が,そして続いて多くの地方紙が同様の記事を掲載した。また,マニラのイブニングポストは1985年1月5日付で「がんの痛みは不必要な症状・日本での試行が成功とWHO」と報じている。このようにして,WHOがん疼痛救済プログラムは国内外の多くの人々に知られるようになり,やがて痛みに苦しむ患者と家族,その対応に困っている医師からの多数の問い合わせが私のオフィスに押し寄せることになった。

この項つづく