医学界新聞

 

対談

EBMの意義と役割

EBMの実践に向けて

日野原重明氏
(聖路加国際病院理事長)
  福井次矢氏
(京都大学医学部・総合診療部教授)


 今までの日本の医療システムや医学教育のシステムの中では,基礎医学というものは,医学部の専門コースに入る時に最初に学ぶものであった。しかし近年,それとは異なる,「臨床疫学的な訓練がないと本当の臨床家にはなれない」という意味での新しい基礎医学が教育の中にも入ってくる必要があり,看護もまたそうであると考えられるようになってきた。そして,医学教育と臨床疫学を1つの武器として基礎的な研究と実践を行なうべきだという動きが日本でも広がり,急激にEBM(Evidence-Based Medicine)という言葉が人口に膾炙するようになった。しかし,わが国において「入手可能で最良の科学的根拠を把握した上で,個々の患者に特有の臨床状況と価値観に配慮した医療を行なうための一連の行動指針」――『EBM実践ガイド』(医学書院刊)より抜粋――というEBMの定義が本当に理解されているかと言えば,そうとは言えないだろう。
 そこで本号では,EBM研究の第一人者である福井次矢氏と,長い間EBMの普及に献身してこられた日野原重明氏に,EBMの本来の意味と,これからのEBMが果たすべき役割について語っていただいた。


EBMの誕生と普及

臨床疫学との出会い

福井 EBM(Evidence-Based Medicine)という言葉が,ここ数年間でわが国にも急速に広がりつつあります。いま思いますと,私がアメリカに留学中,こういう数理定量的な臨床の考え方を行なうべきだというdecision analysisに目から鱗が落ちるような感じを受け,どうにかこれを日本に紹介したいと思い始めてから17年たちます。
 現在ではその基本的な考え方が,EBMという魅力的な名前になって急速に広がりつつあるわけです。日野原先生ご自身は,以前からこのような考え方をしばしば研修医にも説いておられましたね。
日野原 私がアメリカに留学したのは,1951年で39歳の時でした。私は主に心臓病学をやろうと思って行ったわけですけれど,心臓病学をやる前に,ベーシックなものが足りないということを非常に痛感して,診断をするというのはどういうことかということを本当に勉強しようと思ったのです。もともと私は,診断学が非常に好きだったんです。ことに“心音の記録”に関する研究もやっていたので,診断に関心があったわけですね。
 そういう目で見ているうちに,『Medical Clinics of North America』という最新の内科学の流れをまとめた雑誌を目にしました。この本にA. R. Feinsteinの“Clinical Judgment”といわれるものが,具体的に取り入れられていたわけです。
 この,エール大学のFeinsteinという人が,“臨床疫学”という名前を最初に言い出したのですか?
福井 Feinsteinは1968年頃から使い始めています。一番最初に臨床疫学(Clinical Epidemiology)という言葉を用いたのはJohn R. Paulで,1938年のことです。
日野原 あの人も,エール大学でしょう?
福井 ええ,そうです。
日野原 エール大学には非常に早くから疫学が講座になっていて,しかも臨床疫学をやる。このFeinsteinも臨床家で,循環器などをやっていた人ですが,それが疫学をやり,統計学を取り込みながら診断をするというのはどういうことかということを追求して,後に『Clinical Judgment』という本を書いたのです。私が読んだのは,これが出版されて6年後の1974年なんですがね。
 ある臨床家が症例を集めて,「こうすればこうなった」という,違ったバックグラウンドとデータを持っている条件の異なる症例を一緒にして,いろいろな診断の確率とか予後を論議している。それまでは,それが当たり前だと思っていたのですが,Feinsteinの本を見るにつれて,そんな簡単なものじゃないということが本当にわかってきたんです。もっと私たちはきちんとしたデータで,筋の通った論理の下に考えなくてはならないというような,考え方の盲点を突かれたわけですね。

資料 米国における臨床疫学・EBMの歩み
1938年 John. Paul, 「臨床疫学」を提唱(米国:臨床研究学会)
 -疾病・患者発生の社会的背景重視
 -臨床研究の定量的提示
1958年 John. Paul, 「Clinical Epidemiology」出版(第2版:1966)
1967年 D.Sackett, マクマスター大学医学部に臨床疫学教室設立
1968年 A.Feinstein, 「臨床疫学」を再提唱(臨床研究→臨床疫学)
1980年 Weinstein, Feinstein, 「Clinical Decision Analysis」
1982年 INCLEN(International Clinical Epidemiology Network)設立
1982~1986年 R.H.Fletcher, Feinstein, Sackett, Weissらが「Clinical Epidemiology」を出版
1989年 Preventive Service Task Force(アメリカ)「Guide to Clinical Preventive Services」(『予防医療実践ガイドライン』,福井氏ら訳.1993)
1991年 Gordon Guyatt,EBM提唱
1992年 Cochrane Collaborating Center設立
1995年 Jenicek, 「Epidemiology: the logic of modern medicine」を出版
1997年 Sackett, 「EBM」を出版

米国の臨床疫学

日野原 福井先生は留学中,臨床をやりながらスクール・オブ・パブリックヘルスで講義をとられましたね。
福井 1981年からボストンに行ったのですが,最初の2年はジェネラル・インターナル・メディシンの臨床をやりました。そして3年目にハーバード大のスクール・オブ・パブリックヘルスに入ったのです。その理由は,病院の同僚がみな,M.D.に加えてM.P.H.(Master of Public Health)という肩書を持っていたんです。最初は何だろうと思っていました。臨床医でありながら,ティーチングもきっちりやるし,研究もやる人たちがM.P.H.という肩書を持っていて,みなハーバード大学のスクール・オブ・パブリックヘルスで統計学とか疫学,行動科学や心理学を勉強したと言うのです。そこで私も同僚や上司に強く勧められ,3年目には,夜は臨床をやりながら,昼間にスクール・オブ・パブリックヘルスで勉強しました。
 その当時は,Clinical Epidemiologyという言葉がようやく根づき始めた頃で,疫学と統計学的な手法で得られた集団からのデータを,いかにすれば1人ひとりの患者に応用できるかという方法論を身につけることで,臨床医学そのものをサイエンティフィックに行なえるということが初めてわかりました。いま考えるとかなり初期の考え方だったとは思うのですが,医学研究というのは動物実験とか,遺伝子の解析とか,そういうものだけではなくて,日々の臨床の中にこそサイエンティフィックな考え方を持ち込めるということがようやくわかったような気がしました。そして,そのためには統計学と疫学をベースにすることが必要だと感じながら,1984年に帰国しました。

臨床疫学を日本へ

福井 そこで,『Clinical Decision Analysis』という本を紹介しようと……。
日野原 この本は,実際は書かれたのは?
福井 1980年でした。
日野原 それで先生が帰ってきて,そういう情報も得て,私も原著を早く翻訳して日本の臨床家に紹介しなくてはと思ったわけです。しかし,「どうもこういうことは,いまの日本の臨床医学に馴染まないであろう」と思われて……。結局出版されたのは1992年ですから,書かれてから12年もたっていたんですね。こういうのも,もう少し早く紹介されていれば,10年ぐらい早く一般の臨床医も臨床疫学への関心が生まれたと思うのですが。
 この出版を意図した時には,ただ科学的な根拠を用いた,いろいろなデータの信頼性ということだけを取り上げるのではなくて,もっと,医療の質や評価ということまでも臨床疫学の中に取り込みながら,勉強しなくてはならないと考えたわけです。しかしその後も“臨床疫学”という言葉がやはり日本に馴染まないで,「この学問は,疫学的な基礎を持つ人や公衆衛生の人がやるものだな」と思われてしまいました。

EBMの誕生

福井 そういう時期に,当時マクマスター大学のD. L. Sackettのグループが,EBMという非常にわかりやすい言葉を使い始めました。ある意味では,ジャーナリスィックな取り上げられ方もされるようになりました。
 一方で,本当の意味を知らずに「当たり前じゃないか。いまさらそんなことを言う必要はないのでは」と言う人も出てきました。
日野原 EBMという言葉が,なぜこのようにみんなに受けるのか。Sackettの論文のことをちょっと説明してもらえば,よくわかるのではないですか。臨床疫学からEBMが出た,あの貧血の論文のことを。
福井 あの論文は,SackettのグループのG. Guyattが書いたもので,1991年に“Evidence-Based Medicine”というタイトルの,たった1頁の論文なんです。それは従来の診断の仕方と,彼らの提唱するEBMに則った診断の仕方を対比したものでした。
 従来の方法ですと,目の前に複数の検査法があればとりあえずそれをやってみて,その結果が出てきたところで,かなり行き当たりばったり的に診療を行なっていたわけです。EBMでは複数の診断検査があった場合には,それぞれについて感度,特異度をきっちり調べた上で,行なう価値のある検査のみをやろうというところから始まります。例えば検査をやる前に,鉄欠乏性貧血の確率はどれぐらいかということを,病歴と診察所見に基づいて数値化して考えたり,行なった検査の感度,特異度と組み合わせて,陽性であったらどれぐらいの確率で鉄欠乏性貧血と考えられるのかということを,理詰めに考えるのです。
 臨床疫学でも同じような考え方は言ってきましたが,EBMという名前になったときに,新たに明確に強調されたのが,コンピュータでどうすれば効率的に必要な論文をピックアップできるかという点でした。
 臨床疫学では,目の前に出てきた論文の有用性とか,バイアスをどうやって評価するかをずっと強調してきたのです。しかし,必要な文献の見つけ方というのはあまり言ってこなかった。それをEBMというタイトルでもって,問題を解決する一連の流れを,かなりわかりやすく示すことができたのです。
 つまり,臨床上の疑問点を見つけることを第1段階としますと,どうすれば必要な文献を効率的に,必要なものだけがひっかかるようにピックアップできるかという手順が第2段階。得られた文献から,どうやってバイアスができるだけ入っていないものを見極めるのかが第3段階です。この段階は,臨床疫学で言う批判的吟味に相当します。最後に,文献の結論を目の前の患者さんに応用する時点で,文献の患者さんと目の前の患者さんとでは,特性や臨床状況が微妙に違い,価値観も違うわけですから,そのような点を考慮した上で,文献のデータを実際に用いるかを判断するのが第4段階です。
 このように,EBMは臨床疫学の考え方がコアになって,それをうまく取り入れた……。
日野原 実際的にね。
福井 非常に実際的な,臨床医のための行動指針として示したということが,現在世界的に受け入れられている理由だと思います。
日野原 ですから,臨床をやる時に,臨床家がどのような行動をとってプロブレム・ソルビングをするかという場合に,まずその文献を効率的に調べる。これも,コンピュータの活用がこんなに盛んになってMEDLINEなどが出てきたから,いまはもう文献探索が実にうまくできる。それに上手に乗って,基本的な頭の訓練をしようということになったのです。

EBMを実践するためには

福井 結局,臨床医のためのベーシック・サイエンスには2種類あると思われます。1つが生物医学的な病態生理で,もう1つは実際の患者さんについて,こういうことをしたらどうなったかという過去の集積されたデータを知り,それを使いこなせるという意味のベーシック・サイエンスです。これからの医師は,この2種類のベーシック・サイエンスを身につけなくてはならないと思います。
 と言いますのは,おそらく30-40年前は,過去の患者さんについて質の高いデータが集積されておりませんでした。しかしいまでは,患者さんを対象にした,非常に質の高いデータがかなり集積されていて,それらがデータベース化され,コンピュータでアクセスできるようになった。日本でも患者さんの側から社会的にも情報開示が求められるし,医師の側も臨床判断の根拠を客観的に示す必要を認める雰囲気が出てきました。これらの状況は,すべてEBMを推進する力になっていると思います。つまりEBMは,時代的な要請そのものだと思われます。

看護におけるEBM

福井 また看護職のほうにも,同じようにエビデンスに基づいた,いろいろな看護の選択,評価が広まってくる必要があるでしょうし,そうすることで看護ももう1段階科学的になるのではないかなと思います。
日野原 私も看護教育を長くやってきましたが,看護の論文を見ると,やはりデータにならないような論文が多い。日本では,医学の畑でも1例報告というのが非常に流行って,いまだに内科学会でも1例報告の発表会がずっとやられている。それは経験として貴重なものがあるのだけれども,われわれが論理的にものを考え,問題解決にそのデータを適応しようとすると,「プロダクティブな成果があがってない」と批判されるわけですね。
福井 そのことでは『EBM実践ガイド』(医学書院刊)を見ていただきたいのですが,エビデンスの質の分類()ということを強調しました。
 ランダム化比較試験でのデータは,最もバイアスが入っている可能性が少ないから,真実を反映している可能性が高い。ところが1例報告とか,客観的なデータに基づかないエキスパートオピニオンというのは,間違っている可能性がかなり高いということで,John Eisenbergが長官をしていますAHCPR(米国の医療政策研究局)による分類が,いま最も多く使われています。このような分類を知った上で,われわれが臨床判断をする場合に,どのレベルのエビデンスに基づいているのかを,はっきりと認識する必要があると思います。
 ただ,ここで言いたいのは「レベル1aのものがないから,まったく臨床判断できないんだ」というのではなくて,現在は3のレベルしかないという場合には,3に基づいて行なえばいいわけです。しかし,それが本当に正しいかどうかという疑念がある場合には,エビデンスのレベルを2に上げる努力,1に上げる努力が必要だということを提唱しているのです。
 ですから,1例報告というのはせいぜい4ぐらいのレベルでしかあり得ない。と言うのは,1例報告というのはマジョリティから離れているから報告しているものであって,それに基づいてマジョリティの患者さんの臨床判断を行なうということは,誤っている可能性が高いということでもあるのです。

表 エビデンスのタイプ分類[AHCPR]
(『EBM実践ガイド』88ページより)
1a. ランダム化比較試験のメタ分析による
1b. 少なくとも1つのランダム化比較試験による
2a. 少なくとも1つのよくデザインされた非ランダム化比較試験による
2b. なくとも1つの他のタイプのよくデザインされた準実験的研究による
3. 較研究や相関研究,症例対照研究など,よくデザインされた非実験的記述的研究による
4. 門家委員会の報告や意見,あるいは権威者の臨床経験

QOLの問題

福井 一方看護では,特にQOLの評価というのが壁になっていると思います。QOLの測定方法が確立されれば,看護ももっとサイエンティフィックになっていくと思うのですけれども。
日野原 EBMにしろ,臨床疫学にしろ,これから科学的な論拠に基づくデータが含まれるとしても,医学は他の自然科学的なものとは非常に違って,不確定なデータをその中に持ちながらも,いわば「自然科学を非常に上手に使いながら人間が健康になるために作られる学問」と考えられますね。そして,われわれの「患者をマネージする戦略」というものが,その患者の持っている死生観とか,生き方とか,価値観というものをも受け入れなくてはならなくなって,QOLというものが問題にされてくるのです。そういうものを評価できる学問として成長させていかないと,EBMが, Evidence-Basedという非常に科学的な基礎を強調しながらも,魂がないものになってしまう可能性がある。医学が直面する非常に困難な問題でありながら,それを抜きにしては医学は考えられないようになると思うのですが。
福井 できるところは究極まで数値化しようとしています。しかし皮肉なことですが,過去のデータに基づいてそういうことを突き詰めていけばいくほど,数値化できない定性的なというか,価値観,人生観というところが,余計に浮かび上がってくることになりました。最近では,EBMが広まる一方で,“クオリタティブ・リサーチ――定性研究”と言うのでしょうか,患者1人ひとりの精神世界を深く丹念に記述していくという,古いタイプの研究が,再び注目を浴びつつあります。そういう研究が静かに広まってきているということは,興味深い現象だと思います。
日野原 医学という学問が直面する非常に大きな問題ですね。自然科学的な意味を持つ医学というのは,事実を分析して法則を作り,そしてそれを進歩させることだけれども,価値とか,生活のクオリティとか,命のクオリティとなると,それが非常に困難な問題になってくる。しかしそれを抜きにした医学というのはあり得ないから,少なくともわれわれが実地診療をするという時,そのようなものにどうアクセプトしていくかということが,これからの問題になります。

サイエンスの限界

日野原 医学を,“サイエンス”としての医学と,“アート”としての医学に分けると,いまはサイエンスがこんなに進み,21世紀には遺伝子の問題を含みながら,生まれる前にすべてがわかるというほどになっています。それを現在,存在する個としての患者にどのように適用するか。その適用の技,つまり“アート”を同時に考え,それを抱擁するような学問体系を作っていかないと,とても難しいことになってくると思います。
福井 確かにEBM自体,私たちがいろいろなところで話をしますと,しばしば「cook bookじゃないか」という言い方をされて,結局1人ひとりの患者さんの個別性というものが全部無視されて,同じ病名であれば一律に何かをしろというふうなニュアンスでEBMが受け取られているようです。しかしそうではなく,おそらくエビデンスをいかに適応したらいいかという判断が,一体どの程度までサイエンスになり得るかどうかは,非常に疑問でして……。
日野原 そうですね。
福井 その部分に関してはおそらく,これから50年,100年は,医師と患者という1対1の特殊な人間関係の中でしか決められない部分がたくさんあって,アートのままでいくのではないかなと思います。その部分がなくなるような医療というのは,ちょっと考えられないのではないでしょうか。
日野原 W.オスラーは100年前に,医学は究極においては絶対そうはならないだろうとはっきり言っています。
 オスラーは,非常にサイエンティフィックなデータを大切にしていました。しかし,彼の定義は,“Medicine is an art,based on science”ということでしたね。そのサイエンスは非常に重要になっているのだけれども,サイエンスだけではなかなか難しいような面がいつも残されているのではないかということです。
 ですから,科学が無限大に進む中で,医学という名のつく科学には,なにか運命的な限界がある。医学は科学的な学問として非常にユニークなものであって,他のサイエンスと並べられるものじゃないとオスラーは言っているんです。
 福井先生もよく言われますね。医学というのは“uncertaintyの医学”だと。そういう言葉をオスラーはあの頃すでに,はっきり言っていた。
福井 素晴らしい言葉ですね。本当に100年以上も前に,よくこのような言葉を書いているなと思います。
 つまり“Medicine is a science of uncertainty,and art of probability”という言葉ですが,正直なところ,先ほど申し上げた2つのベーシック・サイエンスに,臨床疫学的な患者データが集積され,サイエンスのところはかなり強化されたものの,アートの部分はまだブレークスルーがないということではないかなと。

これからのEBM

日野原 60億の人間がとにかく全部違うし,一卵性双生児でも自然環境が違ってくると違ったbehaviorをとるのだから,その人に特有な個性的なものを認めながら,私たちがその人1人ひとりに最もかなった医療を提供しなくてはいけない。いわゆるいままでの科学だけではなく,アートも必要ですね。
 だから,長い経験を積んだ臨床家の経験というのは,大切なものとして教育にも利用されるべきであるけれども,その経験というものは,個性を直感的によく見抜く力も加わっていると思います。
福井 そうですね。カナダのグループは,EBMというのはあくまでもエクスターナル・エビデンスだと言っています。あくまでも過去の患者群についてのデータは過去のものであって,私たちはそれに,自分自身の経験を組み合わせることで,現在の患者さんに最も適切な判断をしようとしているわけです。そこで必ずアートと言いますか,価値観と言いますか,過去の患者さんのデータには表れない部分をどうしても考慮せざるを得ないというファクターが入ってくる。その意味で,EBMがcook bookでないということをぜひ強調しておきたいと思います。過去のデータは使いこなすものであって,従うものではないのです。
日野原 エキスパートは,使いこなすというアート的な面が残されているところにくい込んで,1例1例に上手に対応していくということでしょうか。
福井 そうですね。

EBMの活用法

福井 私は,多くの先生から,「EBMに基づいた診療ガイドラインを作って,医療保険の支払いで縛るのではないか」ということを心配しているとうかがうのですが,決してそうなってはいけないと思います。一律にこうするべきだ,というニュアンスでEBMが使われて,診療ガイドラインを作るのはよくないと思いますね。ガイドラインはあくまでもガイドラインで,自由裁量の部分は十分残すべきだと思うのです。
日野原 アメリカや日本でも,「こういう状態の病気に対してはツカミで,この程度のテストが許される」という保険報酬の定額制というのが実験されつつあるわけです。これまで日本の医療というのは,世界中でいちばん無意味な検査をやっていたとわかるでしょう。
 肝機能不全があると,肝機能全部を検査してしまう。そして,私たちは何も考えないで,出てきたデータで診断をする。病歴や,発病してから何週間たっているかという見通しから考えると,そのタイミングの外れた検査はあまり意味がない場合がよくあります。
 例えば心筋梗塞で,発症後ある程度時間がたっているのに酵素の試験をやるという時は,意味のある酵素と,発症直後に見るべき酵素と,そうでないゆっくり現れてくる酵素反応を見るのとは違うのですから,その病気のある時期における特殊性の検査はなんであるか,ということに的をしぼってやれば,より無駄なくやれる……。そういう時に日本では,教授回診で「これをなぜやらなかったのか」と言われたりする。学会発表の時になるべく多くのデータを出さなくてはいけないとかということもあって,何もかも一通りの検査をバッとやってしまう。
福井 本当に必要なものと,明らかに必要でないものとの仕分けは,きっちりしていく必要があると思います。その場合には過去の質の高い臨床研究のデータに基づいて判断していくことになります。EBMという手法を使うことで,結果的には不必要な診療を排除したとしても,反対に本当に必要なものは増やしていかざるを得ません。そのような意味でEBMは,単に必要でないものを見極めるための手法ではないと思います。
 本当に何がpatient outcomeに影響を与えるかということを,理詰めに突き詰めていく。そういう作業の手順を示すのがEBMではないかと思っています。

診断学との関わり

日野原 そういう意味からも,私はEBMを考える場合に,日本における“診断学”の構成を少し変える必要があるのではないかと思うのですが,いかがですか。
福井 そうですね。病歴情報の1つひとつが検査ですし,フィジカル・アセスメントも検査です。血液検査も当然検査ですし,すべては感度・特異度という指標でもって考えながら,診断学を真にサイエンティフィックなものに衣更えする必要があるだろうと思います。
日野原 私が,心筋梗塞をたくさん見てきて感じることは,前壁でも後壁でも,何でもすぐに一連の酵素の検査をバッとやるんですね。始まったばかりかどうかという時にでも,あるいはもう1日たっても3日たっても同じ検査をやるのですよ。
 例えば,GOTが上がる前にクレアチンホスホキナーゼが一番先に出るから,本当の初めだったらそれを検査するのがいいわけでね。他はいろいろなことをやっても,あまり役に立ちません。それより,白血球が増えるということで狭心症と心筋梗塞の区別ができてから,1時間ぐらい待ってもう1度心電図を取ると,その時には少し酵素反応が出てくる……というように,そういう何かの特異な値をよく認めて,最も無駄でない有効な検査をやるほうがよいわけです。いろいろな科学的な酵素の検査ももっと秩序立ててしなくちゃならないのに,いままでは,とにかく並べてこれをやるということでした。
福井 結局,心筋梗塞の検査の仕方も,きれいな経過表のグラフを書きたいという気持ちがどこかにあって,本当に治療に役に立っているかどうかは別というところがありました。なんとなく最初にそういうトレーニングを受けているものですから,全部の検査の結果からきれいにグラフを書かないと,何か手落ちがあるように思ってしまう。最初の擦り込み現象ですね。
 もう1度考え直せば,心筋梗塞の検査も,ひょっとして3分の1ぐらいで……。
日野原 それはもう的確に診断ができるでしょうね。それから血沈とCRPも,使い分けずに行なって,本当に無駄に情報を求めているということになります。
 日本では,なんでも即座に検査できる機器ができたから,20種類の化学検査をバッとやる。そうすると,考えないで出てきたデータで判断をするから,そこに時間の関数は入れないで読んだりする間違いも生じる。だから,すべて時間の関数によってデータを読む必要がある。そして,その時間は,問診以外には調べようもないこともありますね。
福井 そうですね。
日野原 そうすると,患者さんにとっては,自分の中の体の異変をどのような科学的な言葉で表現をするかという訓練が必要になりますね。もっと自分の中にあるレセプターを上手に言語化して,「この患者さんの言葉は信頼性がおける。それだったら,その言葉から考えていこう」というようになる。21世紀になって患者さんの参与がもっと加わると,効率的な診断もできるのではないでしょうか。

パラダイムの変革

福井 そうなると,私たちが訓練を受けてきたパラダイムも変えていかないとだめでしょうね。と言いますのは,「目に見えるデータだと質が高い」と思ってしまっていて,「患者さんが言うことは信用していいかどうかわからない」というふうにトレーニングされてきたと思うんです。
 ですから,そこのところを切り替えて,本当に診療に役に立つ情報というのはなんなのか,そういう視点からもう1度,すべての臨床上の情報というものを評価し直さないとだめだと思います。
日野原 患者さんの訴えることが真実であっても,心電図や,脳波,MRIに異常がないと,医師はそれを「何でもないです。大したことありませんよ」と無視する。しかし,それが後に病気の始まりの証拠になるということは起こり得ます。私たちの持っている機器をもって証明をしないと,患者さんからの情報は無視してしまうというようなことが実際にあるわけですから。
 私たちの体にあるレセプターは,非常に感度が高くて,どんな機器でも発見できない時にも,予告をしてくれるものがあります。それを,私たちはどのように引き出すかです。だから患者参与の健康教育というのは,ただ症状がこれこれあると教えるのではなく,もっと自分のインターナルな症状を,どういった言葉で表現をして医師の判断のデータに提供するか,というところにつながっていくのではないでしょうか。
福井 そうですね。エビデンスというのは,決して血液検査の結果や心電図ということばかりではなくて,言語情報も重要なエビデンスとして活用していくということが必要だと思います。
 本日は,どうもありがとうございました。