医学界新聞

 

 〔連載〕ChatBooth

 プロ意識に脱帽

 加納佳代子(八千代病院)


 私の妹は幼稚園の先生をしていたが,子どもが少し大きくなった頃,5人兄弟の三男である夫の実家に同居し,年老いた舅姑の世話をすることとなった。待っていたかのように舅が脳溢血で倒れて入院。彼女は,リハビリのための病院通いの合間にヘルパーの資格を取った。そして,何もできない姑と,寝たきりとなってしまった舅の世話をしながら,非常勤のヘルパーとして働いていた。
 10年後,自宅で眠るように亡くなった舅の葬儀は長男である義兄がとりしきり,三男の嫁は細々としたことを一手に引き受け裏方に徹していた。身びいきの母は, 「葬儀でもあの子は陰で働きづめだった。長男の嫁も,次男の嫁も何もしない。これからだってまたあの姑の面倒を見させられて,なんて不憫な」と嘆く。 「いいじゃないの,好きなんだから」 と妹の肩を持つと, 「そういえば,あの子は小さな時からお年寄りが好きだった。あんたは,障害のある子の面倒をよくみていたし,やっぱりそういうものかね」 と,突然私の話となる。
 母が言う障害のある子というのは,今でいう学習障害児のMちゃんのことなのだが,私の記憶の中のMちゃんは,私が髪の毛をとかずに学校にいくと手のひらにツバをつけながら手櫛で髪を撫でてくれ,上履きをいい加減に下駄箱に突っこむと,「しょうがないね」と言いながら直してくれた子だった。
 担任は,物わかりの早い私を使って,できない生徒のめんどうを見させていたかもしれないが,私にとってのMちゃんは,だらしなくしていても許してくれる心のオアシスだった。Mちゃんといる時,わたしはいい子ぶる緊張から解き放されていたから一緒にいたかったのである。そこが母にはわからない。
 病身の舅に慎ましく仕えた妹は,母や世間が思うよりもっとドライに割り切っていた。そして,他人の世話をするという仕事の中に自分の価値を見出していた。
 舅は,口ばっかりで言いわけの多い姑より,妹の提供するにくいほどに気のきいた,それでいてぴしっとさせられる介護テクニックを信頼していた。何しろ研究心旺盛な彼女は,
「舅の要求をさりげなくこなすのは,プロの腕を磨くよい機会だ」
 と割り切ってつきあい,
「私は嫁としてお世話しているわけではありません」と言い放っていた。その上,姑に任せられる仕事を細かに算定し,段取りをつけ,外でのヘルパー業の時間を作り出した。仲間の嫌がるトラブルの多い利用者を引き受けてうまくいった時には,「どんなもんだい」と鼻をふくらませて満足気にしていた。
 孫である自分の子どもたちにも朝の介護を分担させ,ショートステイと家族旅行を対で計画する。義兄や義妹には,
「時間のある人は時間,お金のある人はお金,愛情のある人は愛情をください」と言い,土・日は夫を含めた実の子どもたちでの介護ローテーションをこまめにマネジメントして時間を作る。そして,その日の夕食は自分だけ実家で済ます。姑からは,食事代に介護手当分を上乗せしてもらっている。すべては彼女の手中にある。そして,のたまう。
「家の嫁から開放されてヘルパーになっても,社会の嫁にはならないわ」
 わが妹のプロ意識に脱帽。